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2024.9.11<新版統合版>第四部(中)記紀の論理的歴史の概要∶第26代継体から第36代孝徳(4-6)


4-6.記紀本史の第26代継体以降

4-6-1.記紀編纂者達の直祖の第26代継体

 記紀編纂者達の直祖が新羅王族分国の金官加羅国出自の新羅金氏11世代・第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)[=新羅葛文王立宗=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)] で、これからが記紀の本史です。
 記紀の本史は、新羅金氏の系譜の中で、独立支配権をもった新羅王族分国である金官加羅国の出自の王統譜が基盤です。金官加羅国は、金官加羅王初代金首露=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)=初代大国主・スサノオ等の新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の発祥国であり、新羅分国の金官加羅国出自の新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧、第16代仁徳、第26代継体、第29代欽明等の生育国です。
 日本書記が伝える第26代継体の記録は、出生から振媛が越前国に連れ帰るまでの幼少の頃(第26代継体は約7歳位)はありますが、次の記録は57歳の頃(子の第29代欽明が誕生する506年頃)になっており、約50年間の継体及び振媛の記録はありません。しかし、三国史記には四韓に分断して残されています。
 492年、第26代継体が高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)に就き、「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳の金氏高句麗朝が復興しました。
 498年、高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)は、新羅・尾張氏との約束により、尾張氏外戚の新羅金氏王の正統継嗣である高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)=第27代安閑(アンカン)に譲位します。
 500年、第26代継体は、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)に就きます。智証麻立干は、503年に国号を新羅とし、王の称号を使い始めました。
 記紀編纂者達は、第26代継体に第16代仁徳の傍系庶子の曾孫として、王位正統性を記しました。 
 第26代継体の「継体」とは、第16代仁徳の「体の継体」を意味しています。「体の継体」は、「DNA種族」が違う第15代応神や第21代雄略の「体」を継承することなど論理的にありえません。更に、捏造王の「体」を継承することなどあり得ません。
 第26代継体は、第3代安寧の甥の庶子(二男)系の第16代仁徳(推測:335±5年頃生から413年過ぎ歿)の後裔で、第3代安寧の甥の嗣子(長男)系の反正朝[第18~20代、百済第25代武寧王(在位:501~523年)]から王位を簒奪する対立関係にありました。

(1)第26代継体の祖系譜

 第16代仁徳から第26代継体までの父系祖の系譜は、以下です。
①曾祖父:新羅金氏8世代・新羅第17代金氏奈勿(ナソツ)尼師今(在位∶356~402年)=第16代仁徳[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)]
・曾祖母:未詳[推測:先皇后・尾張氏系葛城国磐(イワイ)之媛命]。

②祖父:新羅金氏9世代・新羅・宝海=尾張弟彦
・祖母:未詳。

③父:新羅金氏10世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)
・母:新羅金氏鳥生夫人=金官加羅国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑(シズ)=近江国・振(フル)媛。

④新羅金氏11世代・第26代継体
・王妃:新羅朴氏思道夫人=手白香(タシラカ)皇女(仮推定:495年頃生)[母は新羅金氏善兮夫人=春日娘子(仮推測:480年頃生)=石上氏宮古郎女、実父は未詳[(推定)第26代継体(450年頃生)]、継父は第21代雄略=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅・朴英失=重祚第24代仁賢(ジンケン)=和珥日爪(ワニノヒツメ)]。
・妃:新羅・息道夫人(生没未詳)=尾張目子媛[高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)の妃]=金官加羅国妃・金桂花[金官加羅国第10代金仇衡の妃]、新羅第24代真興王(在位: 540~576年)=高句麗第23代安原王(在位:531~545年)(=第28代宣下)の摂政・只召(チソ)太后[父は新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香、母は未詳]。
 
第16代仁徳から第26代継体までの系譜をみると、不可解なところがあります。尾張氏の名をもつ祖父と父に対し、曾祖父・第16代仁徳と第26代継体には尾張氏の名が見いだされませんでした。
 第16代仁徳の子で、第26代継体の祖父の新羅金氏9世代・新羅・宝海=尾張弟彦は、官位がなく、別名として尾張氏をもちます。弟彦であることから、第16代仁徳の庶子であったと推察されます。新羅・宝海の母は、未詳とされています。第16代仁徳(推測:335±5年頃生から413年過ぎ歿)は、新羅王を67±5歳頃まで就いており、新羅・宝海=尾張弟彦の新羅王承継順位は低かったとみられます。
 新羅金氏8世代・第16代仁徳は、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により高句麗王だけでなく朝鮮半島からも追放されて、子の新羅金氏9世代・新羅・宝海=尾張弟彦は、402年以降は密かに暮らしていたと推察されます。
 ところが、継体の父の新羅金氏10世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)は、早逝したとはいえ、新羅太子級の官位と、別名として尾張氏と倭名をもっていました。また、継体の母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国妃・淑=近江国・振(フル)媛は、父が新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=高句麗第20代金氏毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=第19代允恭、母が第18代反正(ハンゼイ)の娘の新羅王妃・阿老夫人/次老夫人=新羅・延帝夫人=新羅・普賢公主(花郎世紀)=忍坂大中姫[父は新羅伊飡(2等官)朴登欣=春日和珥深目]で、父母共に反正朝です。
 これらから考えると、第26代継体は新羅反正朝の継承者の資格があったとも言えますが、父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)と母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国妃・淑=振(フル)媛の系譜は後に改ざんされていることも考えられます。第26代継体と母は、尾張氏系ではなく、物部氏系です。
 新羅王嗣子は倭国で生育しますが、第26代継体は庶子系であり、本来倭国で生育できません。父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)が早逝した後に母と共に倭国に渡来していますので、身の安全のためと考えられます。父の習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)と祖父の新羅・宝海=尾張弟彦は古志国の尾張氏系とされていますが、第26代継体は、母・振(フル)媛が物部氏系[振(フル)媛の拠点は大賀羅国と近江国]ですから新羅王族分国の庶子系です。
 日本書紀によれば、450年頃に第26代継体は近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生しており、母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑=振(フル)媛は、倭国の古志国ではなく物部氏支配の近江国が拠点です。振(フル)媛の母の忍坂大中姫は、和邇氏系、物部氏系です。したがって、第26代継体には、尾張氏の別名がなくても不思議ではありません。
 日本書記編纂者達は尾張氏系であり、第26代継体は遠祖であるので、尾張氏(古志)系にこじつけています。
 
したがって、母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛は呉系「トベ」系統の大賀羅国が本拠国で、第26代継体が生まれた所は新羅王の妃系の大賀羅国であり、父の新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)は新羅の太子であったと推測されます。つまり、継体は、新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)の庶子でした。母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛が、金官加羅国第9代金鉗知(カンチ)王(在位:492~521年)の妃・淑となったことや、第26代継体が、最後に金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就いたことは、新羅王族分国系であることを裏付けています。

(2)第26代継体の主要な三つの後裔系統

 第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)は、多くの王妃、妃と子がいますが、その中に主要な三つの後裔系統があります。
 
①中央アジアの未詳の女性との子
第26代継体の若い時の長男の土門:土門(古テュルク語のブミン/カガンの意)=突厥大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)。 
 *第26代継体の二男は、西突厥初代西面可汗・室点蜜(イスミテ)/シルジブロス(在位:562年~576年)[=第29代欽明]です。以後、後裔系譜が続きます。
 
②(金官加羅国)王妃・手白香(タシラカ)皇女(仮推定:490年頃生)との子
 第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)=和珥日爪(ワニノヒツメ)
=新羅・魏花[魏花は只召(チソ)太后(=息道夫人)の情人]
=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)
=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)
=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)
=物部大市御狩[義父は物部目(先代旧事本紀)]=物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)[義父は物部尾輿]=物部弓削倭古。
 *第29代欽明の後裔は、第30代敏達、第32代崇峻、[捏造王]第33代推古A達頭=達頭=上宮法王=聖徳太子、第34代舒明、(末王)第36代孝徳です。

③高句麗妃・尾張目子媛(仮推定:510年頃生)[=金官加羅国第10代末王金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)の妃・金桂花=新羅・息道夫人=新羅摂政只召太后]の子
・兄の第27代安閑(アンカン)=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)。
・弟の第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)。
*576年、西突厥に移住していた達頭(=上宮法王=聖徳太子)が西突厥を連れて、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)を滅ぼします。

(3)第26代継体の生涯

 450年頃、第26代継体(推測:450年頃生~539年頃歿)は、庶子新羅王子として、母の大賀羅国で誕生しました。

457年頃(継体は7歳頃)、第26代継体は、父の新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)が早逝したので、母に連れられて母の倭国の近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)に7歳頃に移住しました。
 『日本書紀』は、450年頃に第26代継体は物部氏系の近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生し、記紀編纂時に父の尾張氏系の古志国に移ったと改ざんしています。尾張氏系の記紀編纂者達にとっては、直祖が尾張氏と無縁であっては困るからです。

465年頃(継体は15歳位)、新羅王族分国の金官加羅国の庶子新羅王子は、成人になると活路を求めて国外に出ます。第26代継体は、成人になって先ず北魏に、そして中央アジアの柔然に行き、力をつけました。

柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:Róurán/ローラン)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家です。「魏書」などでは蠕蠕(ゼンゼン)、「宋書」などでは芮芮(ゼイゼイ)、「周書」「隋書」などでは茹茹(ジョジョ)と表記されます。日本では、大津市の膳所(ゼゼ)の地名などに残っています。

 第26代継体は、465年頃の成人(継体は15歳位)から492年(継体は42歳位)の高句麗王に就くまでのほとんどを中央アジアで暮らしました。これは、第26代継体が、晩年朝鮮半島から追放された時、倭国ではなく、中央アジアの突厥(長男・突厥イリが柔然を滅ぼす)に永久移住したことや、第26代継体の子の金官加羅国庶子系の後裔が中央アジアで活躍していることも裏付けています。中央アジア(柔然や突厥)は、古来の祖郷であったもう一つの本拠地です。

第26代継体の最初の子は、中央アジア生まれの突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)[=吐門(新唐書)]です。伊利(イリ)可汗は、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)[=第26代継体(推測:450年頃生~?歿)]の長男です。伊利(イリ)可汗は、突厥部の部族長となり、茹茹(柔然)可汗国の土門(トメン:万人長)となります。552年、柔然を滅ぼし、突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)に就きます。
 因みに、吐務[=第26代継体]の異母弟は、西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)[=第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)]です。

