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五十猛命について


歌川国芳筆「神編藻塩草」より
須佐之男命と五十猛命

「異境備忘録」

異境備忘録-全文表示-「18」


明治元年の頃、川丹先生に伴はれて
空中を飛行するの砌(みぎ)り、
雲霧の中を凌(しの)ぎ行きけるが、
東南の方より
螺貝(ほらがい)の音高く響き来るあり。
川丹先生の云ふ、
「饒速日命(にぎはやひのみこと)、
五十猛命(いそたけるのみこと)の
御通りなり」
とて、拝しける間に螺貝の音近くなりしが、
雲霧忽(たちま)ち晴れたるに
金光のキラキラとして
乾(いぬい、北西)の方に鳴り行きたり。


 川丹先生の云ふ、
「饒速日命と五十猛命は
幽冥界にて螺貝を吹き給ふが御職なり。
この神の螺貝の音を聴く時は、
その後とても幽府の神楽の音も
深更(しんこう)に及びては
遠音に聴かるなり」
と云へり。
さて、かの金光の通りし後は
又雲霧となりたり。


 川丹先生の云ふ、
「螺貝は雲を払ひ神言を遠きに告る用なり」
とて、飛行するほどに
又乾の方より以前の如く
金光の中に螺貝の音しけるが、
又も雲霧忽ち晴れ、
金光の後に螺貝に鰭(ひれ)のある物
数十連れ立ちて従ひ飛び行きけり。」

『異境備忘録』

 饒速日命は
長髄彦(ながすねひこ)が奉じた神で、
後に神武天皇に帰順されたことが
『古事記』に見えますが、
『日本書紀』によれば、
神武天皇の御東征に先立ち、
天照大御神から
十種(とくさ)の神宝(かむだから)を
授かり、
天磐船(あめのいわぶね)に乗って
河内国の河上の地に
天降り給いし神とされており、
つまり神武天皇を補佐するために
秘かに高天原(太陽神界)より派遣された
天津神であることが分かります。


五十猛神は
別の御神名を
禍津日神(まがつひのかみ)、
また大屋毘古神(おおやびこのかみ)とも
称しますが、
神代第二期の伊邪那岐神の禊ぎ祓いの際に
成り出でた化生神で、
その分魂は常に須佐之男命と行動を共にする
天津神とされています。


「日本書紀」第四の一書
素戔嗚尊は
その御子神の五十猛命を引き連れて、
新羅(当時の朝鮮半島にあった国の一つ)に
天降り、
曾尸茂梨(そしもり)に住みました。
しかし、その地が気に入らず、
船に乗って東の出雲国に渡り、
そこで大蛇を退治して草薙の剣を得ました。
はじめ五十猛命が天降ったとき、
多くの樹の種を持ってきましたが、
韓地には植えないで全部日本に持ち帰り、
筑紫の国(福岡県)からはじめて、
大八洲国(おおやしまくに)「日本」全体に
播き増やしていって、
とうとう国全体を青山にしてしまいました。
だから、五十猛命を
「有功(いさおし)(功績のある)の神」
というのです。
これが紀伊国(きのくに)(和歌山県)に
鎮座している大神です。

第五の一書
韓郷(からくに)に天降った素戔嗚尊は、
「日本に浮宝(うくたから)(船)がないのは
よくないことだ」
といって、お顔のひげを抜いて播くと
杉になりました。
また胸の毛を抜いて播くと
これが檜になりました。
尻の毛は柀(まき)になり、
眉(まゆ)の毛は楠(くす)になりました。
「杉と楠は浮宝の用材、檜は宮殿の用材、
柀は奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち
臥之具(ふすのぐ)【棺材】にせよ、
また食料として木の実をたくさん播き植えよ」
と仰せになりました。
五十猛命の妹には
大屋津姫命(オオヤツヒメノミコト)、
次に都麻津姫命(ツマツヒメノミコト)がいます。
この三神もよく樹木の種を播かれました。
そして紀伊国に渡らせ、
自らは熊成峯(くまなりのたけ)から
根国(ねのくに)に入ってしまいました。
この五十猛命が
現和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の
伊太祁曽(いたきそ)神社のご祭神であり、
妹神二神を加えて伊太祁曽三神と
呼ばれています。
五十猛命の名義はわかりませんが、
大屋津姫命・都麻津姫命については、
本居宣長
<江戸時代の国学者。古事記を解読し
「古事記伝」を著した>
材木の用は屋舎を作るのが目的であるから
「大屋」と称し、
「ツマ」というのも、
家作に用いる四方木(つまき)をいうことから
名付けられたのであろう
(「古事記伝」巻十一)と言っています。
要するに家屋・材木に関する神であり、
五十猛命も樹木の神・植樹の神として
崇(あが)められています。
木の神様の住む国ということで、
この地は「木の国」と呼ばれ、
やがて「紀伊国」となったと言われています。


子孫と言われているのは、

辛嶋氏 - 豊国の氏族。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%B3%B6%E6%B0%8F


当初は、
香春岳(かわらだけ、福岡県)山麓に住み、
その後、大貞薦神社(現在の中津市)で
神官もしくは巫女を務めていたとされている。
大神比義命(おおがのひぎのみこと)とともに
宇佐神宮の前身の社を建立した


豊国
(とよのくに、とよくに、古墳時代 - 7世紀)は、
古墳時代にあった律令制以前の国の一つ。
旧国名を豊日別(とよひわけ)と言い、
現在の福岡県東部および大分県全域に相当する
九州の北東部地域に存在した。
律令制の時代には、豊前国と豊後国に分かれた。

『古事記』の国生み神話の中で、
筑紫島(九州島)の4面のうちの一つで、
当時は、豊日別であったされる。

『日本書紀』や
『先代旧事本紀』「天皇本紀」では
景行天皇の皇子である、
豊国別皇子日向国造の祖であると記す。
『豊後国風土記』は豊国の国名の由来を
次のように記す。
景行天皇の命によってこの地域を治めていた
菟名手(うなで)が
仲津群を訪れると、白鳥が飛んで来て、
まず餅となり、次いで、
冬であったにもかかわらず
幾千もの芋草(里芋)となって茂ったので、
菟名手が、この芋を天皇に献じたところ、
天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜んで、
この地を「豊国」と名付けた。

と、あります。



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