井伏鱒二の「黒い雨」への批判に応える①
広島・長崎に米国による原子爆弾が投下されてから今年で79年を迎える。そして、今年の広島での記念式典は特に異様と思える警備体制の下で開催されるからだ。そのひとつとして、今年もロシアは招待しないで虐殺国のイスラエルを招待するからだ。先日の松井広島市長の会見において、『「黒い雨」訴訟』の著者でもある、元・毎日新聞記者の小山美砂さんが、これを追及された。それを、全国紙記者の宮崎園子さんが文字起こしされていますので、まず、お読み下さい。
ところで、以前にもブログなどで少々触れたが、井伏鱒二の「黒い雨」は多くの批判も浴びている。その中で最近では小山美砂さんが書かれた『「黒い雨」訴訟』の「あとがき」において、「井伏鱒二の『黒い雨』は有名でも、黒い雨を浴びた人たちが、どのような健康被害を訴え、またどんな境遇に置かれたきたかを記したノンフィクションが存在していなかったことが一因にあった。』と、書かれている。
しかし、井伏鱒二の「黒い雨」は原爆文学であって、反戦、反核思想と、被爆者への差別に批判していて、原爆告発の意思を表した著作であり、ノンフィクションとして重松静馬の「重松日記」を第一資料としており本人合意のもとで起用している点だ。
そして、「黒い雨を浴びた人たちが、どのような健康被害を訴え、またどんな境遇に置かれたきたかを記した」などは、十分に書かれている。例えば、姪の矢須子(高丸安子)さんだが、「黒い雨」に接していた事は十分に推測できるし、それに被爆防護もせず、爆心地付近を歩いたことや、汚染された川に入った事などである。また、境遇などについては、井伏鱒二が「黒い雨」の冒頭で「この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで。心に負担を感じて来た。……」から始まる文節もそうだ。実際は重松日記に記載があるが、高丸矢須子(安子)さんは静馬氏の紹介で宇品にあった日本通運の会計見習い業務に深安実業学校(現・広島県立神辺高校)卒業(1918年)と同時に就職し、1920年8月6日の原爆投下の朝を職場でむかえている。ちなみに、宇品にも当然、黒い雨の雨域として証明されていてる。
【「黒い雨」にあたって出る主な症状】
二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの放射線障害
ちなみに、姪の安子(矢須子)さんも頭髪の脱毛もあり、重松日記においては嫁ぎ先で心臓病で35歳で亡くなられいる。
そして、広島県神石郡原爆被害者協議会から発刊された、被曝40周年記念誌には重松静馬氏の妻のしげ子さんが「もうごめんだ」という被曝体験記を寄せられていて、安子(矢須子)さんを迎え行かれる途中で「黒い雨」が降ったことも書かれている。すなわち、重松一家全員が「黒い雨」にも接していた可能性が推定できるのである。また、井伏鱒二の「黒い雨」においても練兵場などで降雨があったことなどが、記されている。
ちなみに、姪の安子(矢須子)さんだが、卒業された深安実業学校は現在の広島県立神辺高校で私が卒業したのも、この高校で、いわば先輩である事を、小畠にある、志麻利の重松文宏先生に報告させていただいたら、驚いておられ、いつでも来館して下さいと仰っていただきました。
志麻利はこちらです。
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