退屈がお好きなら、ちょっと薦められない

映画「終わりゆく一日」公式サイトのために書いた推薦文です。上映は終わってしまいましたがDVDが発売されたので、もし興味を持ってくださりご覧いただくことがあれば、推薦者冥利に尽きるというものです。

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看板に偽りあり。それも、面白いほうに──。これが「終わりゆく一日」を観てまっさきに思ったことです。

なぜこのコメンタリーの役目が私のところに回ってきたか最初にお話しますと、私、ネット上に無数にある「ライブカメラ」というやつの軽いマニアでして、もう20年近く、結構な数の定点カメラを見続けてきました。仕事中も、客先でも絶えずデスクトップに立ち上げているもんですから、周辺からは最早ちょっと可哀想な人として認識されておりまして、その音が配給宣伝の方に伝わった、いう経緯であります。

それでこの「終わりゆく一日」、ほぼ全編がチューリッヒ市街の風景を映した定点カメラ映像、という触れ込みでしたから、超有名どこで言えばウォーホルの「エンパイアステートビル」みたいなミニマルムービーの類いかな、チューリッヒ市街のライブカメラ映像をフィルムクオリティで何時間も見れるんだ、と期待して臨んだんですが、完全に裏切られました。定点カメラじゃないんです、ぜんぜん。

確かに三脚は固定。でもカメラはもうね、すっごい動く。広角で撮っていたかと思えば超望遠までズームして飛んでいる鳥を見せてくれるし、走り抜ける車があれば左から右にパンしまくって追っかけてくれる。ライブカメラにも少しは動かせるタイプがあるんですけど、ぜんぜん次元が違って、撮影者の興味対象を自在に追いまくるダイナミックなカメラなんです。

しかも用意された素材は15年ぶん。15年回したフィルムからつまんで2時間ですよ? そんなのもうトピック満載で当然で、次から次へと起こる出来事が、観る者をちっとも退屈させません。だから冒頭の言葉になりますが、定点カメラという言葉がイメージさせる退屈とは、この映画は無縁と言っていいでしょう。アクシデント映像集と言っても過言ではない。

退屈──、左様、定点カメラは本来的に退屈なものです。私がもっとも長い時間見続けてきたライブカメラは、「福島の窓から」という会津若松駅のホームをただただ固定で映し続けるもので、ローカル線なので人もまばら、何も起きません。ごくたまに女子高生が転んだりもするけど、それは超おまけ。ライブカメラ愛好者とはすなわち、退屈に耽溺する者を指す言葉であります。

もしあなたがそういう、退屈だとうっとりしちゃうタイプの人間だとしたら、この映画は肩すかしを食らうことになると思います。この映画は起伏に富んだ、もっとずっと、キャッチーでエンタテインメントなものですから。

キャッチーついでに言うと、監督トーマス・イムバッハの過去の仕事からでしょう、「終わりゆく一日」も高尚で前衛的な、いわゆるアートフィルムの分野で流通せざるをえないのかもしれませんが、実際のところは、とても身近なテーマで親しみのある、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、たとえば「ハイ・フィディリティ」とか、なんなら「モテキ」みたいな、「情けなくて腑甲斐ない男の子もの」とでも言うべき系譜の映画ですよ、これは。

この映画でストーリーを語るのは、イムバッハの仕事場の留守電に録り貯められた音声。人はどんなとき留守電を吹き込まれますか? 電話に出ない──、つまり逃げまくってるんです、この監督≒主人公。冒頭、主人公は駆け出しの映画監督で、恋人がいます。母親から家族の事情について相談があっても、出ない。超シンパシーですよ、かったるいもんね。映画のエージェントからは、売り込みに失敗したとか成功したとか留守電が残される。うわー出たくない!

しばらくすれば恋人は妊娠して、でも仕事場に行くって告げて、あんま家には帰ってない様子。挙げ句子供が生まれると、やっかいな子育ては嫁に押し付けて、嫁はもう限界!って吹き込むし、子供はパパとのメイン連絡手段が留守電になる始末。でも主人公は仕事場にこもって、窓の外に向けて、ただただカメラを回し続けてる。何を撮ってると思いますか? 向かいの工場で働いてる美人をえんえんストーキングしてるんですよ。

すごく親近感の持てる、情けない男の子だなーと思いました。手法のレアさからメディアアートみたいな文脈で語られてしまうこともあるかもしれませんが、気弱な男の子と、そういうへなちょこ男子が嫌いになれない文系女子の皆様は、ぜひご覧になって、身に憶えがありまくったり、やきもきしたり、苦笑いに包まれたりしたらいいのではないかと思います。繰り返すけど、退屈しませんから。(了)


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