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【山形】出羽三山参り、山形県の神社、寺院 ⑧2017年、鳥海大物忌神社 蕨岡口宮と龍頭寺

鳥海大物忌神社 蕨岡口宮

式内社 出羽國飽海郡 大物忌神社 名神大
出羽國一宮
旧國幣中社

御祭神
大物忌神

蕨岡口宮の伝承

吹浦とは別の縁起が伝わる
蕨岡の「鳥海山記并序」
(宝永6年、1709年)では、
役行者が開山したとする前提で、
行者がはじめて山に登ったとき、
「鳥の海」をみたことから
「鳥海山」と名づけられたとしている

なお、社の創建のとき、
山に名称はなく、
現在の「鳥海山」という山名が
できた由来には諸説あり、
山上にあって霊鳥が生息すると
言い伝えられる
「鳥の海」によるとする説が有力である。

蕨岡に伝わる他の縁起では、
「鳥海山縁起和讃」
(嘉永5年、1852年)に、
天武天皇のとき、山の神の命により、
役行者が山中に出没する鬼を退治し、
開山したと記されている

この縁起は、
吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の
創建とする説よりも
年代を古い説を唱え、
対抗しようという意図がみられると
される。

関連して、蕨岡の東之院興源は
「出羽國一宮鳥海山略縁起」
(安政4年、1857年)の中で、
役行者が山中に神の眷属である
三十六王子を祀り
山の守護神としたという記載があり、
実際に、蕨岡では
山道に三十六王子を祀っていたという。

神紋、随身門

酒田市の有名な人物といえば、
本間光丘、でしょう!

江戸時代、出羽酒田の豪商である。
酒田本間氏第3代当主。
本間家は、当初
相模国愛甲郡本間村にいたため、
本間氏を称したとされる。
子孫は鎌倉時代初期、
佐渡および越後に移り、
その分家が足利季綱のとき
出羽庄内に移る。
光重(光繁とも)に到って
永禄年間、酒田に住んだ。
庄三郎のときに酒田の長人になり、
家は次第に栄えた。

光丘もまた長人となり、
父祖の志を体し、奉公の念厚く、
経済の理に通じ、最上川の水利を治めた

天明の大飢饉では金穀を施し
宝暦8年(1758年)には
資財をなげうち
酒田の西浜に防砂林を植える
など、
功績が多かった。
宝暦12年(1762年)、
庄内藩はこれを賞して光丘を町年寄とし、
明和4年(1767年)には
士格に列し、小姓格となした。
酒田港口に灯台を建てたり、
藩士の借財を整理して
本間家の低利な資金に借り換えさせた。

明和5年(1768年)に
酒田・鶴岡の両城普請掛を命じられ、
備荒貯蓄米24000俵を献じた。
功によって500石30人扶持を給せられた。
庄内藩主・酒井忠徳の命をもって
光丘が藩の財政改革に携わる

山形県酒田市には
光丘を祀る
光丘神社(ひかりがおかじんじゃ)
鎮座する


この本間氏の功績は、多大なものですよ!
この人が関わったところは、
たくさんあります。


直角に入ります。

蕨岡口宮といえば、

2014年公開の映画
『るろうに剣心 京都大火編/
伝説の最期編』
では、
蕨岡口ノ宮の境内で
ロケ撮影が行われており、
緋村剣心と沢下条張が決戦を行う
京都の神社として撮影されました。

威風堂々としていて、
彫刻などの余計な装飾もない。
まことにシンプルな御社です。

吹浦口宮とは、
まったく違うものを感じます。

この拝詞の、「綾に綾に」は、
出羽三山の拝詞にも出てきます。
意味とすれば、
なんとも不思議に。言い表しようがなく。

この最後の2行には、節回しがあります。

拝殿の中に入らせていただきました。

持って行った、
タイガーアイの龍神さまが、
緑色になっているのがわかりますか?
この中、なぜか緑色の靄が
かかっているような感じなんです。
垂れ幕も緑色ですが、
扉の入り口から覗いて、驚きました。
鳥海山の、大きな山懐といいますか、
このどっしり感は何とも言えません。
吹浦口宮とは全然違います。

ニホントカゲの幼体。
わたしの靴に乗っかっていました~!

荘照居成神社

創建は弘化3年(1846)、
庄内藩主酒井家の長岡藩
(新潟県長岡市)転封阻止に尽力した
矢部定謙(江戸町奉行)の顕彰の意から
大物忌神社(蕨岡口之宮)の境内に
社殿を建立したのが始まりとされます。
当時の庄内藩は表高に対し
実石が高い余裕のある藩で、
藩主と領民の関係も良好だった事から
天保11年(1840)
川越藩主松平斉典が
11代将軍徳川家斉の実子である
斉省を養子に迎え影響力が拡大した事で
庄内藩主になろうとしました。
その為、
庄内藩主酒井忠器を長岡藩に、
長岡藩主牧野忠雅を川越藩に、
そして自らは庄内藩へと
所謂三方領知替えを画策しました。
しかし、
地元の佐藤藤佐翁・
白崎五右衛門翁が中心に
住民運動を起こし幕府へ直訴、
老中は当時の江戸町奉行
矢部定謙に命じて検証を行い、
三方領知替えを凍結させました。

龍頭寺

蕨岡口宮のお隣です。

真言宗智山派の寺院である。
かつての蕨岡は、
鳥海山の修験道の最大の拠点で、
龍頭寺は三十三坊からなる
修験の一山寺院(衆徒)の頂点に立つ
学頭寺
であった。
明治の神仏分離以後も復飾せずに
仏教寺院として留まって現在に至る。

大同2年(807年)に
慈照上人が開基したというが、
史料は残っておらず伝承に留まる。

貞観2年(860年)
慈覚大師円仁が青鬼赤鬼を退治し、
龍の形に似たこの山の
頭に当たる部分に権現堂を建てて
寺号を龍頭寺としたと伝え、
円仁の事跡とその開基を説く。
正確に読めば、
この記述による龍頭寺は
山頂部の「蛇の口」付近に建てたという
伝承になるため、
蕨岡の学頭寺となった龍頭寺とは
異なることになり、
また史実であるかも確認できない。

ただし、円仁の開基を説くので、
蕨岡よりも古いとされる
天台系の杉沢の坊中が伝えた
伝承の可能性はある。

鳥海山山頂の権現堂の鑰を管轄したのは
杉沢の別当坊
であり、
蕨岡を凌ぐ勢力を持っていたと
推定される。
『筆濃余理(ふでのあまり)』によれば、
本尊の十一面観音は
杉沢熊野権現の本地
という。
杉沢は蕨岡に先行する勢力であったが、
杉沢の二坊は、
近世初頭には、蕨岡三十三坊に
組み込まれていた。

慶長17年(1612年)付の
最上義光による蕨岡への
『鳥海山神寄進状』が残っており、
政治権力とも深く絡んでいた。

神仏分離以前は神社ではなく、
十一面観音と薬師が祀られ
大堂、観音堂、上寺観音、本地堂、
一の王子、一の宿などと呼ばれていた。
十一面観音は一の王子の本地仏で、
尊像は神社に隣接する龍頭寺に
安置
されている。
棟札によれば
龍頭寺の本堂は
天保12年(1841年)再建
である


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