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【ルーツ宮城】母方祖母の実家ルーツ探し➂閖上港と、あんどん松

宮城県名取市、閖上(ゆりあげ)港

江戸時代には仙台藩直轄の港で、
仙台に魚介類を売り栄えた。
半農半漁の地帯で、
農民と漁師の風習・言葉遣いが
混在する地域だった。
1889年(明治22年)
閖上を含む5つの村が合併し
東多賀村が発足した。
1903年(明治36年)に
閖上浜漁業組合が結成され、
共同して漁業の改善が取り組まれた。

と、あります。

閖上の行商といえば、
年配のおばちゃんたちが、
背中に行李(こうり)を背負い、
市営バスに乗って、
仙台市街の市場に売りに行っていました。
行李とは、竹や柳で編んだ
箱型の入れ物ですが、
わたしの子どもの頃はすでに、
アルミの大きな箱型に
背負い紐が着いていて、
おばちゃんたちは魚介類やカマボコが
入った重い行李を背負って、
背中を丸めて、仙台の街を歩いていました。
わたしが幼稚園の時は、
市営バスに乗って通っていましたので、
行李から、魚のニオイがしていました。
当たり前に乗っていたし、
そういうお仕事をして家計を稼いでいた
おばちゃんたちに、子どもながら、
敬意を表していたのを覚えています。

閖上の名の由来

江戸時代前期の1697年、
仙台藩主・伊達綱村が
大年寺の落慶法要に参拝しての帰途、
山門内からはるか東方に見えた波打つ浜を
「あれは何というところか」
と問うたところ、近侍の者が
「『ゆりあげはま』にございます」
と答えた。
重ねて「文字はどう書くのか」
と問うたところ、
「文字はありません」と答えた。
これを受けて綱村は
「門の内から水が見える故に、
今後は門の中に水と書いて
閖上と呼ぶように」と言い、
仙台藩専用の「閖」という文字が
出来た故事がある。
また閖は「揺れる(ゆれる)」に同じで、
『龍龕手鑑』に同字がある。

と、あり、また、

また、治兵衛らが神託を需めた際、
お告げに
「波のまにまに、水の門なる廣ノ浦に
揺り揚がることを以て、
門に水を配して閖上(ユリアガリ)ノ濱と
称せよ」
という託宣もあり、
これより廣ノ浦を閖上と
改めた説があります。
また、ご神体をゆだねた藤のイカダを
海中に解き放したが、
それが向こう岸に流れ着き、
大きな藤の塚に成長したと
つたえられている。
それ故、その地を藤塚と呼び、
現在もその名が残っています。

とも、あります。

もうひとつの説は、

昔、ゆりあげの浜は
「名取の浦」と呼ばれていました。
ある時、その名取の浦で、
里人が海からやってくる光るモノを
見つけました。
何かと思って行ってみると、
流れ着いたのは藤のいかだに乗った、
霊験あらたかな十一面観音像だった。

承応年間(1652~1654)伊達綱村公が
閖上の、閖の字をつくったとされる説の
元禄十年(1697)より
40年以上遡るのですが、
その頃、この淘上浜(揺上浜)の村は
度々、火災の被害に
悩まされていたそうです。
その為、浜に近い法印塚より
部落内に遷座(せんざ)した
水門(みなと)明神に神託を乞うたところ、
神名を地名にすれば、
長く火災を除くことが出来るという、
お告げを受けてその字になった
という説もあります。
その際、水門明神は名取川水門神社となり、
さらに明治四年の
神仏混淆禁止令によって
湊神社に改称したという。

と、あります。

名取川堤防の松並 あんどん松

250年の歴史を刻むクロマツ並木。
名取川河口近くの南側堤防沿いに、
140mに渡って続くクロマツ並木です。
樹高25m以上、幹周3m以上の木も多く、
現存する日本全国のクロマツ並木の中でも
特筆されます。


仙台藩初代藩主 伊達政宗により
遠州(現在の静岡県浜松市周辺)から
取り寄せて植えたもので、
現在残っているのはその一部です。
地元の漁師が灯台代わりの
目印に使っていたとも伝えられています。
現存する38本の松は大震災をに耐え、
変わらない姿で今も残っています。
2020年4月18日、
大雨で1本倒れました。
名取市指定文化財
 

あの東日本大震災の大津波が、
名取川を逆流して遡った時、
このあんどん松も塩害に襲われています。
しかし、ここまで生き残ったのは、
ほんとうに奇跡としか、思えません。

名取川


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