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がん とはなにか

2年前の4月に
わたしは大切な友人のひとりを
亡くした。

出逢った当初から
乳がんで余命宣告をされていた彼女と
わたしはすぐに意気投合して
多くの時をともに過ごした。

2016年の夏
わたしが股関節の手術で
入院したときも
彼女は毎回
美味しいフルーツを
食べやすいようにカットして
届けてくれた。

セラピストでもある彼女は
わたしの足に
それはそれは丁寧に
マッサージを
施してくれたこともある。

自分は
化学療法の副作用で
左腕が
パンパンに
腫れ上がっている
というのに
そんなことを
全く氣にする様子もなく
わたしの足を
マッサージしてくれていた。


抗がん剤治療による
副作用で
外出が難しい日もあったが、
体調がよくなると
必ずと言っていいほど
わたしのいる病院に
足を運んでくれた。

ときおり
直面している「死」を思い
涙することもあった。

彼女は
がんばり屋さんで
すばらしい
こころづかいのひとだった。

だからこそ
自分のことで
ひとに心配をかけまいと
いつも
笑っていた。

でもきっと
こころが泣いている時も
あったのだろう。

わたしのまえでは
よく泣いた。

他の人には見せられないけど
しおちゃんには見てほしい、、
と言って
がん細胞が皮膚を突き破って
ごろごろとした
岩のようになっている胸を
見せてくれたこともある。


とても痛々しくて
「いたくない?」
ときくと
患部を覆っているガーゼが
引っ付いてしまって
痛いこともある
と言っていた。


わたしが初めて
キールタンの会を主催したい!と
挑戦したときも
さまざまなイベントを
主催した経験のある
彼女が
さりげなく
サポートをしてくれた。


ほんとうに
彼女には
たくさんたくさん
助けてもらった。


たくさん話をして
おたがいの成長を
祝福しあって
ある時は
支え合っていた。


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そんな彼女の
がんのことを知った
わたしの友人が
彼女とわたしを
ある講演会に誘ってくれた。

それは
免疫学の権威と言われる
安保徹先生の
講演会。

2016年の4月だった。

はじめて
拝見した
安保徹先生は
にこやかで ほがらか
ユーモアにあふれた人だった。


詳しい内容は忘れてしまったし
記憶もあいまいだから
ほんとうに
こんなことを話していたのかすら
さだかではないが、、、

わたしのなかで覚えている言葉がある。

(わたしの記憶なので、
実際は
まちがっているかもしれません。
興味のある方は
安保先生の書籍を読んでみてください)

「がんていうのはね、がんばり病なんだよ
 だから生き方を変えたら 治る」

「がんばりすぎると体温が下がる。
 体温が下がるとがんが元気になる。
 だからゆったりして 体温があがると
 がんは自然にはがれてとれる。

 そういう話をしたら
 末期がんの患者さんで
 実行した人がいて、
 ある日
 便に混ざってがんが出てきたと言って
 もってくるんです。
 先生みてくださいって。

 そんなの
 本人はうれしいかもしれないですけど
 わたしは特に見たくもないんだけどねぇ 笑」

 みたいな話をしていて

「へえ~そうなのかぁ~」
 と
友人と二人で
目をまん丸にしたのを
思いだす。

(何度も言うけど、
この記憶も
わたしだけのものかもしれない)


だから
その日から
わたしにとって
がん はなおるものである
とインプットされた。


友人は
その2年後に
身体を離れることになるのだが

やっぱり
それはかわらず
わたしのなかに残っている。

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がんはなおる。

そして
なおらないこともある。

そして
そのどちらにも
優劣はない。

なおったから
すごいわけでもない。

なおらなかったから
わるいわけでもない。

たったいま
この瞬間
いのちを
生きた
という事実だけで
充分じゃないか、と思うのだ。


・・・・・


それでもいざ
当事者になると
今までのクセが発動する。

身体の調子が悪いと
わたしは
つい
自分を責めてしまうクセがあるのだ。

それが
今回も発動していることに
氣がつくのだけど、
それはある出来事がきっかけだった。


スピリチュアルな発信をしている人が
「いま病気で…どうしたらいいですか?」
と相談してきた人に

「病気になるってことは
魂の使命からずれているから。

何度も何度もメッセージが来ていたのに
そのサインを無視するから病気になる。

病気になったということはサインです。
生き方を変えてください」

さわやかにこたえていた。


その方は
その方にとっての真実を
求めた人に向けて
発信した。

ただそれだけのこと。

ただ、
その言葉を聴いて
わたしは
「うっっ」
となった。

うん。
ほんとにね。
その通りだと思う。

でもなんか
くるしい、と感じた。



あれ?
なんでこんなに
居心地が悪いんだろう?

自分の内側を
確認してみる。



あ~
わたし
わたしのことを
責めてたんだ!

と氣がつく。



「身体の不調は
身体の声を
聴くことができていないから」
=わたしが悪い

「自分を大切にできていない」
=わたしが悪い

「股関節の手術をして
いろんな氣づきがあったくせに
また自分をないがしろにするから
いままた
がんになったんじゃない?!」
=やっぱりわたしはだめだ


あたまのなかで
たくさんたくさん
自分を責めていた。




涙がでた。



ちょうど同じ時期
おなじような質問をされている
別の発信者の女性がいた。

彼女自身も
余命宣告をされたり
交通事故で死にかけるような
経験をしたことがある人で
その彼女のこたえは

「病気になるくらい
がんばってきたってことだよ~

ぜひぜひ 自分に
よくやってきたねって
声をかけてあげてください。

まちがっても
自分を責めちゃダメだよ」

だった。



話しながら
自身も
涙をにじませていた。



それを見て
もう一度
泣いた。


やさしいなぁと感じた。



自分にそうやって
声をかけよう。



もう
自分を責めるのは
おしまいにしよう。


本氣で思った。



いままで
つらくあたって
ほんとうに
ごめんね。

自分に謝った。


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そして
いまは思う。

がんを
なおそうとしなくていい。
と。


それよりも
日々
自分に素直に
自分にやさしく
ときには
人と繋がって
表現したいものを
表現して生きよう。
と。


やりたかったことを
やろう。


いままで
こわくて
できなかったことでも

やっぱり
望んでいると知ったなら

こわくても
やろう。



がんは
それに気づかせてくれる
素晴らしいギフトなんだ。
と。




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