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雑談*その人の未来は

作中の表現はフィクションであり、この世のすべてと関係ありません。

*o.w.
地面から湿気が立ち上り、あたりをじりじりと蒸している。
まだ日も低い位置とはいえ、Wの額には汗が滲んでいた。
つい先日梅雨が終わったばかりの中庭は、青々と緑が茂って目に眩しい。元気なのは良い事だけれど、その分雑草も跋扈しているのが厄介だった。土が硬くなる前に引き抜いて、それから庭木の手入れや鉢の植え替え作業をする。これで太陽の季節も乗り越えられるはずだ。

庭仕事がひと段落して、Wが中庭を見渡すと、珍しい姿が目に入った。
木陰のベンチに、Oが腰掛けている。——いつかもこんな日があったな、と想起する。
Wは土に汚れた道具を一通り水ですすぐと、Oの隣に腰を下ろした。その脇に、洗った道具たちも並べておく。この陽気ならば、お喋りの合間に乾くだろう。 

*

「どうです、この庭もすこし趣向を変えたんですよ。先日の雨で紫陽花が元気になっていたので、挿木に挑戦しているんです。うまく根付くといいのですが」
「あー、……たしかに、鉢植え、増えてるかも」
「あんまり草木には興味ないですかね?」
「いつも綺麗だなーと思ってばかりで、くわしくは解っちゃいなかった」
「そうでしたか」

どうせ素人が手慰みにいじっているものだ、綺麗と思ってもらえているならそれだけで有り難い。
とはいえ、彼は庭を見にきたという訳ではなさそうだった。

「それで、O君。なにかお話したいことでも?」

Wは軽い調子で話しかけるが、対するOの様子は冴えない様相だった。ふらりと背もたれに体を預けて、中庭を眺めている。その実、どこにも焦点があっていないような、記憶を探るような眼差し。彼は気まずげにWとは反対側に目をそらし、それからまた、俯いた。

「センセー、……W先生。いい人ばかり先にいなくなっちまう。なんでなのかな」
「誰かいなくなってしまったんですか?」
「ああ」
「君にとって、好ましい人だったんですね」
「そうなんだ」
「もう戻ってこないということですか」
「そうなった。……突然ことでさ。一日前まで元気な声を聞いて、これからもそうだと思っていた。なにより、その人には未来があった」
「ふむ。未来ですか」
「俺にはない未来だったんだ」

未来、という単語を口の中で転がす。Oが指しているのは未来の何だろうか。才能?機会?可能性?たしかに人それぞれに固有のもので、同じものはない。しかしそれは同時に、世の中に有り触れているということと同義だ。ならば彼は何を惜しんでいるのだろうか。
いい人ばかり。
彼にとって好ましい人ばかり。
にわかに、舌の上へ仄かに苦味が混じったようだった。朝から外にでていたから、水分が足りていないのかもしれない。

「君にとって好ましい人ばかりが、先にいなくなるのは、当然のことですよ——そうでない人のことなんて、O君の眼中にないというだけのことです」
「は? 俺の匙加減ってこと?」
「ええ。世の中で話題になる人の死なんてそんなものです。過失があった人には"当然の報い"。思い入れのあった人には"惜しい人をなくした"。そしてどうでもいい人については、話題にすら上がらない。結果的に、惜しい人ばかりが、先にいなくなるんです」
「叙述トリックかよ」
「ふふ、少し元気出ました?」
「センセーがはぐらかすような言い方するからだろーが」
「そうでしょうか」
「そーだよ。でも……確かにそう、なのかな。いい人ばかりがいなくなるのは、俺がいい人ばかり気に入っているからだ。俺がいなくなってもこうはならねえ」
「君も君で、含みのある言い方をしますね」

意趣返しとばかりに、Oが片眉を跳ね上げて見せる。少しは気分が乗ってきたようだ、ベクトルはともかくとして。Wは肩をすくめて見せる。

「その人がいなくなってしまってから、世界が欠けたようになってしまって、他の何でも埋められない。ふとした瞬間に、喪失感でたまらなくなる。この世界に優先順位があるのであれば、それこそ俺の方が先になくなるべきだっただろうと思うのに、」
「そうなったらB君が悲しみますよ」
「はん。あいつは全ての人間に対してそうだろ。俺が特別ってなら、居候させてる貸しがあるくらいだ」
「その側面も否めませんけれどもね。——O君の気持ちも、わからなくありませんよ。私にとってはこの庭いじりが、墓参りみたいなものですから」

