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9.30〜10.5 回帰的な恋 (コメント付き)

 「Go West , young man」これは日本語風に訳せば、知恵遅れの猿は西洋文化から人間を学べ、となる。もちろんここで使われる猿という単語は、完膚なきまでの差別用語であり、現代社会において許されるものではない。とはいえ、あなたに許しを請うようなすじあいはない、とでもいうような風潮があるらしく、許されない言説はそこら中に漂っている。許しは、自分で自分に与えるものであり、時代は自己完結の世紀に突入していた。
 フロンティア精神、つまりはぼっとんトイレのように底の知れない不気味な好奇心が、人間を進化させたのだという俗説に従っているうちは、それによってもたらされた不幸の現実に気づくことはないだろう。人間というのは、とりあえず開いてみないことには満足できないのだ。
 もし、ウィーキー自然公園に人間の手が及んでいなかったなら、ここは単なるウィーキーに過ぎなかったし、彼女が踏みしめる下草は、こんな風に数回踏まれただけで地べたに寝そべるほどやわではなかったはずだ。あるいは彼女は生まれていなかったかも分からない。可能性としては、彼女の両親の名字がアナルで、下の名前が舐娘だったかもしれず、もしそうであったら彼女は1年ごとに死にたいと思っていただろう。
 下草の合間に、白くふわふわしたものが、静かに揺れ動いている。綿のように柔らかい毛に覆われ、さわったら絨毯みたいで気持ちいいに違いない。その皮を使ってスリッパを作れば、(表面積を考慮すると、せいぜいがスリッパくらいのサイズしかとれなさそうだ)部屋にいる間中、自分の足を幸福にしてあげることができる。足孝行にはもってこいではないか。ところが、白ウサギは巣穴から飛び出すと、そのまま狂ったようなスピードで彼女から遠ざかっていってしまった。まったく余裕のない四足で走り去ってしまったので、その手に時計が握られていたとはにわかに信じがたいが、あるいは毛の中のダニのように、こっそりと忍ばせていたのかもしれない。
 彼女がもう一回り幼ければ、チャールズ・ドジソンの箱庭に招待されるかもしれなかったが、あいにく彼女はもう若くなかった。ナンセンスは理解しようと努めるから面白いのであって、彼女のように無関心の目隠しをつけた者にとっては相性が悪かった。たとえどこか、例えば渋谷のスクランブル交差点で、穴の底の魑魅魍魎に出会ったとしても、彼女は一般の他人たちに対するのと同じ態度で、無言のまますれ違うだろう。無視される彼らの気持ちを思うといたたまれない。
 
 ウィーキー自然公園は、彼女のフロンティア精神を満足させるには少し小さすぎたし、薄毛が気になりだした54歳の彼女の父親の髪型と同じくらい整いすぎていた。足りない部分の髪を、べつのポジションから借りてきて埋め合わせるのだが、今のところはちゃんと収支が合っていた。しかし、すぐに収支が合わなくなり、周囲からも赤字だとばれることになるだろう。父親の先延ばしの考え方に、彼女は不満を持った。
 公園の入り口には、親切な案内板があったのだが、わずか3ヶ月で風雨によって表面のプリントが剥がれ落ちてしまった。その3ヶ月の間に雨は二回しか降らなかった。そのうちの一回は霧雨だった。このようなずさんなつくりを良しとするなんて、製造業に従事する者としての矜持はないのかと腹を立てるものも多かった。しかし、間違いを犯していたのは、受注した側にあったことが、すぐに明らかになった。というのも、受注書には、はっきりと「室内利用」と記入していたからだ。耐候性の低さはここに原因があったのだが、結局、担当者はパソコンに疎かったという理由で責任追求を逃れ、製造業者は何度も確認をとって作ったにも関わらず、今更そのようなことをいわれてもどうにも出来ないと切り捨てた。結局、ほとんど真っ白の板だけが残った。今では落書きによって、羊たちの沈黙のころの、ジョディ・フォスターの絵が描かれている。