490年頃(継体は40歳頃)、第26代継体(450年頃生)は、中央アジアで力をつけ、490年頃に朝鮮半島に回帰し、同じ伽耶を拠点としていた大伴氏と物部氏と和邇氏と同盟します。第26代継体は、30歳頃の春日大娘皇女(生没年不詳、推測:460年頃生)=新羅・興道/吾道(オド)娘主=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)(和珥糠君の娘)と同盟通婚します。春日大娘皇女との子はいないとされています。

第26代継体(450年頃生)が高句麗王、新羅王に着位するライバルが、新羅金氏12世代・島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=倭王武]です。島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)は、新羅金氏11世代の新羅第20代慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=百済第21代蓋鹵(ガイシ)王(在位:455~475年)=第20代安康=倭王興の継嗣です。

春日大娘皇女(生没年不詳、推測:460年頃生)の最初の通婚者(正妃)は、「DNA匈奴金氏」である島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武]と比定され、王太妃として武寧(ブネイ)王陵に疑似同葬(孫が代理同葬)されました。継嗣の武寧(ブネイ)王は、庶子系の第26代継体(450年頃生~539年頃歿)の同族内政敵です。春日大娘皇女(460年頃生)と島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)との子が倭国で没した淳陀(ジュンダ)太子(482年頃生~513年歿)です。淳陀(ジュンダ)太子(482年頃生~513年歿)の伴侶の女系後裔が、第50代桓武(在位:781年~806年)(739年生~806年歿)の母の高野新笠です。

第26代継体(450年頃生~539年頃歿)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)]は、物部氏と大伴氏の同盟に基づいて手白香(タシラカ)皇女(仮推定:490年頃生)を高句麗王妃(大加羅国在住)します。その後、尾張目子媛(生没年未詳、母は未詳、尾張連草香の娘)(仮推測:510年頃生)を妃にしますが、通説では高句麗妃としたとされていますが、年齢からみて、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)の妃・金桂花[=(廃位)新羅第25代真智王(在位:576~579年)の王妃・息道夫人=新羅第26代真平(チンピョン)王(在位:579~632年)の摂政・只召(チソ)太后]が初めてと推察されます。

492年(継体は42歳頃)、第26代継体は、朝鮮半島の大伴氏と物部氏の同盟協力によって、新羅・尾張氏系の新羅金氏12世代・島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)[=百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)]を退けて、高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官伽耶第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)]に就きます。
 
大伴氏と物部氏は、「DNA縄文人」である地上の政事統括者『大連』で、共に東倭国朝廷の軍事を管掌していました。宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような親衛軍の大伴氏と、国軍の物部氏でした。この時期は、倭国の筆頭統括者は大伴氏でした。新羅王族分国の妃系の大賀羅国と男王系の金官加羅国は、大伴氏が親衛軍を管掌する覇権者です。
 大伴氏は、伽耶で生育した第21代雄略と第26代継体を擁立し、最盛期を迎えます。大伴氏の最初の『大連(オオムラジ)』の記録(日本書記)は、第21代雄略の時代の大伴氏11世代大伴室屋(ムロヤ、生没年不詳)で、物部氏12世代物部目(メ)と共同『大連』です。次に、継体・欽明朝の『大連』は大伴氏13世代大伴金村であり、その当時は物部氏以上の権勢をもっていました。

498年(継体は48歳頃)、物部氏系の第26代継体は、新羅・尾張氏との同盟約束により高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)を譲位します。第26代継体の高句麗王後継は、高句麗妃・尾張目子媛の子の高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)=第27代安閑(アンカン)です。

500年(継体は50歳頃)、第26代継体は、高句麗王退位の2年後、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=金官伽耶第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)]に就きます。

503年(継体は53歳頃)、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=第26代継体]は、国号を新羅とし、王の称号を使い始めました。

506年(継体は56歳頃、欽明誕生、手白香(タシラカ)皇女は15歳位か?)、新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=第26代継体]と(金官加羅国)王妃・手白香(タシラカ)皇女(仮推定:490年頃生)との間に、第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)が誕生します。第29代欽明は、物部大市御狩(先代旧事本紀)=物部弓削倭古(先代旧事本紀)=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)=物部大市御狩(先代旧事本紀)=新羅・魏花、等の多くの別名があります。

512年(継体は62歳頃)、新羅第22代金氏智証麻立干(マリツカン)(在位:500~514年)[=第26代継体]は、新羅・尾張氏と対抗するために現韓国江原道の濊国の対岸にあった朝鮮半島に移住して建国された現鬱陵島の「羽山国(ウザンコク、=于山国)」を異斯夫を使い服属させ、朝貢させて勢力を補強します。「羽山/于山(usan、ウザン)国」は、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中]の祖国で、宇佐(usa)、ウサギ(ウサの男の意)の語源であり、藤原不比等が祖祭祀しました。倭国『大后』の祖系譜と深い関係があります。日本書記は「羽山戸神(ハヤマトノカミ)」として神話記載しました。

514年(継体は64歳頃)、第26代継体は、新羅・尾張氏により新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)を追放され、生育国の金官加羅国に避難移住します。
 第26代継体の新羅王後継は、異母弟の新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香です。以後、新羅王は、尾張氏外戚系のみになります。

521年(継体は71歳頃)、第26代継体は、7年後、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就きます。妃は、金桂花(仮推測:510年頃生)[=尾張目子媛=新羅・息道夫人(新羅第23代法興王の嫡女で、新羅第24代真興王=第28代宣化の母)=(廃位)新羅第25代真興王の摂政・只召(チソ)太后]です。尾張目子媛は、母は未詳とされているが、母は新羅朴氏保道/保刀夫人(仮推測:495年頃生)、母系祖母は新羅金氏善兮夫人=春日娘子(仮推測:475年頃生)、母系曾祖母は春日大娘皇女(460年頃生~526年歿)=新羅・興道/吾道娘主で、大賀羅国の出自です。

527年(継体天皇21年、継体は77歳頃)、物部氏は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]の要請により、物部氏が支配する近江国の近江毛野率いる東倭国物部軍を朝鮮半島に出兵しようとします。これを九州に地盤をもっていた筑紫国造大伴氏磐井(イワイ)が新羅・尾張氏と組んで阻止しようと動きました。
 528年(継体天皇22年11月)に物部氏14世代『大連』物部麻佐良の子の物部氏15世代物部麁鹿火(アラカイ)は、大伴氏磐井(イワイ)を鎮圧しました。これが、磐井(イワイ)の乱と呼ばれているものです。
 これにより、『大連』物部麻佐良は、『大連』大伴金村を政事界から引退させました。大伴氏本体を征圧したわけではないですが、これにより、東倭国および高句麗の筆頭覇権者は、物部氏に移り、物部氏の栄華に入っていきます。ただし、大伴氏と王妃系の大賀羅国及び伽耶の和邇氏との強い関係は、崩れませんでした。

532年(継体は82歳頃)、異母弟の新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香は、反新羅行動の金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体を金官加羅国と朝鮮半島から追放します。第26代継体は、金官加羅国の第二本拠地の西突厥に永住移動します。
 そして、新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香は、独立支配権を持った新羅王族分国の金官加羅国を532年に新羅に併合します。

539年頃(継体は89歳頃)、第26代継体は、西突厥で没します。倭国に回帰することはありませんでした。   

552年、伊利可汗(第26代継体の長男)は、柔然を滅ぼし、突厥初代大可汗に就きます。552年(継体は生存していれば102歳頃)、第26代継体の長男の突厥初代伊利可汗から第26代継体は西突厥大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)を追諡されます。

記紀は、第26代継体の519年の高句麗王追放から532年の金官加羅国王追放までの朝鮮半島の流浪の歴史を倭国に転写して、継体が約20年間ヤマトに入るのに苦労したと記しました。東倭国の政事統括者は物部氏であり、第26代継体の倭国常住部族は尾張氏系にも関係が深かったので、物部氏が覇権をもっているヤマトに入るのに苦労しました。

宮内庁が指定する継体天皇陵は、『延喜式』諸陵寮によれば、摂津国嶋上郡三嶋野に所在していたことになっています。現在、宮内庁によって管理されている継体天皇陵は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市、前方後円墳)ですが、これは嶋下郡に属し、墳丘形態や埴輪などから五世紀中頃に比定されています。一方、嶋上郡に所在する時代が合う六世紀前半の前方後円墳の今城塚古墳が継体天皇陵であるとの説もあります。「DNA匈奴金氏」である第26代継体は高句麗王や新羅王であったので、伝統的な王陵様式と違う前方後円墳の様式にすることはありえません。太田茶臼山古墳や今城塚古墳は、規模の大きさからみて、摂津国、あるいは、倭国を統括支配していた「DNA縄文人」である物部氏の倭国部族同盟大首長『大連』の王陵であると考える方がむしろ自然です。高槻市は、石器時代からの多くの古墳群が最近見出されています。

「DNA縄文人」は石器時代から創意工夫に富み、伴侶の倭国『大后』の意見や朝鮮半島にも5000年程度は居住して情報を取り入れて、新しい文化・文明を更に創意工夫をして積極的に取り込んでいます。 弥生時代や古墳時代は、渡来弥生人の女性伴侶の意見を取り入れて、創意工夫をして倭国風にした「DNA縄文人」が主導した文化・文明です。
 現在の国内の外来文化・文明のほとんどの製作は日本に居住している外来人による、と考える日本人はいません。茶室、山水画・花鳥画、中国料理、フランス料理、イタリア料理等の外来文化・文明は、外国に原初があっても、日本に居住した外国人が日本で製作したもの、製作している、と考える日本人はいません。
 外国に原初があっても、皆日本風にアレンジされて、原国とは違った工夫が追加されたり、日本人が創作して本国にはない外国文化・文明とされた例は数多あります。

(4)545年頃以降、尾張氏外戚の新羅系と物部氏外戚の新羅王族分国の金官加羅国系との朝鮮半島での覇権抗争が激化

 日本列島の部族同盟の最初の盟主の尾張氏と新興の物部氏との抗争は、王妃の外戚所属を懸けて、朝鮮半島の国間に日常的な緊張と抗争を起こします。四韓の王妃と王の親衛軍は、尾張氏、大伴氏、物部氏の常駐軍が管掌し、四韓は二重政事体制となります。どちらから王妃を輩出するかによって、一族の盛衰が分かれます。また、母の財産相続権は娘の継嗣のみにありました。また、親と言えば、父を含まないで母だけを指していたそうです(本居宣長)。

