船橋市は兵站の街として発展した①

 この記事を読んでいただいているあなたはどのように思われるかわかりませんが、私が現在、住んでいる船橋市というのは「兵站」の街とし発展を遂げたと書いても過言ではないでしょう。
 では最初に『「兵站」へいたん』とはいったい、どういう言葉なのかを簡単に説明します。「兵站」とは、「補給・輸送・管理という3つの要素から成立つ総合的な軍事業務で、戦闘地帯へ後方から必要な物資や兵員を配置するといった活動全般を指す。」とされています。

 では、まず最初に船橋(町)がこれのどの部分が「兵站」なのかという事ですが、「補給・輸送・管理」のほぼ全てに当て嵌まるでしょう。その一つ目としてあげられるのが、何度も書いてきた軍事の通信業務を担なった「船橋海軍無線電信所」でしょう。つまり、上記の図の「戦術・作戦・戦略」には軍事的には無線通信が必要で、これに関しては今なお且つ記念碑まで建てられ碑文によれば、開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ」は当然のように記してあり、「船橋のシンボルとして市民に親しまれていた…」と結ばれています。そして、この全体の文章を読んでわかるのは、どのように考えても「戦争賛意」か「戦争賛美」の文章でしょう。

 さて、船橋市は8万人くらいの人口から戦後になって急激に増え始め、いまや60万人都市となっているのは、船橋市がベットタウンである事が指摘されています。これには、「兵站」としての鉄道網が増えたことです。船橋市は現在、総武線・野田線・地下鉄東西線・武蔵野線・北総線・京葉線・東葉高速鉄道・新京成線」などの路線が市民の足となっています。
 この内の「総武線・野田線・新京成線」などは軍事色の濃い軍事路線といっても差し支えないでしょう。津田沼からの新京成線はいうまでもなく。習志野演習場を繋ぐ「鉄道第二連隊」として、兵站兵を乗せシベリア出兵にも関与したとされています。

(つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?