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アーモンド・スウィート 稲垣邦孝と一緒に歩く

 秀嗣は常々疑問に思っていた。なぜ邦孝は目的地もなく歩くのか?
 自分も、なぜ邦孝と一緒に目的地も分からず歩いているのか?
「邦孝ぁ。お前は、何所に行きたいんだ?」
 邦孝は無口である。彼が教室で誰かとおしゃべりをしていたところを見たことがない。たぶん男子にも友達はいない。女子にも居ない。学校で、授業意外の彼の姿を注意深く観察している訳ではないが。授業と授業の間の休み時間に彼は誰ともしゃべらず、ふざけたりしない。ハンディサイズの地図帳を開いて見ている。心はいつもここではない何処かに行っているようだ。
大人になったら、鞄一つを背負ってユースホテルなどに泊まって旅をする人になるんだろうと思う。
「お前は、なんで毎週毎週、歩いてるんだ?」
「…………」邦孝は真っ直ぐ前だけを見つめて歩いている。
「お前の父ちゃんはトラック運転手だろう。十八歳になってクルマの免許か十六歳でバイクの免許取って、それで好きなところへ行けば良いだろう」
「…………」
 毎週ではないが、こうして付き合っている秀嗣も暇なのかもしれない。
「母ちゃんは心配しないのかよ」
「…………」
 まあいいか、と思う。秀嗣も、ただ歩くだけで面白い。疲れはするが、
一日歩けば、家に帰ってお風呂に入る時に何か頑張った気持ちなる。
 邦孝は徐々に秀嗣と間を開けるように歩き出した。
 秀嗣の間に一メートルくらいの距離ができる。大きな声でしゃべれば会話が出来なくもないが、邦孝と秀嗣の間をすれ違う人が何人も通る。すれ違う人を気にせず大きな声で会話するのは、あまりにも子供じみた行為に感じた。「夕焼け小焼け」を大きな声で歌いながら帰る幼稚園年長組か小学一年生でもあるまいし。

 真っ直ぐ前を向いて歩いていた邦孝は、何かの拍子に足をグキッとやったようだ。足を引き擦るように歩き出した。
「大丈夫? 止まって少し休んでいこう」
 秀嗣は邦孝に声をかけ、足を止めた。
「…………」
 邦孝は秀嗣を無視して歩みを止めない。秀嗣も、ため息を一つするとまた歩き出す。
「痛いんだろう」
「おまえに関係ねぇ」
 邦孝は強情を張って、引き擦る足のスピードを少し速めた。
「無理に歩くと、足腫れるぜ」

 前方を見れば、五十メートルくらい先に人だかりが見える。
「あれ、何で集まってるかな?」と秀嗣。
 邦孝は人集りを向かって歩いてゆく。野次馬根性でもあるのか、何なにと首を突っ込んで、突き飛ばされて怪我でもしなければ良いがと秀嗣は思いながら、自分は人集りを避けるようにする。
「こっちこい、って!」
 秀嗣は邦孝の服の袖を引っ張った。邦孝は何を考えているのか、秀嗣が引っ張った袖を上下に大きく振り引き剥がした。
「うるさい! おれは真っ直ぐに進むと決めたら、誰の指図も受け付けない」
「いやぁ…、非常識だから」
 さらに強引に邦孝の服の袖を引っ張った。
 また邦孝は袖を引き剥がした。
  