 彼女はジョディフォスターに似ているね、とは人生で一度も言われたことがなかった。それを悔しく思って、メイクでジョディフォスターに顔を似せたこともあったが、その努力は誰にも気づかれなかった。彼女は絶望して、以来、映画でジョディフォスターを見る度に、えも言えぬ敗北感を味わうようになった。しかしそれも長くはなかった。ほんらい、彼女は絶望とは無縁だったからだ。「別に、ジョディフォスターに顔が似ていなくたって、いいわ、それで不幸になるわけじゃないんだから。そもそも顔がジョディフォスターになっても、体をジョディフォスターにすることは出来ないんだし。頭のデキだって、そう。ジョディフォスターはすごい頭がいいんだって、、、。」
 多様性の実現するためには、まずは身の程を知ることが必要だ。彼女は、そのとき、真の意味で多様性とはなんたるかを理解した。つまり、彼女はジョディフォスターではないが、ジョディフォスターは実在するし、彼女よりもジョディフォスターに似ている女も大勢いるのだろう。世界とは、そういう風になっているのだ。彼女は、ジョディフォスターランキングで言えば、下位もいいとこ、おそらくジョディフォスターを意識している一群の中では最下位と言ってしまってよかった。世の中には、ジョディフォスターとは全く無縁の場所で生きている人たちもいるのだ。それは彼女にとっては想像の範囲外だった。
 しかし、運のいいことに、彼女はビリーアイリッシュには少しだけ似ていた。しかし、運の悪いことに、彼女はビリーアイリッシュを知らなかった。だから、どれだけ、ビリーアイリッシュランキングの上位に位置していようと、また第698位をめくって、第697位になったとしても、そのことに気づきもしないのだ。体重の変動や、肌の日焼け、両手の爪の長さ、それらさまざまな要素をよく研究することで、ようやく順位を上げることが出来るシビアなゲームの現場で、彼女は無知ゆえにのんきだった。
 ウィーキー自然公園にとって、ビリーアイリッシュの楽曲のような刺激は、思ってもみない僥倖であったに違いない。かねてから、ウィーキー自然公園の保守的なたたずまいには批判が集まっていたのだ。行動的なとある青年は、(彼は彼女の通っていた学校の1学年下で、サッカー部に所属してボランチかサイドバックのポジションでずっとレギュラー出場していたが、彼女と面識はなかった)ウィーキー自然公園に大量のスピーカーと、モバイルバッテリーを持ち込んで、大音量でビリーアイリッシュを流したのだったが、それはあまりにも不自然であるという理由から、「Bury a friend」の途中で撤去されてしまった。つまり、自然公園に不自然なものを持ち込んではいけない、という自然公園法第3条にのっとって、速やかに排除されたというわけである。
 青年は「Why do you care for me?」と言ったそうだが、もちろん誰にも相手にされなかった。青年にとってのfriendは、大人になろうとする自分自身であったのかもしれないが、そんなネタばらしをされたところで、興がそがれるだけである。結果として青年は、何一つ成し遂げることは出来なかったのだから。

