高丸安子(矢須子)さんは「黒い雨」に接したか。

 高丸矢須子という人物は井伏鱒二の「黒い雨」の主人公の一人であるが、実名は高丸安子さんで実存の人物である。彼女は広島県深安郡加茂村(現・福山市)で1925年6月27日に生まれ、1943年3月に深安実業学校卒業と同時に叔父の重松静馬氏(閑間重松)の斡旋で5月から広島市宇品町にある日本通運広島支店に会計係りの見習いとして就職し、広島市千田町2丁目862(通称・日新通り)の重松夫妻が住む借家に同居し、1945年8月6日に就職先の日本通運で原爆投下に遭い、その後、重松夫妻の安否を気遣い職場を離れるが、市内の火災を見咎め引き返した処へ重松夫妻が訪れ、昼食後に爆心地付近を抜けて静馬氏の職場がある、古市へ向かう。

 ちなみに、高丸安子さんが卒業された深安実業学校は現在の広島県立神辺高校の前身でもあり、いわば私の先輩でもあるのだ。昨年、この事を小畠在住の重松文宏氏に電話で伝えたら驚いておられた。
 さて、高丸安子さんが原爆投下後に「黒い雨」に接したかどうかが、多々言われているが、結論的に、「黒い雨」にも接しているという応えを電話で重松文宏氏からいただいている。
 その証明の一つとして、「重松日記」の8月14日の日記に「大自然の道理に反しております国が、」という文章もあり、


 また、重松静馬氏の妻の茂子さんが神石郡原爆被害者協議会に寄せられた原爆体験記(もうごめんだ)には大粒の雨の事も書かれてあり、結果的には3人共に「黒い雨」にも接したいた事にもなる。

 そして、安子さんの場合は原爆直後に重松夫妻の安否を気遣い、一度は勤め先の日本通運から外出し、途中で引き返してはいるが、大瀧雨域から推測しても「黒い雨」に接していないとは言い難いのだ。そして、安子さんは生まれ故郷に戻り、その後、重松氏の紹介で1946年に深安郡山野村(現・福山市)の松井豊氏(重松氏の従弟)と結婚し、二人の子を授かるが、子どもが髪の毛を悪戯で引っ張ると、まとめて抜ける事から福山市(神辺)?の藤田医院(病院)で診察を受けると原爆病と診断され、1960年1月21日に心臓病で35歳にして死去されました。


(つづく

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