WはOに微笑みかける。
ざわり、ぬるい風がこずえを揺らした。

「墓?」
「まあ、気持ちの上だけですよ。昔ね、私にとって好ましい人がいなくなってしまったので、その人が好きだった樹を植えたりしているんです」
「ふうん……ええと、ご愁傷様?」
「ふふ、ずいぶん前のことですからね、お構いなく。でも、ありがとうございます。それでいえば、O君こそ…残念さまでしたね」
「なんだそれ」
「聞く限り訃報ってわけでもなさそうだったので」
「それはそう」
「君の話ぶりからするに、とても惜しい方だったようですね」
「ああ。俺の知らないどこかで生きていてくれると信じてはいるが、墓があったら——毎日通っているだろうなぁ」
「相当ですねえ」

Oは庭の緑を眺める。濡れた地面や葉に照り返した光が、その額や頬をわずかに明るく彩っている。

「すごい、いい人だったんだ。本人は才能がないって言うこともあったけど、すごい努力家で。まっすぐで。憧れの姿に近づこうって勉強もしていたし、自分にしかできない事をしようって新しいことを試していた。周りの人をリスペクトして、その人に必要なサポートをしたり、その人が気づいていないようないいところを誠実に言葉にしたり……。そりゃ全部がベストな形だったわけじゃなかった。本人の目標にはまだまだだって言ってた。でも、どんどん輝きを増して行くのが目に見えて、その姿を目の当たりにできて本当に……嬉しかったんだ」

庭木にかかった水溜りに、カゲロウがひらりと舞い降りる。

「もっともっと先を見ている人だったんだ。その未来を、一緒に見たかった」

びり、と痛みが伝わるような心地がした。
無論そんなものは錯覚に過ぎない。Oの気持ちがわかると言ったものの、他人と同じ気持ちになることなんてありえない。まして、WはOの言うその人のことを知りもしないのだ。
だから、これは勝手な錯覚であり、妄想であり、Oの言葉をきっかけに自分の内面から出てきたものに違いなかった。

「そうだね」

だから、Wの口をついて出たのも、自分勝手な慰めの言葉だった。

*

いつのまにか握り締めていた拳をWが開くと、かたわらに置いていた道具に指が触れた。日が高くなり、日向にさらされていた金属が熱くなっている。とうに水分は乾いていた。スコップ、雑草抜きピン、じょうろ、予備の鉢、それから。
しばらく意識の外にあったそれを、Wは手に取った。

「これ、君は見覚えありますか?」
「なんだ、お菓子の缶?なんか懐かしいやつ……ばーちゃんちにありそう」
「ふふ、おばあさんの家ってなぜかお菓子の缶をお裁縫箱にしてますよね。あれって世界的にみられる傾向だそうですよ。——と、話が逸れました。これは花壇に埋まってたんです。タイムカプセルでしょうか?もっとも、中身は空っぽでしたが」
「ほーん?なんでまた」
「さあ?誰かが埋めたんでしょう。君にも覚えがないということは、もっと前の住人かもしれませんね」
「ふうん。美味しいとこの店だな」
「お土産でしか見たことないやつです。O君なら、何を入れますか?」

WはOに箱を手渡す。
金属の箱は洋風の伝統模様にあわせて凹凸に細工されており、上品な仕立てになっている。

「なんだろなぁ。日記とか?」

丁度、ノートが入りそうなサイズだし。
Oはしげしげと箱を眺めて、目を細めた。
蓋に光が反射して、瞼にキラキラと照り返っている。

「いいアイデアですね。よかったら使ってみますか?」
「貰って良いのか?」
「是非。持ち主もいないので」
「じゃあ、遠慮なく」

太陽に照らされて、緑の匂いが一層濃くなる。
季節を先取りした蜻蛉が、ゆらりと頭を掠めていった。

*

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