新羅と高句麗あるいは百済との抗争は、王妃の外戚の尾張氏と物部氏との間の抗争とも、新羅本国出自系と新羅王族分国の金官加羅国出自系との抗争ともみることができます。日本の封建時代に各地でみられた「お家騒動」と類似しています。

新羅の王妃族には、尾張氏系の真骨正統と物部氏系の大元神統の二つがありした。
 高句麗の王妃族の外戚には、物部氏系の麁(ソ)群と尾張氏系の細(サイ)群の二つがありました。正夫人の子は継嗣です。中夫人の子は世子(セジャ)と呼ばれ、その舅氏(シュウト)は麁群(ソグン)です。小夫人の舅氏(シュウト)は細群(サイグン)です。

新羅正妃の子達の所属国は新羅です。王妃の倭国の領国は葛城国、事情がある時は畿内を離れた古志国、尾張国等です。葛城国の「葛城」の原初は新羅朴氏の倭名で、葛城国は尾張氏外戚系の「トベ」系統『大后』系の支配小国です。
 新羅の尾張氏系である真骨正統の祖は、新羅第23代金氏法興王(在位∶514~540年)[=尾張草香]の娘の新羅・息道夫人=新羅摂政・只召(チソ)太后=金官加羅国第10代金仇衡(=第26代継体)の妃・金桂花=尾張目子媛です。
 真骨正統の祖の尾張目子媛と尾張草香の母は、共に未詳とされていますが、新羅分国の大賀羅国と推測されます。
 新羅真骨正統祖・尾張目子媛(仮推測:610年頃生まれ)の母系の祖系譜は、母が新羅朴氏保道/保刀夫人(仮推測:495年頃生)、祖母が新羅金氏善兮夫人=春日娘子(仮推測:475年頃生)=石上氏宮古郎女、曾祖母が春日大娘皇女(460年頃生~526年歿)=新羅・興道/吾道娘主です。
 尾張目子媛の母系の後裔系譜は、娘の皇太夫人・蘇我堅塩媛(姉娘)(仮推測:525年頃生)=新羅・阿陽公主 の娘から二つの系統に分岐します。ただし、二つの系統ではなく、同一人が続いている可能性も推測されます。
 蘇我堅塩媛(姉娘)(仮推測:525年頃生)=新羅・阿陽公主 の後の新羅真骨正統の母系の後裔系譜は、何故か生年未詳が多いです。この系統は、倭国の出自者、顔をもつのは額田王の母までいません。只召(チソ)太后(=尾張目子媛)(仮推測:510年頃生)と情人・新羅金氏二花(531年生~603年歿)との娘[出典:花郎世紀]の新羅真骨正統第2代首主・新羅萬呼(マノ)太后(555年生~?年歿)、その娘の新羅真骨正統第3代首主・新羅王妃・万明皇后=天明/天命公主、その娘の新羅第29代武烈王金春秋(在位:654年~ 661年)の新羅王妃・新羅真骨正統第4代首主・文明王后文姫(ムニ)=額田王[第37代斉明A淵蓋蘇文の大后、第38代天智の妃]、その異父の二人の娘の十市(トオチ)皇女[父は第38代天智]と藤原宮子[父は藤原不比等、第42代文武(在位:683~707年)の妃]、で女系は終焉します。

尾張氏系の新羅男王族は、新羅金氏8世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦、その孫の第26代継体の祖父の新羅金氏10世代・新羅・宝海=尾張弟彦、その子の第26代継体の父の新羅金氏11世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)、その子の新羅金氏12世代・新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香、その子の新羅金氏13世代・第27代安閑(アンカン)[新羅王に即位していない]=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:519~531年)、その弟の新羅金氏13世代・新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)です。
 そして、新羅金氏14世代・新羅王第25代(廃位)真智王(在位:576~579年)から新羅金氏15世代・第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)までは、他国の国王に就いていず、倭名も見出されていません。
 新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦以外は、物部氏が統括支配者である倭国で生育した新羅王はいません。
 新羅金氏8世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦は、新羅金氏7世代・第3代安寧の子で、母が「戸売」系統三世代・河俣(カワマタ)毘売(ビメ)で、倭国の尾張氏系葛城国で生育しました。
 新羅金氏12世代・新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香の母は未詳とされています。候補者には、新羅・延帝夫人=忍坂大中姫[母は弟日売真若比売命(古事記)=葛城国の黒媛=皇太夫人韓媛]がおり、倭国の支配小国は尾張氏系の葛城国です。 

物部氏系は、「倭国は母の国」によって母の父系で判断されており、物部氏と和邇氏が外戚です。男王族は金官加羅国、女王族は大加羅(オオガラ)国、女王族の倭国の支配小国は山城国、事情がある時はヤマトを離れた近江国、但馬国、吉備国等です。第26代継体=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)の母の振(フル)媛=新羅金氏鳥生夫人の倭国は物部氏系の近江国です。
新羅・大元神統の祖は、大加羅国出自の新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女の娘の新羅朴氏思道夫人=手白香皇女です。新羅・大元神統とは、新羅王族分国の大加羅(オオ・ガラ)国(略字は「賀(ガ)/加(カ)」)と金官加羅(キンカン・カラ)国(略字は「迦(カ)/加(カ)」)の女王系統を指すのかもしれません。

まだ検討が必要ですが、大元神統と真骨正統の両系統と考えられ系統があります。第29代欽明と高句麗妃·尾張目子媛(系譜では手白香皇女)との子に新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫]がいます。異母妹は、新羅・金珍娘主=蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫です。
蘇我堅塩(キタシ)媛の後裔系譜には、額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・善花公主=百済先王妃・善花、新羅・太陽公主=石上氏穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=百済後王妃・宝公主=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]、百済王妃・木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)=間人(アナホベハシヒト)皇女、倭(ヤマト)姫王(627年生~672年)=(推測)間人(アナホベハシヒト)皇女=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)、大田皇女(?~667年歿)、鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良がいます。
 新羅金氏8世代・葛城襲津彦(ソツヒコ)の娘の磐之媛、額田部皇女の倭国は山城国です。

記紀の金官加羅国出自系の倭王『大王』は、新羅金氏8代·第3代安寧、安寧の二男甥の新羅金氏9世代・第16代仁徳、仁徳の庶子系曾孫の新羅金氏12世代・第26代継体(450年頃生~552年頃歿)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)、継体の庶子系子の新羅金氏13世代・第29代欽明(506年生~576年歿)、継体の継嗣系孫の新羅金氏14世代・第30代敏達(ビダツ)、敏達の継嗣の新羅金氏15世代・第32代崇峻、欽明の庶子系子の新羅金氏14世代・第33代推古A達頭、達頭の継嗣の新羅金氏15世代・第34代舒明、舒明の継嗣の新羅金氏16世代・第36代(末王)孝徳です。
 新羅金氏9世代・第16代仁徳は、父が尾張氏系の新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津(ソツ)彦、母が物部氏系の新羅金氏休礼夫人=仲(ナカツ)姫命で、物部氏系の新羅王族庶子に属します。

物部氏系の第26代継体を朝鮮半島から追放したのは、異母弟の尾張氏系の新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張連草香です。

528年の磐井(イワイ)の乱の鎮圧は、倭国と伽耶と高句麗の筆頭統治者が大伴氏から物部氏に移ったことを意味します。

第26代継体の後継は、母が尾張氏系の新羅王継嗣系の第27代安閑(アンカン)と第28代宣化(センゲ)と、物部氏外戚系の新羅王族分国の金官加羅国系庶子[第29代欽明]とが、朝鮮半島の覇権を争います。    
 545年頃の第29代欽明の時代から、倭国と高句麗は物部氏外戚系、新羅は尾張氏外戚系と棲み分けが始まります。これは新羅と倭国との乖離の始まりで、尾張氏系の統一新羅の原初となります。以後、第29代欽明の後裔が、高句麗と百済の王統となります。

覇権抗争の中でも、545年の王妃外戚の小夫人・細(サイ)群系(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)]からの中夫人・麁(ソ)群系(物部氏系)の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]との高句麗王位の争奪は、激しい争いでした。結果は、第29代欽明が武力で高句麗王位を簒奪(サンダツ)しました。これで、第26代継体の尾張氏外戚系の高句麗朝は終わります。それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)(=尾張連草香)以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとっては高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=第29代欽明)は、王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。三国史記では、敗北した王はほとんど殺されたことになっていますが、生きています。匈奴系、鮮卑族系は、敵を殲滅する戦争カルチャです。これに対し、「DNA縄文人」の戦争カルチャは、勝敗が決したら敵を生かすこと、敵の殲滅を求めないことです。
 したがって、敗れた細群(尾張氏系)の二千余人の皆殺しや白村江の3000人もの女官が飛び降りた話や第35代崇峻の殺害は、作り話の可能性が大です。

4-6-2.尾張氏外戚系金氏安閑朝(第27安閑、28代宣下)

 安閑朝(第27、28代)は、物部氏系の第26代継体と未詳伴侶との子との子の皇朝で、高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:498~531年)=第27代安閑(アンカン)と、継体と尾張氏系の金官加羅国妃・尾張目子媛(仮推測∶510年頃生まれ)との子の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)です。通説では、27安閑と28宣下は尾張目子媛の子の兄弟とされていますが、年代が合いません。新羅尾張氏の覇権下の王朝です。尾張氏系の高句麗王は、これが最初で最後となります。
 安閑朝は、記紀の倭王『大王』としては第28代宣下で終焉しますが、この王朝は、新羅で続きます。
 以上のように、安閑朝は、朝鮮半島での第26代継体の尾張氏系の最初で最後の高句麗の王朝です。そして、朝鮮半島での物部氏と尾張氏の棲み分けを決める緊迫した三韓情勢の前兆の時代です。
 安閑朝の後裔は新羅、欽明朝の後裔は高句麗・百済、と棲み分けます。
特筆することは、倭国『大后』系は棲み分けをしないで、依然新羅王妃族との同体家族をその後も継続していきます。

4-6-3.物部氏と同盟し、その後離反した欽明朝(第29欽明、30敏達、32捏造王崇峻、33代捏造王達頭)

