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【ルーツ】宮城県名取市 名取市史 とは

名取市は、
仙台市と岩沼市の間に位置しており、
仙台市との境に、名取川が流れています。
高舘(たかだて)丘陵と、
愛島(めでしま)丘陵があります。

当市から仙台市南部にかけては、
4世紀後半の古墳時代前期から
多数の古墳が造営された。
中でも最大のものが
愛島丘陵東端に築かれた
東北地方最大の雷神山古墳である。
大型前方後円墳はこれ一つだが、
多数の中小古墳が作られ、
7-8世紀の横穴墓に続いた。
雷神山古墳は、東北最大です。

名取に国造は置かれなかったようだが、
評(後の郡)
7世紀から建てられたと推定される。

国造とは、

大和朝廷の行政区分の1つである国の長
意味し、
この国は令制国整備前の
行政区分であるため、
その範囲ははっきりしない。
地域の豪族が支配した領域が
国として扱われたと考えられる

有力な豪族が朝廷によって
派遣、または朝廷に帰順して
国造に任命され、
その多くが
允恭朝に臣・連・君(公)・
直(凡直)などの姓が贈られた。
朝廷直轄領の県主と異なり、
軍事権・裁判権など広い範囲で
自治権を認められた。

評とは、

『日本書紀』
「大化の改新」の時に「郡」が
成立したと記すが、
「郡」という用語が用いられるのは、
大宝律令制定以降であり、
それ以前は「評」を使っていた。
行政区域の単位です。

平安時代に
高舘丘陵北東麓に
紀伊国の熊野神社の本宮・新宮・
那智社が勧請
され、
名取熊野三山を形成した。
熊野社の分社は多いが、
三社を合祀せず別々に設けて
三山を引き写したのは
全国的にみても珍しい

名取の熊野別当は
奥州合戦で敗れた藤原氏にくみしたが、
降って赦された。

中世の名取郡は細分され、
郡全体を支配する
荘園も武士も生まれなかった

戦国時代には14世紀後半に
相馬氏の影響
が及び、
15世紀には伊達氏の覇権に服し、
最終的に伊達領に組み込まれた
以後、近世を通じて仙台藩に属した。
仙台藩は新しく奥州街道を開き、
増田宿を置いた

仙台藩は陸奥国領内を
南・北・中奥・奥の4つに分割して
各々郡奉行を置き、
その下を19の代官区に細分して支配したが、
後に名取市にまとまる地域、
すなわち増田村など22の村と
1つの浜(閖上浜)は、
全域が南郡奉行の下に置かれ、
高柳村・大曲村・牛野村・小塚原村・
閖上浜の4村1浜
(明治以降に東多賀村→閖上町)が
名取郡北方の長町代官所に、
残りの18村が
名取郡南方の増田代官所に統治された

増田には三と七がつく日に市が立った。

明治時代に入ると、
藩政時代の村を基本単位として
数か村を様々な組み合わせで
まとめて行政単位が置かれた。
1889年(明治22年)の町村制施行で、
現・名取市の市域には
高舘丘陵東麓の高舘村と愛島村、
現・東北線沿いの増田村と館腰村、
沿岸の東多賀村と下増田村の
合計6ヶ村が生まれた。
当地で人口が多かったのは、
旧・増田宿を中心とする増田村と、
閖上浜を中心とする東多賀村だった。

1953年(昭和28年)制定の
町村合併促進法を受け、
宮城県の働きかけによって
6町村での合併となり、
1955年(昭和30年)に名取町が成立した。
1958年、名取市となりました。

仙台空港は、名取市と岩沼市に、
またがって位置しています。

愛島丘陵

当丘陵の東端上には、
複数の前方後方墳が集中する
飯野坂古墳群や
東北地方最大の前方後円墳である
雷神山古墳
などの多数の古墳が
築造されている。

縄文海進時には
当丘陵の東端まで太平洋が入り込み、
南側にも潟湖が形成されていた

考えられており、
当丘陵上には大木戸貝塚を初めとする
いくつもの貝塚が見られる。
また、約6000年前と考えられる
縄文海進時には、
波の侵食によって
当丘陵東端が直線的な海食崖となり、
さらに当丘陵東端に接して
浜堤列が約5000〜4500年前
(5000〜450014C BP)に
南北に形成された。
浜堤列は仙台湾に面する仙台平野で
よく発達しているが、
浜堤列は仙台平野において
最も古い部類の
「第Ⅰ浜堤列」の1つであり、
標高は1.9m程である。

緑地環境保全地域。

五社山 
https://yamap.com/mountains/13774


高舘丘陵

仙台平野の南西部に位置し、
北は高館山(たかだてやま)から
南は阿武隈川(あぶくまがわ)に面する
千貫山(せんがんやま)まで、
幅約5kmで南北に細長く連なる
高館丘陵のうち、
県自然環境保全地域に指定されている
樽水(たるみず)・
五社山(ごしゃざん)地域を除いた
残りの地域となっています。
高館丘陵は、
広義の仙台平野における
代表的な丘陵の一つで、
基盤は、主に数百万年前の火山岩、
火砕岩と花崗岩類からなっています。
こうした硬い岩石が多いので、
長い年月の間にもあまり侵食されず、
ゆるやかな丘陵として残っています。


文面一部、ウイキペディアより






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