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クリスタライズされた言葉

今日から、noteを始める。

自分のキャリアの遥か先にいる先輩のnoteを読んで、触発された。彼の文章の圧倒的な密度で、それは圧倒的な思考量に裏付けられている。言葉遣いは硬質であり、筆者の質実剛健な思考スタイル、人柄、生き様さえ伺える。こんな文章を書けたらな、というのが筆不精な自分が文章を書き始めたいちばんの理由である。


文章については、前職の上司から言われた「言葉をクリスタライズ(結晶化)しろ」というアドバイスが印象に残っている。「情報量÷文字数」の最大化、A4一枚の企画書で最大限まで密度を高めた情報を伝えよ、ということだった。

簡単に言ってしまえば「文章をよく練ろうね」ということなのだけど、「言葉を結晶にする」という比喩が琴線に触れたためか、今も自分の中に残っている。

自分は「クリスタライズされた言葉」を、「幾度となく推敲を重ね、考え抜いた末に生み出された純度の高い言葉」「その人にしか生み出せない言葉」と拡大解釈している。思えば、「言葉をクリスタライズする」という表現自体が上司(あるいは彼が師事していた人)がクリスタライズした言葉だったのだろう。


我が身を振り返ると、知識獲得欲求は旺盛なものの、知識を用いて思考し、自分だけの言葉に昇華することには全く疎かった。読書の目的は知識を獲得することにあり、得た知識を自分の武器として使うことにはない。

「あなたはいろんなことを知っているけど、自分の言葉で語ろうとはしないね」と親しい人に言われた時はギクリとしたが、それでも、知識フェティシストで何が悪いと開き直っていた。(こういうギクリとする指摘はだいたい正しい)

しかし、上述の通り大先輩のクリスタライズされた言葉に心を揺さぶられ、ふと目にした哲学者・ショーペンハウアーの読書論が追い打ちをかけた。

 いかに内容の豊富な図書館でも、不整頓であるならば、はなはだ小さいけれども整理の行き届いた書庫ほどの利益も与えない。これと同様に、いかに多量の知識でも、自分の思慮がこれを咀嚼したのでなければ、反復熟慮したわずかの知識より、その価値は遥かに乏しい。(『読書について』ショーペンハウアー 著、佐久間政一  翻訳、哲学文庫)

もう開き直りはおしまいにして、これまで使ってこなかった頭を使おうと思う。


前田裕二さんは『メモの魔力』に、具体的な知識や経験を「つまりどういうことか」と抽象化し、さらに抽象化した概念を「自分の仕事や生活にどう生かすか」と具体化すると書いていた。この本を読んだ自分の感想は、確かにそこまで考え抜けば起業家として成功したり、夢を叶えたりすることもできるだろうね(そこまでやらないけど)、だった。

しかし今の自分は、具体と抽象を行き来し、その末にクリスタライズされた自分だけの言葉を生み出そうという意思を持っている。

オリジナルの思想が欲しいとまでは言わない。自分の頭で考えて自分の口から出てくる、自分の口からしか出てこない言葉を紡いでみたい。

一般公開するのは読むに値する文章だけでいい。短いものを日々、少しずつ書いていこうと思う。

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