 第29代欽明(506年生~576年歿)は、物部氏と同盟し、『大連』にも一時繋ぎとして就きますが、最後は、物部氏に対抗して追放されました。物部氏と同盟したのは、共に、新羅に差別化されていた伽耶が本拠地であったからです。
 もう一つ特質することは、金官加羅は古来より中央アジアの柔然・突厥を第二本拠地としていたことです。それは、物部氏や尾張氏や大伴氏が、ペルシアやエジプト、ローマ帝国、イスラム圏、キリスト圏の情報を得ていたことを示します。
 第29代欽明(506年生~576年歿)の主な伴侶と子です。作為が多いです。
・皇后・石姫皇女(父は第28代宣化天皇)
 :第30代敏達天皇
・妃・堅塩(キタシ)媛(生没年未詳)(父は蘇我稲目宿禰=第29代欽明)
 :(第31代用明天皇)
 :額田部(ヌカタベ)皇女
 :(山背(ヤマシロ)皇子)
・妃・小姉(オアネ)君(父は蘇我稲目宿禰=第29代欽明)
 :穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇女(子が厩戸皇子=聖徳太子)
 :泊瀬部(ハツセベ)皇子=[架空王]第42代崇峻
・妃・糠子(ヌカコ)(父は春日日抓臣)
 :春日山田皇女(第27代安閑の皇后、子なし)
 
506年(継体は56歳頃、欽明誕生、手白香(テシラカ)皇女は15歳から20歳位でしょうか)、金官加羅・金武力[=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)が誕生しました。父は、第26代継体で、新羅王族分国の金官加羅国の出自です。母は、第26代継体の(金官加羅国)妃となった物部氏系の手白香(テシラカ)皇女(仮定:485年頃誕生)=新羅朴氏思道夫人です。金官加羅・金武力=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)は、母系制によって、母の一族の伽耶で庶子新羅王子として生育し、長じて高句麗に移ります。
   金官加羅・金武力=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目は、とりわけ多くの別名をもっています。金官加羅・金武力=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)=新羅・魏花[魏花は只召(チソ)太后(=尾張目子媛)の情人]=新羅・粛訖宗(スックルチョン)=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=物部大市御狩(先代旧事本紀)=物部倭古/弓削倭古(先代旧事本紀)]です。
 519年(欽明は13歳)、蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、第27代安閑との高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)(=第26代継体)の後継争いに敗れ、百済に亡命し、一族は百済木(キ)氏を称します。
    523年(欽明は17歳)、蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、反正朝の王位正統継承者の百済第25代武寧王(在位:501~523年)の後継として父の金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代金氏智証・麻立干 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]のバックアップにより百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)に擁立されます。百済第25代武寧王(在位:501~523年)の継嗣の淳陀太子(482年頃生~513年歿)は、倭国で没しています。
    531年(欽明は25歳)、百済第26代聖王(在位:523~554年)[=29代欽明=蘇我稲目(506年生)]は、細(サイ)群系(尾張氏外戚系)の高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]に圧力をかけて細(サイ)群系(尾張氏外戚系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=第28代宣化(センゲ)=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)]に譲位させました。
    書紀は、531年(欽明は25歳)あるいは532年に第29代欽明=蘇我稲目(506年生)[=百済第26代余氏聖王/聖明王(在位:523~554年)]は倭国亡命と記載していますが、小林恵子は新羅に行ったと推測しました。記紀は、高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)は倭国に亡命し、第27代安閑(アンカン)に即位したと記しましたが、蘇我稲目=第29代欽明は倭国ではなく新羅に行き、新羅に亡命した高句麗・安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]を新羅で殺害したのです。
   532年(欽明は26歳)、新羅第23代金氏法興王 (在位:514〜531年)=尾張連草香は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代金氏智証・麻立干 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]を反新羅の黒幕の動きにより追放し、独立な支配権をもった新羅王族分国の金官伽倻国を新羅に併合しました。高句麗・安蔵王(在位:498~531年)[=第27代安閑(アンカン)]の殺害の黒幕ないし当事者は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体であったからです。

物部宗本家分家14世代物部麻佐良(マサラ)の子の物部宗本家分家15世代物部麁鹿火(アラカビ)(536年歿)、第15世代物部尾輿(オコシ)の時代に物部宗本家、分家の世襲が不安定になりました。物部尾輿の子に物部守屋(モリヤ)(587年歿)と姻族の「DNA匈奴金氏」である物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]がいました。第29代欽明の母が高句麗の麁(ソ)群(物部氏外戚系)中婦人の高句麗妃の新羅朴氏思道夫人=手白香(タシラカ)皇女(新羅第24代真興王の王妃)]でした。
    536年直後(欽明は30歳頃)、物部宗本家分家15世代物部麁鹿火(アラカビ)(536年歿)の世継ぎがなく、また、物部宗本家分家14世代物部守屋(587年歿)も幼く、物部本宗家分家の姻族である蘇我稲目(506年生)=第29代欽明が物部御狩/大市御狩の名で『大連』を中継ぎすることになりました。蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、物部御狩/大市御狩の家族環境が同じであることにより『大連』物部御狩/大市御狩(先代旧事本紀)に比定されます。そのため、第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)は、物部大市御狩(義父は『大連』物部目、457年から474年には少なくとも生存)、物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)(義父は安閑・欽明両天皇の頃の『大連』物部尾輿、534年から552年には少なくとも生存)、物部弓削倭古、といった物部氏の別名をもっています。
   『大連』物部尾輿は、弓削倭古連[=物部大市御狩(先代旧事本紀)=蘇我稲目=第29代欽明]の二人の娘の弓削阿佐姫[=蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主]と異母妹の弓削加波流(カハル)姫[=石上氏蘇我小姉君]を妻としました。弓削阿佐姫の母は、新羅・真骨正統祖で尾張氏系の高句麗妃の尾張目子媛=新羅・摂政只召(チソ)太后です。弓削加波流(カハル)姫の母は、未詳とされていますが、呉系「トベ」系統と推測されます。つまり、『大連』物部尾輿は、新羅・真骨正統祖と新羅・大元神統系の両方の娘と通婚しています。
   
532年頃(欽明は26歳頃、堅塩媛誕生)、蘇我堅塩(キタシ)媛(推測:532年頃生まれ)=新羅・阿陽公主が、第29代欽明と高句麗妃であった尾張目子媛との間に誕生します。後に、蘇我堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主は、西突厥・吐務[=蘇我稲目=第29代欽明]の子として、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になります。第29代欽明は、新羅摂政只召(チソ)太后(=尾張目子媛=新羅・息道夫人)の情人の魏花の名で記されています。記紀は、皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛の母は、手白香(テシラカ)皇女=新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)に改ざんしています。蘇我堅塩(キタシ)媛の娘の額田部皇女や蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫の娘の石上氏穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女がペルシアないし中央アジアと関係があり、倭国『大后』の系譜上重要な位置を占める蘇我堅塩(キタシ)媛の素性については今後の課題が残されています。
   
538年(欽明は32歳)、百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)]は、百済国都を熊津(クマナリ、忠清南道公州市)から泗沘(シビ、忠清南道扶余郡)に遷都し、「南扶余」と国号を改め、百済王姓を扶余から取った「余氏」に変えました。このことからも百済第26代聖王(=第29代欽明)は、百済第25代武寧王(在位:501~523年)の実子ではないことがわかります。

百済聖王(=蘇我稲目=第31代欽明)は、540年から7年間は百済本記に登場しません。小林恵子によれば、百済外にいたからです。

538年/552年、仏教が、百済から倭国に公伝されました。372年、仏教が、高句麗第17代小獸林王(在位:371~384年)[=第8代孝元(コウゲン)]の時代に前秦から公伝されました。384年、仏教が百済国内に入りましたが、本格的に普及するのは6世紀初頭です。
   新羅は、新羅第23代法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]が仏教を公認しました。
    倭国には、渡来人(帰化人)が倭国『大后』への朝鮮半島の新しい文明として仏教の仏像や仏典を献上しました。522年に来朝した司馬達等(止利仏師の祖父)はその例です。
 日本書紀は、日本への仏教伝来ついて、第29代欽明天皇「戊午年」[注:「戊午年」は欽明時代に存在しないが、「戊午年」は欽明13年(552年)と解釈されている]に百済の聖明王/聖王[=第29代欽明]が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教を賞賛した上表文を献上したと記されています。この上表文中の『金光明最勝王経』の経文は703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の粉飾で、上表文の部分の書紀の記述の信憑性が疑われています。欽明天皇13年(552年)についても、釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年にあたるなど、後世の作為で、宣下3年「戊午年」(538年)説があります。百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]が、母の手白香(テシラカ)皇女=新羅・朴氏思道(サド)夫人(534年生~614年歿)[新羅第24代真興王(在位:540年~576年)の王妃]に新しい舶来品の一つとして献上したのが原初です。

545年頃の第29代欽明の時代から、倭国と高句麗は物部氏外戚系、新羅は尾張氏外戚系と棲み分けが始まります。これは新羅と倭国との乖離の始まりで、尾張氏系の統一新羅の原初となります。以後、第29代欽明の後裔が、高句麗と百済の王統となります。覇権抗争の中でも、545年の王妃外戚の小夫人・細(サイ)群系(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)]からの中夫人・麁(ソ)群系(物部氏系)の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]との高句麗王位の争奪は、激しい争いでした。結果は、第29代欽明が武力で高句麗王位を簒奪(サンダツ)しました。これで、第26代継体の尾張氏外戚系の高句麗朝は終わります。それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)(=尾張連草香)以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとっては高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとって高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。 
 545年(欽明は39歳)、第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目は、物部氏と同盟して、高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化]から高句麗王位を簒奪して高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)]に就きます。
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=蘇我稲目=第29代欽明)は王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。しかし、敗れた高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)=第28代宣下は、新羅に移動して新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)として存命しており、誇張です。

551年、サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になっていた蘇我稲目=第31代欽明の娘の蘇我堅塩(キタシ)媛が高句麗に帰国しました。この時、蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫(532年頃誕生)、石上氏蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主は、揃ってサーサーン朝ペルシア帝国から帰国したようです。蘇我小姉君と達頭の母の穴穂部間人は、記紀の記載は年代からみて不自然で、花郎世紀の蘇我小姉君の妹が穴穂部間人が理があり、双子かもしれません。

