27年

今日で27年。阪神淡路大震災から。

当時、私は高速道路が倒壊した区に住んでいたけれど、地盤が固かったのか家は倒壊を免れた。激しい揺れの中、食器が割れる音、家がきしむ音におののきながらも、まだ、その被害の大きさを知る由もなかった。

災害の中心地にいるとなかなか情報が入ってこない。笑い話じゃないけど、神戸で地震が起こるなんて考えてもいなかったので、神戸でこんなに揺れたのなら、東京は沈没しているんじゃないか、と正直思った。ラジオの予備の電池すら用意してなかったので、車のラジオで、震源地は淡路島北西部と初めて知る。夜が明けるにつれ、隣の家が傾いていたり、各所から煙がのぼる様子などがみられ、また一瞬通電したTVで高速道路が針金みたいにくねくねしながら倒壊した様子を見て被害の甚大さを知った。

翌日友人の安否を尋ねて2号線あたりまででた時、道路は車の大渋滞、リュックを背負った人々が西に向かってたくさん歩いていて、その上をヘリコプターが轟音をだしながら旋回して、戦争中みたい、と思った。戦争知らんけど。日本の何かの終わり、という感じをもった。
でも数日後、他県に住む姉のところに避難することになって、苦労してやっと大阪まで出たら、「冬のバーゲン」というポスターに溢れ、何も変わらない日常が流れているのを見て、はじめて泣いた。それから京都に行く満員電車の中で、涙が出続けた。

そこからだと思う。地震に遭っていない人の言葉にやさしさを感じながらも、わかってはもらえないだろう、というあきらめのような気持ちを持つようになった。
それはまた、震災でもっと被害を受けた人に、気持ち分かるよ、と言えないことでもあった。

地震を語ることは、神戸の地でもっと大変な目に遭った方に申し訳ない。生き残った私が、家族を失っていない私が、家も倒壊していない私の言葉は、語るにふさわしくないと思った。
また、毎年やってくる1月17日に何も発信したくなかったし、行事にもあまり参加もしたくなかった。

27年たった。
あの頃の若い母親だった私、怖かっただろうな、小さい子をかかえて野良の母猫みたいに張り詰めてただろうな、と思う。

語ったよ。


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