 ウィーキー自然公園に変革をもたらそうとした、青年革命家のその後を知るものはいない。一説によると、活動の場をネットに移し、ネット革命家を名乗っていた時期もあったそうだが、信じられないくらいの誹謗中傷を浴びてすぐに止めてしまったと言う。それが事実であれば悲しいことだ。賢明なるネット永住者の方々は、彼を試していたに違いないのだから。古今東西、物語の中で前途の有望な若者というのは、旧世代の有識者にその資質を試されるのである。つまり、ある意味で彼は認められていたのだ。
 とはいえ、ネット永住者の知能が徐々に低下してきているというのは、彼らの発言録に目を通せば、すぐに分かることでもある。世の中の情報化が続く中、言葉の重みを忘れた軽薄なネット永住者はどんどん増え、都合の悪いことは、時間とともに忘れ去られると勘違いしているのだろう。悲しいかな、発言録は、ダーウィンの進化論を修正する必要さえ感じさせるような内容なのである。
 人間とはなにか、という問いには、明らかに次元による差がある。つまり、人間のかたちをしていればそれは人間である、というような次元と、相手を小馬鹿にしたしゃべり方が出来ていればそれは人間である、というような次元とで、条件がかなり異なってくる。ネット永住者の方々に関しては、かなり低い次元で見れば、確かに人間である。ただ、少し次元をあげると、どうやら人間としての条件に当てはまらない場合がかなり増えてくる。これは、人類史の新たな一ページである。人間の形をした、人間でないものの登場を、過去の思想家は想定していただろうか。アリストテレスも、孔子も、聖徳太子も予想していなかっただろう。カントも、ニーチェも、ハイデガーも、予想していなかっただろう。
 別の説もある。勇敢なる青年革命家は、裸一貫で国会に乗り込み、懐に忍ばせていた果物包丁で首相の左足の大腿を刺したというのである。しかし、もしそれが事実ならニュースになるはずである。ご存じの通り、そんなニュースはない。ということは、この現実とは全く異なる世界でのことなのかもしれない。しかし、今の首相にいったいどんな恨みがあって、果物包丁で刺したりするのだろう。これによって、趣味のゴルフに支障が出ることは間違いない。趣味を奪うことで、苦しませようという魂胆なら、なんと謙虚でユーモラスな作戦だろう。自分の人生をふいにする作戦に、そこまで大胆にユーモアを組み込むには、常軌を逸した決意というものが必要であったに違いない。
 異なる現実というものがあるとすれば、青年革命家の一度目の失敗、つまり、ウィーキー自然公園に、不自然なものを持ち込むという失敗を回避した現実というのも、もしかしたら存在するのかもしれない。しかし、その現実において、彼女が存在しないという場合もあるだろう。もし、ウィーキー自然公園を彼女が歩いていなかったら、青年革命家は、革命を起こそうと決意しただろうか。
 青年革命家は、ポプラの木陰に置かれたベンチに座って、さりげない雰囲気を醸しながら、右手でピンチョンの「重力の虹」を開いていた。読書家にみせるために、本屋で一番分厚い本を買ってきた。片手で開いておくのは苦痛だったが、しかし、これで知性だけじゃなく、筋力もアピールできる。彼の目は文字を追うが、それは表紙についたほこりをぱっぱっ、と払うのに似て、素っ気なかった。彼の目には、他に見るべきものがあったからだ。もっと、かわいくて、美しくて、きれいで、一瞬で虜になってしまうような、それこそ、ウィーキー自然公園にはまるで不釣り合いなものが、いままさに、彼の目の前を通り過ぎようとしていて、彼は平静さを取り繕うのに必死だった。
 

 青年革命家が、その革命に失敗した最たる理由は、まず間違いなく自身の下半身に対して優位に出ることが出来なかったからである。彼は自身の下半身に主導権を握られることを是とし、一度も反抗しようとはしなかった。しかし、彼は全方位に対して主導権を明け渡していたというわけではなかった。母親に対しては、信じがたいほどのこだわりを持って、自身の主導権を守ろうと努力し続けた。
 一般に、がむしゃらな努力を重ねる人間というのは危険である。それは大抵結果がついてこないし、結果がついてこないことに対して、筋違いの憎しみを抱くからだ。努力は報われると、学生のころに言い聞かされて、疑うことなく素直に受け入れた結果なのだろう。それが教師が学生をコントロールするための定型文であるということを知らずに。
 その一例として現れたのは、母親に対する暴言、暴力、そして家計の圧迫であった。彼は革命家らしく、就職を憎悪した。就活生を軽蔑し、サラリーマンを敗北者だとみなしていた。彼は、人とは違う人生を望んだ、その根拠は自分が他人とは潜在的に違っているという、圧倒的な直感があったからだ。しかし、その直感を他人に説明することは出来なかったし、それゆえに、誰からも理解されなかった。つまり、彼は周囲からは単なる言い訳名人として扱われていたのだった。
 父親は沈黙を貫いていたが、息子が母親の頭を冗談半分にはたくのを目撃して激昂し、最愛の息子の首をデスクワークで鍛えた指の力で締め付けた。息子は全く油断していたので、唐突な反逆(彼は父親を大きめの芋虫とか、インテリアの流木くらいにしか考えていなかった。全然喋らなかったからだ)に驚き、顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙を流した。母親は少なからぬ憤りを、この最愛の息子に対して抱いていたから、あえぐこともままならない息子の様子に胸のすく思いと、夫が予想外に自分のことを考えていてくれていたというサプライズへの喜びと、あとわずかな憐憫の入り交じった心持ちで、成り行きを黙って見守っていた。
 しかし、これは残念なことではあるが、父親もまた、人の子だった。息子を絞め殺すなんてことは出来なかった。
 これがショック療法となれば良かったのだが、現実には彼の心はポッキリと折れてしまった。枯れ木の枝よりも、彼の心は繊細だった。ただ、父親の不意打ちのかいあって、母親に対する、暴言、暴力はなくなり、あとは社会に出て仕事さえしてくれれさえすればよかった。息子の変化を、ポジティブな成長として、楽観的に捉えたのだった。
 イニシアティブを完全に喪失した彼、すなわち青年革命家は、快楽に溺れた。もっと文学的な表現を採用するなら、自分磨きに邁進した。当時の彼の主な心配事と言えば、ティッシュペーパーの残量くらいだった。
 青年革命家が、温かな羊水にみちた自室から外に出たきっかけとなる出来事に関しては、非常に感動的で、いままでの彼に対する偏見を完全に払拭するような、ハートウォーミングな、三流小説家が小説のネタにするために、はげたかのように集まってくるような、腐臭、いや芳ばしい香りのする素敵な物語は存在しない。ここにある虚無を好むのは、変態的性癖を3つ4つ平気で保持している純文学作家くらいのものだろう。
 果たして、ウィーキー自然公園は不自然なものを排除する。正確には、ウィーキー自然公園風紀委員会とでも言うべき存在が、ぎりぎり暴力的な方法で、不法侵入者を排除するのである。彼に関して、風紀委員会はまったく干渉しなかった。すなわち、彼はウィーキー自然公園にうってつけの人材だったのである。その景観を相乗効果で美しく見せることが出来るのだ。もちろん、全会一致というわけではなかった。中には彼の髪の毛のナチュラル指向の脂だったり、指の爪の中の成分不明の、しかし臭いつめものに関して、難色を示す委員もいた。