551年のサーサーン朝ペルシア帝国からの帰国は、ホスロー1世とエフタルとの対立が激化したことが考えられます。588年に、ホスロー1世は、突厥西方(現イリ)の室点密(シチテンミツ/イステミ)=第29代欽明と同盟を結び、長年の懸案だったエフタルを滅亡させました。

552年(継体は102歳頃、欽明は46歳)、異母兄の第26代継体の長男の土門(古テュルク語のブミン/カガンの意)が、柔然を滅ぼして、突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)に就きます。

552年(継体は102歳頃、欽明は46歳)、第26代継体(506年生まれ)が、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム) となります。これは、継体の歿後の追贈称号と思われます。

552年(欽明は46歳)、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(=継体天皇)の子(兄)の伊利(イリ)可汗(在位:552~?年)は柔然から独立すると、シル川方面に異母弟の室點蜜[=西突厥のシルジブロス/室點密可汗(シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目(506年生~570年歿)=第29代欽明(キンメイ)]を配置し、西方の守備と攻略を任せました。

蘇我稲目(506年生)=第29代欽明は、552年から559年まで、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)と西突厥・室點蜜の両方で活動していることになります。 

553年頃(欽明は47歳頃、達頭誕生)、第29代欽明(=蘇我稲目)が高句麗王と百済王の時に、新羅・太陽公主=穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(622年歿)との子の達頭が誕生します。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女の「間人はペルシアの意」が示すように、達頭は、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女が551年にペルシアから高句麗に帰国した時の子です。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女 =新羅・太陽公主は、母が石上氏蘇我小姉君(612年歿)=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主、父が第29代欽明です。ただし、母が、蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫(532年頃誕生)の異母妹の蘇我小姉君(612年歿)とされていますが、生年が不自然な矛盾があります。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女は母となった時は幼少(仮定:550年頃誕生)です。花郎世紀は、蘇我小姉君の妹が穴穂部間人としており、あるいは、双子かもしれません。

達頭は突厥西方の室点密(シチテンミツ/イステミ)=第29代欽明と穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(蘇我小姉君のペルシア時代の名か?)とのペルシアでの子とした方が、達頭の経歴により一致します。

554年(欽明は48歳)、百済に亡命移住していた高句麗王子・安岡上王[=第30代敏達(ビダツ)]は、父の蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明の百済王を継承して、百済第27代威徳(イトク)王(在位:554~598年)に即位しました。
 554年7月(欽明は48歳)、記紀と三国史記百済本記は、百済第26代聖王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]は、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦い、緒戦で奇襲を受けて戦死したとしていますが、高句麗王には在位していますので、これらは常套手法の作り話です。三国史記高句麗本記では、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)(=蘇我稲目)は、559年に歿しています。小林恵子によれば、実は、百済聖王[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]は、西突厥に移動し、シルジブロス(室點密可汗)(在位:562年~576年)に就きました。記紀では、第29代欽明(キンメイ)(=蘇我稲目(506年生))は、570年歿です。三人の別人として、三つの死亡年が捏造された典型例です。

高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明は、物部守屋(モリア)が長じて『大連』を継いでも、『大連』も高句麗王も手放そうとしませんでした。

556年(欽明は50歳)、4歳の「DNA縄文人」である蘇我馬子(551年生)=物部宗本家15代相当・物部宇麻呂は、「DNA弥生人混血縄文人」である物部宗本家分家14世代『大連』物部守屋の後ろ盾により、倭国から一端百済に移動待機しました。高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]を引退させ、物部宗本家14世代・物部宇麻呂=蘇我馬子(551年生)を第25代平原王の後継とする『大連』物部守屋の策でした。

559年(欽明は53歳、馬子は8歳、達頭は3歳頃位)、高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)[=蘇我稲目(506年生)=『大連』物部大市御狩=第29代欽明]が物部(蘇我)馬子への高句麗王への継承を守らないので、『大連』物部守屋により高句麗、朝鮮半島から永久追放され、金官加羅の第二本拠地である中央アジアに移住します。
   559年(欽明は53歳、馬子は8歳)、倭国政事統括者である物部宗本家分家14世代『大連』物部守屋は、尾張氏外戚の新羅に対抗するために高句麗物部朝化を図り、「DNA匈奴金氏」である母方祖父の蘇我稲目の子として「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部総本家の幼少8歳の物部宗本家15代相当・物部宇麻呂=蘇我馬子(551年生ま~628年歿)を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)]に擁立しました。

562年(欽明は56歳、達頭は9歳頃)、蘇我稲目(506年生)[=高句麗第24代陽原王(在位:545〜559年)=第29代欽明]が、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)に就きます。
   562年(欽明は56歳)、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、西突厥の初代西面可汗・室点蜜(イステミ、室点密第26代可汗、瑟帝米)/シルジブロス(在位:562年~576年)[=蘇我稲目=第29代欽明]の報復を恐れて、蘇我稲目の母国である独立した支配権を持っている新羅王族分国の大加羅国(一名:高霊(コリョン)伽耶)を新羅に併合し、続いて、倭国政事統括者の物部氏が支配する倭国分国の日本府任那を滅ぼしました。朝鮮半島南東部はすべて新羅国となり、物部氏は、朝鮮半島の分国拠点を失いました。

567年(欽明は61歳)、突厥大可汗・木汗可汗(在位:553年~572年)の代に、室點蜜[=蘇我稲目=第29代欽明]は、サーサーン朝ペルシャ帝国と共同してエフタルを滅ぼしました。

574年頃(達頭は15歳頃)、達頭は、金官加羅の慣例によって、新天地を求めて北魏に仕官します。

576年(欽明は71歳、達頭は18歳頃)、蘇我稲目=第29代欽明は、金官加羅の第二拠点の中央アジアで逝去します。
   576年(達頭は18歳頃)、突厥の初代両面可汗の室點蜜[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]が退位(死歿)し、子の玷厥(テンケツ)[=達頭(553年頃生)=上宮法王=聖徳太子]が後を継いで、第二代西面可汗・達頭可汗(タルドゥ・カガン、在位:576年~603年)阿史那(アシナ)氏玷厥玷厥(テンケツ)に任ぜられ、中央アジアの統治を任されました。達頭は、欽明の高句麗王や百済王や金官加羅国の継承ではなく、中央アジアの西突厥を継承します。

(注)百済6号墳を発掘した軽部慈恩(1897年生~1970年歿)

    軽部慈恩(カルベジオン)(1897年生~1970年歿)は、忠清南道の公州(コンジュ)地域に高校教員として赴任している間に、学校の裏手にあった宋山里(ソンサンリ)で百済時代の古墳群を発掘し、総督府と東京帝大の共同発掘事業とのお墨付きのもと、次々と墓を発掘して埋葬品を東京帝大や国立博物館など多方面に寄贈し、自らは考古学雑誌:「公州における百済古墳」という研究論文を発表しました。
    戦前に日本に送ったものは、一部が東大考古学研究所にあるのですが、戦後持ち帰ったものは、行方不明だそうです。軽部氏は、警察には百済6号墳は何者かによって盗掘が行われていたと「申告」しました。この隣接した6号墳は、日本に仏教を伝えた6世紀の百済の聖王(ソンワン)のものと壁画などから推定されていますが、疑問があります。
     因みに、1971年に発掘された隣接した未盗掘の7号墳武寧王の出土品は、108種類2906点で、そのうちの12件17点が国宝に指定されました。
    李亀烈著『失われた朝鮮文化』(新泉社、1993)は、戦後は日本大学に勤務した軽部慈恩(カルベジオン、1897~1970年)が戦前に百済王陵、中でも武寧王以上の財宝と墓誌があったとみられている未盗掘の6号墳の百済第26代聖王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)=第29代欽明=蘇我稲目(506年生~570年歿)]と推測される王陵を発掘したが、今なお膨大な発掘品は一切隠していると抗議しています。
 蘇我稲目は、高句麗王の前に百済第26代聖王/聖明王(在位:523〜554年)に就いていますが、百済に未盗掘の陵があったとしても、朝鮮半島から『大連』物部守屋により永久追放されて西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)として歿しており、少なくとも遺体はなかった筈です。第29代欽明=蘇我稲目は、反正朝の正統継嗣の百済武寧王から王位を簒奪した第26代継体の嫡子であり、追放された者の陵が百済や高句麗にあること、いわんや武寧王と隣接した陵を考えるのは難しいことです。
 李亀烈氏は、抗議根拠として、<軽部は、自分が古墳内の埋蔵品をごっそり持ち出してもぬけの殻にした後、警察には何者かによって盗掘が行われたと「自己申告」したこと。><敗戦後、軽部がトラックに文化財と図書を積んで釜山方面に逃げたと、勤めていた学校の同僚の証言があったこと。>を挙げていますが、論理的にはこれを根拠事実とするにはハードルが高いです。論理的には、李亀烈の抗議は根拠事実の再検証が必要です。
 2006年、軽部氏の遺族が韓国の「公州博物館」に寄贈した「6号墳の遺物のすべて」としたのは瓦4枚です。百済第26代聖王(在位:523~554年)が、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)と西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)と同一人であるとすれば、百済6号墳が百済第26代聖王の王陵かは疑問です。6号墳に貴重な埋葬品があったとすれば、また、瓦4枚しかなくても、壁画等が勤務高校内や地元の話題になっていたことがあり得ます。通常、盗掘された6号墳であっても、壁画や形状などの6号墳に関する軽部氏から何らかの研究報告がされた筈です。誤解を受けるような発掘の仕方であったのでしょうか。日本の古墳から研究者が茶碗ひとつでも盗んだことが分かれば、その人は二度と学究の場に復帰できないでしょう。いずれにしろ、古墳と埋葬品の事実の真相の究明が必要です。
 <参考文献>「失われた朝鮮文化」 李亀烈(イグヨル)著 南永昌(訳)、新泉社、2006/08/25。

4-6-4.舒明朝(第34舒明、36代末王孝徳)

(1)第34代舒明(ジョメイ)(564年生~641年歿)

