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瀬織津姫神さまについての考え方①

イーハトーブ心身統合研究所の、

清水友邦さんのお話


瀬織津姫(セオリツ姫)は、

大祓詞(おおはらえのことば)に

ミソギを司る、祓戸大神(はらえどのおおかみ)として登場しますが、

古事記、日本書紀には全く出て来ないので

謎の女神と言われてきました。

瀬織律姫の名前が出てくる古文書はごくわずかで

「大祓詞(おおはらえのことば)」と

伊勢神道の神道五部書(しんとうごぶしょ)ぐらいしか見当たりません。

伊勢神宮の十別宮のうち、第一別宮である荒祭宮では、

天照大神の荒魂として、向津媛(ムカツ姫)を祀っています。

伊勢神宮の神道書「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」では、

荒祭宮祭神の別名を瀬織津姫、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)

としています。

大祓詞で最初に罪の出現が語られ
後半は筆頭の祓戸の大神、瀬織津姫による罪の消滅が語られます。

大祓の神事は、701年に制定された大宝律令(たいほうりつりょう)に規定されていて、朝廷に仕えている天皇の親族、官僚は参加が強制されていました。

大宝律令によって各地の大王は、政治的実権を追われ中央政府から任命される国守に代えられました。

古代の日本では天災や疫病は、憎しみや怨みをもった怨霊のしわざと信じられていました。

右大臣に昇進した菅原道真(すがわら の みちざね)は、左大臣の藤原時平(ふじわら の ときひら)の讒言(ざんげん)により流罪になって恨んで死にました。菅原道真は、怨霊となって天皇が住んでいた清涼殿(せいりょうでん)に雷を落とし、多くの犠牲者を出しました。

それにより讒言(ざんげん)を信じた醍醐天皇が病に伏した後に、崩御されてしまいました。
流罪に関わっていた藤原時平の弟の藤原忠平(ふじわら の ただひら)は菅原道真を祀る北野天満宮を建立したので、怨霊は藤原時平の子孫に祟ることになりました。
怨霊は時平と繋がりが深かった醍醐天皇の皇太子と時平の子孫たちを次々と死に追いやりました。

さらに天変地異、伝染病次々と起きたので人々は、菅原道真の怨霊による祟りだと噂しました。

天満宮を建立したおかげで、生き残った藤原忠平(ふじわら の ただひら)は政治の実権を握り、摂政関白の職を独占するようになりました。

古代では祟を恐れて勢力争いに敗れて祓われた神を鎮魂する必要がありました。

大祓の神事は運命を握る重要な神事だったのです。

イザナギが黄泉の国から戻ってきたときに汚い国に行ってきたので体を洗うと、洗い流された黄泉の国の穢れから神様が生まれました。

その名を『古事記』では
八十禍津日神(やそまがつひのかみ)大禍津日神(おほまがつひのかみ)といいます。

伊勢神道では瀬織津姫が災いをもたらす八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と同じ神としています。

江戸時代の国学者、本居宣長は禍津日神(まがつひのかみ)を悪神だと考えていました。

復古神道を唱えた平田篤胤(ひらたあつたね)は『鬼神新論(きしんしんろん)』で

「禍津日神(まがつひのかみ)は世に穢(きたな)らしい事が起きれば、激しく怒り、凄まじい凶事を起こす大神だが、常には大きな御功徳(おんくどく)を授けてくれる、またの名を瀬織津姫という祓戸神であり、世の災難や罪穢(つみけが)れを祓ってくれる、善い神である。」