 青年革命家が、努力を信奉するようになったのは、学生のころの担任教師が邪悪な宗教家だったことが原因であった。教師は教義を用いて、学生を利用しようとしていたのである。結局のところ、人間に語ることの出来る物語というのは類型化されていて、バリエーションは貧弱なのだ。誰も彼も、同じようなことしか言っていない。利己的かそれとも利他的か、という点においてのみ、わずかながらの差があるといった具合である。
 教師はこう言う。「我々人類の最終的な目的は、人生を努力することである。そして、汗水流して働くことこそが、最も具体的な努力である」青年革命家候補生たちは「はい、かしこまりました」と大きな声で応える。これは、太陽が東から西へ移動するのと同じくらい、日常的なことで、このやりとりが明日なくなるかもしれないなどとは、誰一人として考えない類いの事象だった。
 はたして、こんにちの天文学においては、移動しているのは太陽ではなく、地球であるということになっている。しかし、それ以前にはミシシッピアカミミガメとインドゾウが力を合わせて地球を下から支えている、ということになっていたのだから、この先また別のドリーミングな見識が現れないとも限らない。すると、教師と青年革命家候補生たちとの間の先のやりとりは、同様にして改められるかもしれないのだ。とはいえ、それなりの努力を要するだろう。
 教師たちは全知全能であると言われていた。おそらく自分たちでそう言い出したのだろうが、いまではよく浸透して、彼らを特別視する人たちで人口の大半は占拠されてしまっていた。中には教師たちを疑いの目で見る者もいたが、しかし結局はその視線を、自身の視力へと移してしまうのだった。一度矯正グラスをかけてしまえば、あとの人生は幸せに暮らすことが出来る。聞くところによれば、その目に映る景色は、さながら天国だという。それも、西洋式の。
 実際のところ、青年革命家の、自身の下半身に対する贔屓は、教師の背中をよく見て育ったということをよく示していたのである。その追従ぶりは、ほとんど影と言ってしまって良かった。地べたを這いずり回り、体中泥だらけにして、誰かが吐いた唾やガムを喜んでなめとる勤労ぶりで、彼はあまたの影の中でも頭一つ抜けていたと言っていいだろう。おかげで彼は、年度末に最優秀影を受賞したが、授賞式には誰も参加しなかった。貨物列車が走り去る騒音が、空っぽの会場に荒々しく響きわたったという。それでも、殺人的な沈黙を和らげてくれたため、青年革命家はむしろお礼を言いたい気分だった。線路沿いの安い会場を押さえてくれた、最優秀影賞授賞式運営委員会に。
 たいていの教師は、女生徒を性的な目で見ていた。彼らは女性教員には目もくれなかった。彼らの頭の中の唯一のロジックは、日本の民法は時代遅れであって、「科学」的にみれば、肉体的にも、精神的にも、12歳を超えていればすでに成人としての資格を有している、というものだった。もちろん、年齢の部分は変数であり、自由に動かすことが出来る。多少の文学性を持っている教師は、そこに、愛という概念を持ちだしてくることもあったが、あくまでも少数派だった。そのような教師というのは、排水路にビニール袋のように引っかかっていた愛を見つけて、わざわざ拾ってくるような物好きだが、しかし、過去の文化に関心を持ちあまつさえ、保存しようという熱意まであるという点に関しては、混じりっけのない賛辞が送られて、しかるべきであろう。