 金舒玄(576年頃生~641年歿)=第34代舒明(ジョメイ)は、第26代継体、第29代欽明、達頭=聖徳太子と同様に金官加羅の出自系統です。
 第34代舒明(ジョメイ)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)は、父が達頭=上宮法王=聖徳太子(553年頃生~630年歿)=西突厥の第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)=[捏造]百済第29代法王(在位:599~600年)、母が新羅・阿陽公主=皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫=石上氏宮古郎女(先代旧事本紀)です。
 新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛は、母が尾張目子媛[=新羅摂政只召(チソ)太后]、父が物部倭古/弓削倭古=西突厥・吐務(トム)=蘇我稲目=第29代欽明で、高句麗での子と推測されます。
 金官伽耶・金舒玄(576年頃生~641年歿)[=新羅将軍・金舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]の出生については父が不明朗な所がありますが、小林恵子の史料からの推察によれば実父が達頭(=聖徳太子)(553年頃生~630年歿)[=百済第29代法王(在位:599~600年)]です。
 金舒玄(576年生)の家系図では、第34代舒明(ジョメイ)の父が百済檐魯(タムロ)の任那伽耶王の金武力(506年生)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=蘇我稲目=第29代欽明]、祖父が金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体(450年頃生)、母が新羅・阿陽公主[=蘇我堅塩(キタシ)媛]です。誕生日から見ると、金舒玄(576年生)=第34代舒明は、金武力(506年生)=第29代欽明の孫です。
 576年頃(舒明誕生、達頭は23歳頃、欽明は70歳)、新羅金氏14世代・達頭=上宮法王が、西突厥を連れて新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)を滅ぼした時に、551年にペルシアから朝鮮半島に回帰し、新羅に帰っていた母の新羅・阿陽公主=蘇我堅塩媛との間に金舒玄が生まれました。父を達頭から第29代欽明に変えたのは、第34代舒明が第29代欽明の後継であるとの箔をつけるためと、儒教倫理を考慮して、後世改ざんしたものです。
 以下は、第34代舒明(=百済第30代武王)の伴侶と子です。
 金舒玄(576年頃生)[=第34代舒明]と額田部皇女(554年生)との間の高句麗での私通の子が、高向玄理=高向黒麻呂=高向宇摩=阿部臣麻呂=高向王(590年末生)です。小林説は、達頭=聖徳太子が、590年末に東突厥に入る前に子の高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第34代舒明と同盟した時、嬰陽王は高向玄理を身ごもった後宮の女を当時の慣習で達頭に贈りました。百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=第20代安康]の子の百済武寧王と同様に当時の「摩腹子(注:新羅では身分の低い官吏が妊娠した妻を自分の上役に贈る制度で、日本の連れ子)」という慣習です。

金舒玄(=第34代舒明)と新羅王妃・万明(マンミョン)皇后との間の子が、統一新羅の最大貢献者の金庾信(ユシン)(595年生~673年歿)と額田王[第37代斉明A淵蓋蘇文の『大后』、第38代天智天皇の妃]=新羅・文明王后文姫[新羅第29代武烈王の王妃)=鏡王女(藤原鎌足の正妻時代]です。
 新羅王妃・万明皇后は、父が新羅・粛訖宗[=金官加羅・金武力=第29代欽明]、母が新羅・萬呼(マノ)太后、母方祖母が尾張目子媛です。
 高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=金舒玄(576年頃生)=第34代舒明]と宝皇女(593年生)との高句麗での子が、高句麗・大陽王[=百済第31代義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳(コウトク)]です。
 百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(576年頃生)]の百済先王妃は百済・善花公主[=新羅・善花公主=額田部皇女(554年生~628年歿)]、後王妃は百済王妃・宝公主=百済名:沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝公主=宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・涓花夫人(新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の王妃)]です。第35代皇極B宝皇女は、父が書紀に明記されていない唯一の天皇です。記紀は、第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷の不都合な事実を隠蔽するために、身代わりに改ざんして第35代皇極B宝皇女にします。
 因みに、百済・沙宅(サテク)ヨン(=宝皇女)は、倭名が中臣氏である百済佐平沙宅(サテク)積徳の養女です。「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である中臣鎌足(大阪府高槻市 阿武山古墳遺体)は、兄の百済大佐平沙宅(サテク)智積です。沙宅(サテク)智積の祖は、伽耶です。

 以下は、第34代舒明の年代を追った経歴です。
 576年頃、金舒玄が誕生しました。その後、新羅将軍・金舒玄になります。
 590年(舒明は14歳頃)、金舒玄[=第34代舒明]は、父・達頭[=上宮法王=聖徳太子]の根回しで、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=金官伽耶・金舒玄=新羅将軍・金舒玄=百済第30代武王(在位:600~641年)]に就きます。これは、ペルシアに永久移住した高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子の継嗣の物部(蘇我)蝦夷[=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]が4歳位の幼少のための一時繋ぎでした。
 600年(舒玄は24歳頃、蝦夷は14歳頃)、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]は、一時繋ぎの条件であった高句麗王を退位する代わりに、百済第30代武王(在位:600~641年)を物部氏から与えられます。しかし、第34代舒明は、高句麗王を退位しようとしませんでした。これが物部氏との離反になり、百済滅亡の契機になります。
 第34代舒明=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)は、高句麗王と百済王に同時に即位していても、三韓を統一せず、高句麗と百済さえ統一しませんでした。出来なかったのです。背後の実権者は、「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部氏と尾張氏だったからです。
 
618年(舒明は42歳頃、達頭は67歳、蝦夷は32歳頃)、達頭=上宮法王がペルシャに移住すると、物部(蘇我)蝦夷[=高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)]に高句麗王を奪回され、第34代舒明は百済王に専従します。第34代舒明は、第26代継体や第29代欽明の場合と違って、三韓から追放されませんでした。父が達頭のための配慮です。
 628年(舒明は51歳頃、達頭は75歳位、馬子は77歳歿)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]が、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。
 629年(舒明は52歳頃、達頭は76歳位)、628年に第31代用明=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子が歿したので、百済第30代武王はやっと第34代舒明(ジョメイ)である倭王『大王』の称号を物部氏から得ることができました。
 630年(舒明は53歳頃、達頭は78歳頃歿)、父・達頭が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国第27代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月17日)に就き、40日後にサーサーン朝の貴族によって殺害されました。
 641年(舒明は64歳頃歿、蝦夷は55歳頃)、百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(576年頃生)]は、歿します。

(2)第36代(末王)孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)

 第36代孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=高句麗・大陽王は、父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]、母が宝皇女[=百済王妃・宝公主=百済王妃・沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=新羅王妃・涓花夫人]です。 
 第36代孝徳は、高句麗で高句麗王継嗣として生まれましたが、父が物部氏により高句麗王を追放されたので、高句麗王は継承できず、百済王を継承しました。
 百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]の百済先王妃は百済宝公主/沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝公主=百済・宝公主=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の王妃]、後王妃は百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)]です。
  「間人(ハシヒト)」は、波斯(ハシ)人=ペルシア人と同意です。
  間人(ハシヒト)皇女は、父が百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明]、母が宝皇女(593年生~661年歿)です。間人(ハシヒト)皇女は、百済佐平・木氏の養女となり、百済王妃になります。 
 627年(天智誕生、宝皇女は34歳)、新羅・宝公主=宝皇女は、新羅第25代真智(シンチ)王(在位:576~579年)の異父弟の金仇輪との間に新羅波珍飡(4等官)和邇氏金善品[=第38代天智]を生みます。新羅・宝公主が、百済武王の後王妃となった時に、金善品は共に移り、百済第31代義慈王の養子の第二王子・翹岐(ギョウキ)を称します。「DNA匈奴金氏」である新羅王統とは「DNA種族」が違うので、身の危険があるからです。百済は、和邇氏のもう一つの拠点でありました。 
 金仇輪の母は新羅・朴氏思道夫人[新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃]=手白香皇女、母の父は新羅和邇氏の新羅王族・朴英失[=第21代雄略]です。朴英失、金仇輪、金善品[=第38代天智]の本貫は伽耶で、新羅・和邇氏です。

642年(天武は19歳頃、蝦夷は56歳頃)、高句麗・淵蓋蘇文(623年生)は、祖父・金舒玄の復讐と「DNA匈奴金氏」の高句麗王朝を奪回するために、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]を高句麗で殺害します。これによって、物部氏は、第26代継体以来の金官加羅系金氏との信頼を無くし、同盟を解消します。   
 淵蓋蘇文は、曾祖父が達頭=上宮法王=聖徳太子、祖父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明=百済第30代武王(在位:600~641年)]、父が高句麗・高向玄理、母が宝皇女です。 
 記紀は、不都合な出来事を隠蔽するために、高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]の『大后』宝皇女を身代わりとして第35代皇極(コウギョク)B宝皇女に捏造しました。

645年乙巳(イッシ)、中大兄皇子(627年生)=百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅波珍飡(4等官)和邇氏金善品=第38代天智]らが、淵蓋蘇文に対抗して「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)蝦夷の子の高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺します。物部(蘇我)入鹿は高句麗王の継嗣であるので、母の宝皇女の倭国で居住していました。宝皇女(593年生~661年歿)にとっては、自身の安全を確保してくれる物部氏との関係は最優先事項ですが、子の中大兄皇子(627年生)と孫の高句麗宰相&将軍の淵蓋蘇文(623年生)との板挟みでした。 
 日本書記は、645年に蘇我入鹿が、中大兄皇子[=第38代天智]や中臣鎌足(阿武山古墳の被葬者)[=百済大佐平沙宅智積]等によって宮中にて暗殺され、父の蘇我蝦夷(実際には642年に高句麗で殺された)は翌日自死したと記していますが、物部(蘇我)蝦夷は倭国と三韓の覇権者であり、戦わずして自死するなどありえません。
 645年乙巳(イッシ)の変の後、女系(推定:宝皇女)によって「DNA呉系倭人混血縄文人」である6歳の石上氏(イソノカミウジ)麻呂(639年生~717年没)をもって『大連』が継承されます。物部(蘇我)入鹿の母は、宝皇女です。(物部氏)石上氏麻呂は現在の天皇に繋がる血統祖です。因みに、「石上氏」は、女系氏族名です。
 
655年(天武は22歳頃)、高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生)は、高句麗を出国し、親新羅の倭国亡命政権の第37代斉明(サイメイ)A蓋蘇文(推定在位:655~667年)[=筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬]に就きます。『大后』は、新羅第4代真骨正統首主・額田王[=新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)]です。高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生)は、百済を見離しただけでなく、百済を新羅に併合する密約を交わしていても不自然ではありません。 
 記紀は、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文の不都合な事実を隠蔽するために、『大后』額田王は新羅第4代真骨正統首主で身代わりにできず、淵蓋蘇文の母の宝皇女を第37代斉明(サイメイ)B宝皇女に捏造しました。

