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【日記】天津飯に期待しすぎた/2023.12.04

仕事終わりに映画館に行って、その足でずっと気になっていた中華料理屋に行った。
雑誌に載っていた天津飯の写真をたまたま見てから頭の片隅にはいつも天津飯の存在があったので、満を持して店へ赴いた。

その天津飯はとにかく卵が美しかった。ドレスドオムライスのように巻かれた卵の上につやつやのしょうゆあんがかかっていて、町中華的な佇まいの店からは想像がつかないくらい上品な一皿だった。ふわふわでとろとろなのが写真を見ただけでわかる。卵が舌の上に乗った時のとろけ具合とか、あんと絡んで卵がほろほろほどけていくところまで想像できてしまうほどだった。

入ってすぐ席に通され、注文してから5分も経たずして目の前に現れた天津飯は写真通りの美しさだった。味もおいしい。こってりしているかと思っていたしょうゆあんはあっさりとしていながらもこくがあって食べやすかった。

おいしかった。おいしかったんだけど、卵が想像していたものとは少し違った。なんというか、ちょっと固めの湯葉のような食感だった。舌触りはふわとろというより、プルンとテュルンの間みたいな感じだった。一般的なオノマトペの中に、この卵の食感を表す言葉はまだ存在していないと思う。

食べ終えてから一時間ほど経った今、あらためて振り返ってみてもちゃんとおいしかったと思う。かなりおいしかったはずなのに、卵に対して期待しすぎていたせいで、もう食べに行くことは無いかなとすら思っている自分にショックを受けた。
あんに関しては期待以上のおいしさだった。いや、最初からそこまで期待していなかったからおいしく感じただけのような気もしてきた。

期待って、たぶんほとんどの場面においてしない方がいい。「こんな味だったらいいな」「こんなの絶対おいしいに決まってる」って勝手に想像をふくらませて、期待していたものと違ったら勝手にショックを受ける。勝手に想像して勝手に期待して勝手に落ち込む。あまりに身勝手だ。もやもやした気持ちを抱えたまま帰ることになっても、勝手に期待した自分を責めることしかできない。

期待のかたちが人それぞれ違うのも厄介だ。
例えば、わたしと同じようにこの店の天津飯に興味を持った人がいたとする。その人が「湯葉みたいな食感の卵だったらいいな〜」って期待を胸に店へ行ったとしたら、期待通りの食感に喜ぶことだろう。同じものを提供されたとしても、期待通りだと思う人もいれば物足りなく感じる人もいる。

期待を寄せられた側も、十人十色の期待すべてに答えることなんてできない。おいしいものを作ろうと一生懸命やっているのに、勝手に期待されて勝手にショックを受けられるなんてたまったもんじゃない。やっぱり期待なんてしない方がいいのかも。

でも、期待せずにいることなんて不可能だと思う。期待せずに生きるなんてあまりにつまらない。今回だって、天津飯のおいしさに期待していなかったとしたら、わたしはこの店に行くことも、天津飯を注文することもなかった。

何だってそうだ。好きなアニメも「なんか面白そうだな」と一瞬でも思わなかったらその作品に出会うことはきっとなかったし、今着ている服も「これ似合うかもな」って思わなかったら試着することもなければ買うこともなかっただろう。
期待とは興味を持つことで、興味を持つことは何かを始めるきっかけになる。きっかけがなければ何も始められない。期待をしなければ、寝て起きてを繰り返すだけの生活をすることになる気がする。

期待して傷つくか、期待せずにつまらない日々を過ごすか、どちらか選べと言われたら間違いなく前者を選ぶ。期待することは必ずしも悪いこととは言いきれないのかもしれない。たまに期待通りの結果になることもあるし、運が良ければ期待を超えてくることだってある。ふくらませにふくらませた期待を超えてきたときの感動ったらない。

気の向くままにいろいろと書いたけど、いくら思いをめぐらせても行き場のないもやもやが解消することはなかった。
期待することなんかより、期待外れだったものごとに対してこうやって1700文字も持論を展開することの方が精神衛生上よくなさそうだ。

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