と述べています。

荒魂(あらみたま)が怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは

禍津日神の分霊の働きによるもので

直毘神(なおびのかみ)が和魂に働くと荒ぶる心が鎮まるとします。

人間の心は、禍津日神(まがつひのかみ)の分霊と直毘神(なおびのかみ)の分霊を授かっていると考えました。

瀬織津姫の名前がついている神社が

高千穂の瀬織津姫神社と気仙沼の瀬織津姫神社と金沢の瀬織津姫社と
三社あります。

金沢市の瀬織津姫社は瀬織津姫という名前の神社にもかかわらず

祭神が瀬織津姫ではなく多くの禍をもたらす穢れた神である禍津日神(まがつひのかみ)として祀られています。

越中国一宮の高瀬神社の祭神は、「大己貴命(大国主命)」「天活玉命」「五十猛命」となっていますが、

昔の記録では主祭神を「市杵島姫命・瀬織津姫命」と明記しています。

瀬織津姫社の創建当時の祭神も瀬織津姫でしたが、変えられてしまったのです。

時の権力者にとって瀬織津姫は都合の悪い女神だったのでしょう。

瀬織津姫の名前は公的な古事記・日本書紀に全く記されませんでした。

藤原氏は日本書紀を自分たちに都合良く編纂したと見られています。

縄文から弥生、古墳時代と戦いが起きると男性原理が優位になってきました。

しかし縄文時代は女性原理が強く影響していたので女性がリーダーになると争いは治まりました。

女性天皇は古代にしかいません。

日本の古代は母系でした。

血統と財産は母から娘へ受け継がれました。

3世紀後半の古墳時代までは卑弥呼のように女性がリーダーでした。

古事記が編纂されるまでの間には、名前が残されていない女性の大王(オオキミ)が大勢いたのです。

大阪府南河内にある建水分(たけみくまり)神社は瀬織津姫が祀られています。

楠木氏の氏神でもある建水分神社は、祭神の中央に天御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)が祀られ、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)として瀬織津姫が、左殿は天水分神としてミズハノメ(罔象女神)が祀られています。

国之水分神(くにのみくまりのかみ)は、天之水分神(あめのみくまりのかみ)と対をなす古事記に登場する神で

「速秋津日子命・ハヤアキツヒコ」と「速秋津比売命・ハヤアキツヒメ」の間に生まれた、農業用水を司る神です。

どちらも水の女神です。

稲作は水を必要とします。

建水分神社がある千早赤阪村は平地ではなく棚田が残っている山地でした。

大阪府富田林市にある美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は
左殿に天水分神、ミズハノメ(弥都波迺売命)右殿に国水分神、スセリヒメ(須勢理比売命)が祀られています。祭神は大国主命の荒御魂神である美具久留御魂(みぐくるみたま)大神という事になっています。

美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の

大国主命と須勢理比売の関係は

ニギハヤヒと瀬織津姫の関係と対応しています。

島根半島の津上神社(つがみじんじゃ)の祭神は瀬織津彦神と瀬織津姫となっています。

男性の天皇制の前に軍事リーダーの男性のヒコ(彦・比古)と祭祀を司る女性のヒメ(姫・比女)の時代があったのです。

正妃を「むかひめ」嫡子を「むかひめばらのみこと」と読むようになったのは神武記あたりからです。

正妃とは父系社会の条件づけであって母系社会に正妃はいませんでした。

日本では、家父長制が入ってきても完全な父権社会に移行せずに、母系と父系の折衷としました。

平安時代まで通い婚がおこなわれ、推古、斉明、持統と何人もの女性天皇が即位しています。

歴代の天皇は母系社会の慣習で、子供は母親の実家で育てられたので母方の外戚が権力を握ることができたのです。庶民の風俗では昭和になるまで通い婚が残っていました。父から子への男性原理による中央集権が確立されると女性の地位は落とされていったのです。

相撲の土俵もそうですが、女性は穢れた存在として神聖な山は入山禁止になりました。

競争、利益の計算、戦いにあけくれる男性原理が優位なのが現代社会です。

陰極まれば陽となす

片方の極に傾いた時はバランスをとるために反対の極が動きます。共生、平和、融合の女性原理が表に出てきます。

世界は男性原理優位から男性性と女性性の統合の時代が始まっています。

いまだ家父長制の亡霊のような政治体制になっている日本ですが

女性性の象徴の女神である瀬織津姫が表にあらわれてきているのは、

日本が危機状態にあるからだともいえます。

鎮魂法は、人間が生きながらにして神となることを意味しています。

そのことを「本霊」(もとひ)や「直霊」(なほひ)になるといいます。

それは自己の本質に帰ることを意味しています。

人間の本質は神(全体性)なのですが、

自我という思い込みが覆っているために、

自分が神であるということを忘れてしまっているのです。

自己の本質の上に、偽りの自我という思い込みの罪が覆っています

ミソギによって

罪(思い込み)を払うことができれば、自己中心的な自我から自由になります。

あらゆる命は、母なる地球という同じハラから生まれた兄弟姉妹とみなす、深い一体感が生まれます。

その罪を消滅させる、禊と祓いの筆頭の女神が「瀬織津姫」です。

これから闇に光が当たり、隠された真実が明るみになっていくことでしょう。



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