660年、百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。義慈王、太子・隆が降伏して、多くの臣下と共に唐都・洛陽に強制連行されます。同年義慈王は唐で没したとされています。   
 同年、百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅・金善品=第38代天智]は、一端高句麗に行きます。避難移動ではなさそうです。百済・翹岐(ギョウキ)王子は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)と新羅との密約を知っていたと思われます。その後、母・宝皇女と共に倭国に避難移動しました。
 
661年、68歳の母・宝皇女(593年生~661年歿)が、記紀では倭国前線基地の九州筑紫で歿します。因みに、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]の歿年は、伴侶の新羅第29代武烈王(在位:602~661年)と同年です。現在の慶尚北道慶州市西岳洞にある武烈王陵は、新羅の陵のなかで唯一埋葬者が明確に認められる王陵です。武烈王陵の後方には一直線上に整列している4基の古墳があります。宝皇女は、記紀では初の火葬とされていますが、新羅で本埋葬されていると推測されます。また、歿したのも安全な新羅となります。想像すれば、後方の4基の古墳は、先王妃の文明王后金文姫=額田王(金庾信の妹)、後王妃の新羅・涓花夫人金宝姫=宝皇女(金庾信の長妹)、間人(ハシヒト)皇女[=百済王妃・木氏恩古(ウンゴ)](宝皇女の娘)、が考えられます。

663年、百済王族や遺臣達と倭国は、百済復興を目指し白村江の戦いをしましたが敗れました。その後、唐は旧百済領の経営に乗り出しましたが、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられました。
 百済が白村江の戦いに敗れた時、この場所から後宮の3000人の官女が身を投げたと伝えられている落花岩の伝説がありますが、後世の作り話です。義慈王、太子隆が降伏して、捕虜となっているのに、官女が捕虜後を支えないで身投げしたりする行動パターンは、朝鮮半島では珍しいことです。高麗、李氏朝鮮の時代、女性は国のために貢女とされるのが普通です。身投げしたとされる落花岩の場所は、河に落ちるのではなく、下の岩に当ります。人数も伝統的な誇大化数字です。多数の貢女を隠蔽するための後世の儒教の作り話とみてよいです。
 
665年、記紀では、間人(ハシヒト)皇女[=百済王妃・木氏恩古(ウンゴ)]が、没します。記紀では、間人(ハシヒト)皇女は母の第37代斉明B宝皇女陵である越智岡上陵に隣葬されています。実際に遺骨があるのか、分骨であるのか、未詳です。百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、百済滅亡(660年) により665年から唐の戦争捕虜になったのか未詳にされています。母が新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=宝皇女であるので、百済王妃・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、唐に連行されていないと考えられます。
 668年、高句麗第28代宝蔵王(在位:642~668年)は唐に連行されますが、高句麗の架空王と見なされ、唐の王族待遇を受けます。
 676年、新羅が朝鮮半島を統一しました。

(3)舒明朝のエピローグ

 舒明朝は、記紀の編纂者達にとって直近の祖朝です。第29代欽明の金官加羅系の後継として、高句麗王、百済王を継承し、百済を終焉させた王朝です。
 舒明朝(第34代舒明、第36代孝徳)は、第3代安寧、第16代仁徳、第26代継体、第29代欽明以来の新羅王族分国の庶子新羅王子の宿命をもった金官加羅の出自系統です。
 この傍系の金官加羅の出自系統から、四韓の宗国で、扶余族盟主の後裔である高句麗王、百済王を弱小で辺境の新羅国から輩出するという奇跡に近いことをしました。
 舒明朝は、587年の丁未の変以来の物部総本家の推古・皇極朝との覇権抗争を決算した皇朝で、このために衰退・滅亡しました。その大きな出来事は、642年の高句麗宰相・淵蓋蘇文(=第40代天武)による高句麗第27代栄留王=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷の弑逆、645年の乙巳の変での百済・翹岐(ギョウキ)王子(627年生~672年歿)=新羅波珍飡(4等官)和邇氏金善品(新羅第25代真智王の弟の金仇輪の子)=中大兄皇子[=第38代天智]らによる高句麗太子・物部(蘇我)入鹿の暗殺、668年の第38代天智による第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文の皇位簒奪(サンダツ)、672年の大海人皇子[=淵蓋蘇文=第37代斉明A=第40代天武]による第38代天智の暗殺がありました。それらは、記紀に記載するにはあまりにも不都合な事件でした。淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)[=第40代天武]が関与した時代の倭王『大王』の系譜自体を改竄せざるを得ないことでした。
 第34代舒明(ジョメイ)は、第29代欽明と同様に、物部氏と同盟して興隆し、離反することによって衰退します。第26代継体、第29代欽明、第34代舒明(ジョメイ)、第36代孝徳は、三韓の「DNA縄文人」である実権者の尾張氏か物部氏と離反した時に、追放されます。これが、達頭=聖徳太子と第40代天武の遺言の十七条の憲法の第一条、「倭(=縄文人政権)に背くな」の源初です。

第34代舒明(ジョメイ)の母が違う子供達は、高句麗、百済、新羅、倭国の各国の王に即位ないし覇権を握りました。母が違う系統が、高句麗、百済の滅亡を早め、統一新羅の原動力となります。
 高句麗は、第34代舒明(ジョメイ)と額田部皇女の孫の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(595年生~673年歿)が高句麗宰相・将軍として高句麗の覇権を掌握し、高句麗物部朝を滅亡しました。そして、655年頃に親新羅の倭国亡命政権の第37代斉明A淵蓋蘇文を樹立し、倭国『大后』を新羅真骨正統第4代首主・額田王としました。
 百済は、第34代舒明(ジョメイ)と宝皇女[=百済王妃・宝公主=新羅後王妃・涓花夫人]との子の百済第31代(末王)義慈王(在位:641-660年)=第36代孝徳(コウトク)で、百済末王となります。
 新羅は、第34代舒明(ジョメイ)=新羅・金舒玄将軍と新羅王妃・万明皇后=天明/天命公主との子は、新羅統括将軍となり、後の統一新羅の最大貢献者である金官加羅・金庾信(ユシン)(595年生~673年歿)と、妹の新羅真骨正統第4代首主・額田王[(新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の先王妃の新羅・文明王后、第37代斉明A淵蓋蘇文の倭国『大后』、第38代天智の妃]です。
 
達頭=上宮法王=聖徳太子は、高句麗物部朝と深く関わっており、物部氏に協力して高句麗欽明朝や百済舒明朝の建朝の役をしました。しかし、高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)が642年に高句麗物部朝を滅ぼしたことによって、物部氏のバックアップをその後失いました。淵蓋蘇文は、倭国政事統括者の「DNA縄文人」の力をよく知っており、物部氏から新羅・尾張氏に乗り換えました。
 
舒明朝は、物部氏との同盟により興隆し、物部氏から離反し高句麗を追放されました。
 百済を終焉させた新羅金氏16世代・百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳は、金氏宗国の尾張氏系の新羅に見離され、高句麗物部朝を父が滅ぼしたので物部氏に見離され、宗主の高句麗は事実上滅亡しており、百済は滅亡すべくして滅亡したと見ることができます。
 ただし、東倭国は、物部氏と百済垂仁朝と百済応神朝と百済雄略朝の和邇氏にとって重要な意味がありますが、過去のことです。しかし、和邇氏後裔の藤原氏にとっては、過去のことではなく、現在のことです。これが、滅亡後の百済が脚色された理由です。

高句麗物部朝を滅ぼした第34代舒明(ジョメイ)の孫の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(595年生~673年歿)が、物部氏を見限って、新羅の尾張氏の陣営につく道は、新羅と尾張氏に利用だけされることを意味し、閉ざされていました。現在の主流の天武評価が粉飾に満ちたものであり、実際は第40代天武に在位中は孤独であったとの分析もあります。
 古事記は、本貫が金官加羅の出自系統である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~673年歿)が、金官加羅系の宗家である百済舒明朝を見離して、親新羅の倭国亡命政権を樹立した時に王位正統性を粉飾するために、第33代推古(スイコ)天皇B額田部皇女(554年生~628年歿)を直の継承元とした編纂を発議したもので、舒明朝は除外されています。
 
また、日本書記は、新羅・尾張氏外戚の女帝・第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と新羅本貫の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原不比等が編纂責任者です。第44代元正(ゲンショウ)の母・『妃』藤原宮子は、『大后』になれず、第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后=阿陪皇女]に匹敵できる皇位正統性を示すために第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂したものです。第43代元明(ゲンメイ)(女帝)の母は妹の蘇我姪娘(メイノイラツメ)で、鸕野讚良(ウノノサララ)の母は姉の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の格上です。

古事記も日本書記もいずれも舒明朝は、終焉王朝で大きな意味をもっていません。したがって、舒明朝の真実を隠蔽・改ざんするのは当然の帰結です。今後の詳細な解明を待ちたいと思います。
 終焉王朝である舒明朝は、論理的に不自然な伝承が多々見られるのは、必然の帰結です。

次の時代は、物部氏の代わりに、伽耶本貫の和邇氏が新羅・尾張氏と組んで、倭国で興隆します。
 因みに、「藤原」の語源は、伽耶の中心に位置していた火自振(ヒジフル)です。火自振(ヒジフル・日出原)の古地名は、三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。『ヒ』とは『日』のこと、「ブル」は九州各地の「原(注:小さなレベルの国の意)」の読み方が「バル」ということで同音同義です。「ヒジフル(火自振)」は「ふじわら(藤原)」です。 

4-7.欽明朝に繰りこまれた高句麗物部朝(第31用明・蘇我馬子、35代皇極A蘇我蝦夷)

4-7-1.蘇我馬子と物部宇麻呂と高句麗第25代平原王とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世は皆同一人

   倭国、四韓の歴史において、通説と大きく外れていたことの一つが、物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)と物部宗本家15世代物部宇麻呂と高句麗第25代平原王(在位:559~590年)とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)は、皆同一人であることです。これらは、状況証拠と論理的考察から成立します。
   記紀は、「DNA縄文人」である倭国政事統括者を裏に隠した金氏史書ですが、表に出さざるを得ない事情ができ、物部(蘇我)馬子、蝦夷、入鹿は二人の悪人と善人の人格に分けて記しました。表に出さざるを得ない事情とは、高句麗末に「DNA縄文人」である物部王朝が樹立され、その王朝の「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)であった第40代天武にとっては、皇位正統化のためには避けて通れなかったからです。

