井伏鱒二の「黒い雨」への批判に応える②

 続いての記事がずいぶん途絶えましたが、これには些少訳がありました。
さて、井伏鱒二が書いた原爆文学としての「黒い雨」ですが、前記事でも書きましたが井伏鱒二が「黒い雨」で伝えかったのは国家への「反戦・反核」であり、その第一資料として使用したのが、重松静馬氏が書かれた「重松日記」です。

 井伏鱒二氏と重松静馬氏との交流の始まりは原爆投下から2年後の1947年5月井伏鱒二が疎開のために深安郡加茂村の実家(現・福山市)に帰省していたところを重松氏が知り、当時、小畠村在住の重松氏が、小畠村には代官所跡に古文書が残されていた事から、それを解読してみないかとの誘いを受けて井伏氏が小畠村を訪れて古文書を解読したところから始まるのです。井伏氏がそれをもとに、小説にしたのが、井伏鱒二全集の中に「小畠代官所」でまとめられていて、「小畠村の話し」「開墾村の与作の陳述」「片割れ草子」「御用控え帖」などで、「備後小畠村というのは広島県の東部丘陵地帯に割り込んでいる一村で、この村のなかに、小畠町という古めかしい町がある。」という書き出しで始まっている文章で、神石郡のほとんどと甲奴郡の一部などは、江戸時代の初期から最末期にかけて九州の中津藩の飛地だったのです。飛地ですから、取締りも酷く、差別意識も強かったようです。ですから、「黒い雨」を読めばわかるのですが、矢須子(安子)さんの結婚話しに広島であった原爆に対して、差別が生まれたのです。『安子さんは「黒い雨」にはあたってはいなかったと』先日、上京されていた、静馬氏の娘婿である、重松文宏さんに尋ねたらそのよう言われ、静馬氏と妻の「しげ子」さんの二人は「黒い雨」にあたったと仰っておられました。
(以下参照)

 
 

 

 つまり、これらからも、「黒い雨」の生成過程の一部として利用されたと思われます。興味がある方は井伏氏の「小畠代官所」も読まれてみて下さい。小田川沿いに百姓一揆を企てた罪人のための刑場などもあったようです。
 そして、代官所跡地の現在は神石高原町役場や町立病院、高齢者施設などとなっています。さらに、近くの井伏鱒二の「文学碑」が設置してある「つつじヶ丘公園」は代官所の庄屋の本家があった場所で静馬氏が「クルミ」の木を植樹されたそうです。
(つづく


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