 教師たちは自身をエンジェルと称した。赤黒くそそり立つ自分自身にそのような名を与えるのは、一流の諧謔なのか、それとも単なる肥大したナルシズムなのか、判断するのは難しかった。とはいえ、その呼び方は慣例化され、青年革命家候補生たちも、自身をエンジェル候補生と言って、はばからなかった。一部のリルケ読者は、そのエンジェルという呼称に違和感を持ったが、教師たちの中にドゥイノ悲歌の存在を知る者は皆無だった。
 ウィーキー自然公園には、エンジェルによく似た植物が生育している。これは外来の植物であったが、件の風紀委員の名誉会長の鶴の一声によって、いまだ不自然なその体躯を、夏を予感させる暖かな風に晒している。自然公園法は基本的に、名誉会長の権力を縛ることに失敗し続けている。
 青年革命家は、重力の虹をベンチの上に置いて軽くなった体で、タンポポの綿毛のようにふわりと立ち上がることを夢見た。しかし錨のようにおもい自意識が、彼をベンチにつなぎ止めたまま、立ち上がることを許さなかった。遭難者のように目を血走らせ、鏡の代わりなるような反射物を探したが、近くには血色の悪い紫色の指の爪か、ベンチの錆びたねじくらいしかなかった。しかたないので、紫色の爪のなかに、自らの木綿豆腐のように白くのっぺりとした顔を詰め込んで、不具合がないか確認したが、ないはずはなかった。改めて確認してしまうと、もはや彼の尻の穴から伸びてきた根によって彼の体はベンチから離れることが出来なくなってしまった。
 話しかける機会を失ったことの悲しみは、彼の心を鋭い針で刺したが、一方で腐りかけの可能性が本当に腐っていると確認する恐怖から逃れたことで、安心してもいた。彼女と友人に(彼は必死に考えないようにしていたが、あるいは恋人に)なれるかもしれない可能性、それはすでに酸っぱい匂いを発し始めていたが、彼はそれを大切そうにタッパーに入れて、大切なものを入れておく箱に丁寧にしまい込んだ。
 一方で彼女は蠅のように追いかけてくる青年革命家の視線に全く気づいていない様子だった。しかし、別の視線、すなわち自然公園風紀員の排他的な視線と、個人間の区別をなくしたいと言う思いが強く出過ぎている彼らの立ち位置に対する違和感は、強く感じ取っていた。風紀委員たちは、全身真っ赤のジャージを着込み、四角く固まっていた。

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どうも、ピルストです。今週は、割とめんどくさい文体でしたね。書いてる時は楽しかったです。次週はまた少し文体が変わるかもしれません。飽きたら変えます。回帰的な恋は、それくらいゆるい感じで続けていこうと思います。ぜひお付き合いください。

スキを押してくださった方、本当にありがとうございます。励みになります。

休日は時間があるので、文フリの原稿を進めているのですが、これはなかなか出来がいいと思うので、ご期待ください。お前の書いたものに、お金なんか出したくないという方が大半だと思いますが、なんとか、お金を出したいと思ってもらえるような本に仕上げたいと思います。形式としては、個人編集のフェイク文芸誌という形式で、創作、書評、批評がたくさん入ってます。そして、全体として見ると、一つの作品になってます。たぶん、他にはない、自費出版だからできる、自由な表現になっていると思うので、面白そうだと思ったら、ぜひチェックしてみてくださいね。

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