 八十歳くらいのおばあちゃんの鞄を狙った引っ手繰たくりがあったようだ。近くに居た大学生カップルがその引っ手繰りの犯人を捕まえたようで、直ぐ目の前の店の主人と女将が警察連絡をして、逃げようともがく犯人を四人で取り押さえてる処だった。また、その四人の周りを五、六人の大人が囲み、警察の到着を待っていた。
 秀嗣は囲いを避けるように回ったが、邦孝は真っ直ぐに進み、囲いの前で止まった。
「何だ、君は!?」囲いにいた、五十歳くらいのごま塩頭の角刈りのおじさんが、邦孝に気付き言った。
「何でもありません」と愛想笑いをする秀嗣。逆に邦孝はごま塩頭のおじさんを下から睨んだ。
「周りなさい」愛想笑いの秀嗣を無視して、おじさんは邦孝に向かって言った。
「しっ、しっ。あっちいけ!」また一人囲いから離れて、秀嗣と邦孝に向かって、四十歳前後のおじさんが言った。
「犬じゃねーンだぞ。しっ、しっ。て、何だ!」
 急に邦孝は四十歳前後のおじさんに怒り出した。
「なんだと!」
「犬じゃねぇ!」邦孝は引かない。当然、大人である若いおじさんも引かない。年齢差、体格差、身長差のある二人が、歯をむくように睨みあった。
「謝って、行こう」秀嗣は、邦孝の背中を強引に掴み、人集りを回って連れて行こうとする。しかし邦孝は、足を踏ん張り動こうとしなかった。
「謝らない。謝るのは、こいつだ!」
「何だと!」若いおじさんは邦孝を殴るジェスチャーをした。邦孝は動じない。秀嗣も、大人なのに子供相手に血が上るなんてみっともないと思った。
「もうすぐ警察がくる」ごま塩頭のおじさんが、邦孝と若いおじさんの間に割って入るようにいう。
 ごま塩頭のおじさんの言葉が言霊になったか、自転車に乗った警察官が後ろにもう来ていた。
「ご苦労さま」と二人の警察官は敬礼をしながら、人集りなかに入っていった。ほどなく、パトカーに乗った警察官が三人も来た。
 パトカーの警察官が、引っ手繰りの犯人を車に直ぐに乗せて行った。入れ違いに、また別の警察官二人がどこからか来た。
 秀嗣はボケーッと警察官の動きを見ていた。相変わらず、邦孝と若いおじさんは睨みあったまま居た。警察官が何度か、「君たちは、引っ手繰りの現場を見たの?」と質問してきたが、その都度、「たまたま、ここを通っただけです」と秀嗣が答えた。

 のんびりした気分で警察官の活躍を見ていたら、若いおじさんが邦孝の胸を手で突いたらしい。直ぐに邦孝は握り拳で突き返した。
「てめぇ!」
「お前に、てめぇ、呼ばわりされる筋合いはねぇ!」邦孝は言葉でも負けなかった。
 そばで聞き込みをしていた警察官たちも、子供と大人の突き押し合いに気付いた。何なにと言った感じ、まあまあと言った感じで二人の諍いに割って入った。若いおじさんは大人の冷静さか、云うても世間的な常識があったからか、警察官から関心を持たれると、すぐに何事もない風に離れていった。
「おまえ、逃げるのか!」邦孝は、まだ直ぐには冷静さを取り戻せなかった。
「君、興奮しすぎだよ」と一人の警察官が言ったが、
「あいつ、俺を犬呼ばわりしたんだぞ! あいつも反社会性的人格じゃないか。警察官なら、あいつも捕まえろよ!」
「君も、あの男性と引かずに遣り合ってたじゃないか」
「あいつが先に、俺のことを犬だ。しっ、しっ、だ。身体を突いてきたんだぞ。おれは被害者だ」
「喧嘩両成敗という言葉知ってる? 君の言い分を聞けば、あの男性が常に悪いんだろうけど。負けずにやり返したんだから、喧嘩両成敗だと思うよ」
 興奮する邦孝を、警察官は何とか静めようと試みる。しかし、邦孝の怒りは収まらなかった。
 秀嗣は、何だか大事おおごとになりそうな気配を感じ、少し尻込みをしていた。
「邦孝ぁ…!」一応、呼んでみる。声が小さいのか、邦孝は無視した。警察官も邦孝に集中していて、秀嗣の存在が見えないようだ。「一緒に帰りなさい」とでも言ってくれれば連れて帰れるものを、邦孝しか居ないと思われているなら、元の道を戻って帰っちゃおうかなと思う。
「あのー? …………」もう一度、今度は、警察官に声をかけてみる。
 二人居たうちの一人の警察官が気付き、秀嗣に頷いた。しかし期待した言葉は秀嗣に返してくれなかった。
「君、家はどこ? 送って行ってあげる」邦孝に相対してた、もう一人の警察官が言った。
「………」
「パトカーに乗りたい? パトカーで送って行ってもいいよ」
「いいよ…。歩いて来たから、歩いて帰るよ」邦孝は首を横に振る。
「じゃあ、一緒に歩いて帰ろう。君のことが心配だからね」
 邦孝は渋々という顔で、二人の警察官と並んで来た道を戻って行く。
 秀嗣は、邦孝の家に一緒に行く義理がないので、どうせ無視されているし、邦孝と警察官の後ろ姿を見送ると、直ぐに脇道に曲がって自分家に帰って行くことにした。
 警察官に何となく居ないものとされた悲しさと、邦孝にも最期は無視された悔しさが、秀嗣の胸に残った。

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