見出し画像

本質。

僕と同世代以上のギター好きなら上の写真見ればジェフベックってわかりますよね。

ジェフベックだとわかったとして、あの右手のところに辿り着くまでどれくらいかかるでしょうか。

何がわからないとあの音にならないか。機材を揃えたところでまったく再現できる気がしません。揃えてませんけど(笑)。

CharさんのSoliloquyにはひっくり返ったというか。スタジオ版もいいけど、Smoky medicineの野音でやった時のがさらによく。聴いた瞬間鳥肌でした。

実際にはジェフフレイバーの入ったChar節という感じですけど、ジェフベックに想いを馳せるというのがよく伝わってくるいい曲だと思っています。そのフレイバーのためにどんだけ練習したんだろうと。同じ技をやれば似るというのではなく、何を大切だと思っているかがないと似ないと思うのです。

自分を出す出さない、自分のあるない、自信のあるない、年齢や経験によってその時考えることはいろいろあると思うんですが、年をとってきた時に、何を大切だと思っているかで周りに与える影響が大きく変わると最近思います。

昨日の「方舟を燃やす」に出てくる登場人物たちは、ごく近い人との近いのに遠い感じを通して自分とは…という感じでしたが、もう少し大きく広い枠だった時に、つまり社会的な立ち位置では、何を見失わないべきなのか。何が見えているべきなのか。

「好き」とか「やりたい」はスタート地点だと思うのです。これは自分中心。それが周りの人に認識されて、評価されると、ある時期から「周りにとっての」存在として認識される時が来る。まあ関係ないっちゃ関係ないで突き通せる部分でもあるのですが、こと、何かを発信している場合には、周りというか他を意識しているかいないかが、その作品に出てしまうなあと最近思います。

だからと言って、他のための自分でやると変な感じになる。自分のやりたいことをやっていながら、周りが求めていることもわかっているみたいだといいんでしょうけど、難しいですよね。

今日の話は、ある研究会の論文集を読んで感じたことです。ネタのためのネタ。自分とかけ離れたネタ。自分のやっていることと矛盾したネタ。こういうのは面白くない。まあ研究論文に面白さはいらんやろと言われればそうかもしれませんが、でも独りよがりはやっぱりね。最悪なのは「自分はこんなに頑張っている」というアピール。それわざわざ文で書くこと?と思っちゃう。若い人はいいんですよ。若い人はまず書いて失敗しないといけない。でも不惑以上はね…。書き方とか役割とかあると思う。本質が何かわかっていないと人の心に響く文は書けないんだなあと思って、そこで「はた」とこのサイトは…と思って怖くなったという話でした。せめて「好き」が伝わっていればいいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?