悲しみの隣にあるもの
突然ですが、悲しみの隣にあるものは何だと思いますか?
そもそも、悲しみの隣って、どこでしょうか。
悲しみの隣…悲しみの近くということなのか、悲しみの傍にあるということなのか…
ここでは、悲しみの隣とは、悲しみを感じた時に、連鎖的にたどり着くであろう場所ということにします。
完全に個人的な感覚ですが、悲しみの隣には「喜び」があるということを確信しています。(※だからと言って悲しみが多ければ良いというわけではないが。)
これは、よくある「悲しいことの次には嬉しいことがあるよ」とか、「雨が続いても、晴れの日が来る」、「明けない夜はない」などといったことを伝えたいわけではないのです。
「悲しみ」が無いと、「喜び」も感じられないのではなかろうかということです。
例えばですが、めちゃくちゃ好きで恋焦がれている相手がいるとして、「告白したら必ず付き合える」という世界に住んでいたとします。
すると、告白が成功するのは当たり前なのであり、付き合えて当たり前なのであり、一緒にいれて当たり前なのであり、ありとあらゆることが当たり前にうまくいく世界であるとします。(その世界では“うまくいく”という概念もないかもしれない。)
するとどうだろう、おそらく告白して付き合うことは当たり前の出来事であり、そこに“喜び”は存在しえない。うまくいかない可能性がある(失恋=悲しみとします)ことで、悲しいという感情が芽生え、その反対の出来事であるうまくいくこと(恋愛成就=喜び)が“本当の意味での喜び”ということになるのだと思うのです。
どこかの本で読んだのですが、ようは、世界は“相対的”に出来ているということ。
“悲しい”という感情があるから、“嬉しい”という感情が存在し得る。その逆も然り。
なかなかに衝撃的な言葉との出会いでした…悲しい出来事なんて存在しなきゃいいと思っていたので。や、もろちん、起こらないにこしたことはないんですよ。ただ、存在しないわけにはいかないなあと。悲しみが存在しなくなったら、心の底から喜べることもなくなるということなのだと思うので。
世界は相対的に出来ている。
この言葉を、自分は先に述べたように理解しました。
悲しみの渦中にいる時、周りの人の小さな親切がめちゃくちゃ嬉しく感じられることも、このことに通ずるのではないのかなあと思っています。
ま、闘病中やしんどくてどうしようもない時は、こんなこと思えないのですけどね。でも、いつしか前を向けるようになった時に、あの悲しみも無駄ではなかったと、強がりもありつつも勇気をもって一歩を踏み出すための言葉として、心に留めておきたいと思うのであった。
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