これと類似した例に、新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香と娘の新羅朴氏摂政只召(チソ)太后=新羅・息道夫人=尾張目子媛は、新羅・尾張氏を表に残しています。つまり、新羅・尾張氏は二人で終ったことを示し、統一新羅から尾張氏を排除するためです。

先ず、「記紀の蘇我馬子」と「先代旧事本紀 (平安時代初期に成立したとされる)の物部宇麻呂」との同一人性について説明します。

記紀では、蘇我馬子(551年生~628年歿)の父は蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)ですが、この通説では、第29代欽明(キンメイ)の高句麗王の即位と追放や、淵蓋蘇文の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷]の殺害、等を説明できません。

先代旧事本紀の事実を年代から考えると、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は物部宗本家第11代・『大連』物部目の晩年の子で、物部宗本家分家14世代・物部守屋と世代を合わせるために、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は物部宗本家第15代相当としたものです。物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は、石上氏麻呂の父ではなく、祖父です。物部弓削倭古=蘇我稲目は、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古の父方父ではなく、母方祖父です。 
 先代旧事本紀は、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は、父が物部目、子が石上氏麻呂とし、第36代孝徳天皇の時に朝廷を護衛する衛部に所属し、649年から664年まで用いられた上から七番目の冠位「大華上」にあったとしています。日本書記には、「大華上」はありません。これを物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は、蘇我馬子(551年生~628年歿)とは別人の説の根拠としています。先代旧事本紀は、物部弓削倭古=蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)を物部宇麻呂/宇麻乃/馬古の祖父としています。

物部氏『大連』の系譜は、物部宗本家第11代・『大連』物部目(22清寧時代)、、物部宗本家分家12世代・『大連』物部木蓮子(24仁賢時代)、物部宗本家分家13世代・『大連』物部麻佐良(25武烈時代)、大伴金村を政界から引退させた物部宗本家分家13世代・『大連』物部尾輿(29欽明時代)、物部宗本家分家14世代・『大連』物部麁鹿火(536年歿)(27安閑時代 )と続きました。
 
その後、物部宗本家分家13世代・『大連』物部尾輿(オコシ)の子の継嗣の物部宗本家分家14世代・物部弓削守屋(587年歿)(第31代用明の時代)と弟の物部宗本家分家14世代・物部石上贄古(ニエコ)(第33代推古の時代)がまだ幼少のため、姻族傍系の「DNA匈奴金氏」である蘇我稲目(506年生~570年歿)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]を暫定的な繋ぎの『大連』物部御狩/大市御狩にしました。
  
545年、物部宗本家分家13世代・物部尾輿(オコシ)と大伴金村は、39歳の『大連』物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目=第29代欽明]を、新羅・尾張氏系の高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)]を退位させて、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)に擁立しました。
 551年、物部宗本家分家13世代・『大連』物部尾輿(オコシ)の祖父である物部宗本家第11代・物部目(メ)[物部宗本家第10代伊筥弗(イコフツ)の子]の晩年に物部宇麻呂/宇麻乃/馬古[=蘇我馬子]が生まれます。物部宇麻呂/宇麻乃/馬古[=蘇我馬子]は、実世代は物部宗本家12代ですが、年長の物部宗本家分家14世代・『大連』物部弓削守屋に合わせて物部宗本家15代としました。先代旧事本紀は、これを隠すために物部宗本家第11代物部目(メ)Aと同一人の物部宗本家第14代物部目(メ)Bを創作しました。
 
物部弓削守屋が成人になって、物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目=第29代欽明]の『大連』を継ぎます。物部弓削守屋にとって、物部宇麻呂[=蘇我馬子]は自分の『大連』の地位を危うくする存在です。
 559年、物部弓削守屋は、朝鮮半島での新羅・尾張氏の興隆に対処するためもあって、4歳の物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]を倭国から呼び寄せて百済に待機させ、そして、8歳の物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)に擁立します。高句麗第25代平原王は、物部弓削守屋の傀儡と言えます。
 物部弓削守屋は、物部氏が高句麗の表の支配者になる野望をもったのか、物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]を倭国物部氏中枢から排除することが目的だったのかは不詳です。これは、満州建国や日韓併合と場合と似ています。いずれも、大局的、長期的シナリオ無しの場当たり対応です。
 587年、物部宗本家分家14世代・物部弓削守屋は、血縁上の誤解が原因で、高句麗第25代平原王=蘇我馬子により殺されました。物部弓削守屋の弟の物部宗本家分家14世代・『大連』物部石上贄古(ニエコ)(第33代推古の時代)が継ぎます。 
 『大連』物部弓削守屋の子には、母が布都(フツ)姫(=御井夫人)[=額田部皇女]の物部宗本家分家15世代・朴井 雄君(エノイノオキミ)(?~676年歿)、那加世の二人がいます。

額田部皇女(554年生~628年歿)は、物部宗本家で、かつ、物部弓削守屋より年の近い物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]の伴侶の方を優先します。
 
先代旧事本紀の「物部馬古」と記紀の「蘇我馬子」は別人として多くの人が片付けていますが、同時代人であること、同じ音韻や似た家族環境より「物部馬古」=「蘇我馬子」と考えるのが自然です。「蘇我馬子」の同母妹とされている「額田部皇女」は、「物部太(フツ)媛」という別名をもっています。「蘇我馬子」の母方祖父の「蘇我稲目」も「物部大市御狩」という別名をもっています。先代旧事本紀では、「物部馬古/宇麻子」と「物部豊媛」とは兄弟と記載されています。しかし、DNAから見ると、蘇我馬子=第31代用明は「DNA呉系倭人混血縄文人」・Y-DNA「D1a2系」、蘇我稲目=第29代欽明は「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であり、実の親子ではありません。

蘇我稲目は、物部氏の姻戚になることによって、軍事管掌していた物部氏の権勢をバックにすることができました。記紀は、物部蘇我宗本家を滅ぼした不都合を隠す為に、物部蘇我馬子の別名の物部氏も記録に残ることになりました。

先代旧事本紀の豐(トヨ)媛、石上氏宮古(ミヤコ)郎女、物部朴井(エノイ) 雄君(オキミ)の系譜です。
*豐(トヨ)媛【先代旧事本紀】の系統
・父:物部 目(メ)【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
・母:石上氏宮古(ミヤコ)郎女(先代旧事本紀)
・伴侶A:物部朴井(エノイ) 雄君(オキミ)【先代旧事本紀】
・子(父:物部朴井雄君):物部忍勝(オシカツ)【先代旧事本紀 】
・子(父:物部朴井雄君):物部金弓(カナユミ)【先代旧事本紀 】
 
*石上氏宮古(ミヤコ)郎女の系統
・父:物部 贄子(ニエコ)【先代旧事本紀】
・母:未詳
・配偶者:物部大市御狩[蘇我稲目=第29代欽明=高句麗第24代陽原王]
・子:物部大人(ウシ)
 
*物部朴井(エノイ) 雄君(オキミ)の系統
・父:物部守屋
・母:不詳
 *672年の壬申の乱で大海人皇子(=第40代天武)に従って活躍した。

次に、高句麗王がいきなりサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就くのは飛躍がありすぎるようにみえますが、流れがあります。
 物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)の母である蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=新羅・阿陽公主=弓削阿佐姫は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻です。ホスロー1世は、物部(蘇我)馬子の実父ではありませんが、義父であり、物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)がホスロー二世(在位:590~628年)に就くことはあり得ます。
 そして、直接証拠として、法隆寺夢殿の救世(グゼ)観音の法冠等のサ-サ-ン朝ペルシア帝国のものが我が国に現存しています。小林恵子等が明察したように、救世(グゼ)観音の法冠は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国ホスロー二世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]が使用し、達頭と同一人であるサ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)[=西突厥の第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)]が受け継いで使用したものです。救世(グゼ)観音の法冠は、宝皇女(593年生~661年歿)=百済王妃・宝公主の子の間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后=(推測)蘇我遠智娘に、蘇我馬子、達頭の遺品が届けられ、中宮寺に隣接した夢殿に安置されている由縁です。蘇我遠智娘の父は、蘇我馬子の孫の物部宗本家17代・蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)です。
 
不明朗なところがあるサーサーン朝ペルシア帝国の皇統譜は、570年頃に生まれたホスロー2世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]は、ホルミズド4世(在位:579年-590年)の息子のホスロー1世(在位:531年-579年)の孫です。母はグルガーン(英語版)のアスパーフバド家(英語版)の出身です。ホスロー2世が初めて記録に登場するのは580年代、カフカス・アルバニアの首都パルタウ(英語版)に彼がいた時です。彼はその地でカフカス・アルバニア王国の総督を務めていました。更に、ホスロー2世は、この頃アルベラの総督も務めていました。
 サーサーン朝ペルシア帝国の皇統譜によれば、ホスロー2世は、三度結婚しています。最初の結婚はビザンツ帝国皇帝マウリキウスの娘マリア(英語版)[=推測:額田部皇女]であり、彼女はカワード2世を産みました。次はゴルディヤ(Gordiya)であり、彼女はJavanshirを産みました。最後はアラム人もしくはアルメニア人の皇女シーリーン(英語版)であり、彼女はマルダーンシャーを産みました。
 
トルコ国、キルギス国、ウクライナ国の現在も伝えられている伝承の「自分たちと日本人は同じルーツを持つ東と西に分かれた“兄弟”だ」は、誰を指すのでしょうか。
 
以上のように、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家第15代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]は、架空の話ではなく、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)に比定されます。

夢殿の救世観音に聖徳太子の伝説が付加され、開扉できない秘仏とされたことは、救世観音は達頭の写しでなく、蘇我馬子を示しているのかもしれません。達頭であれば、隠す必要性がわかりません。
 
倭国は、縄文時代以来現在まで続いている「DNA縄文人」である父系制の政事統括者『大連』と「母系DNA呉越系倭人」である母系制の非政事統括者『大后』との同位共同統治という稀有な統治体制でありました。朝鮮半島から渡来した「母系DNA呉越系倭人」である倭国『大后』は、四韓の扶余族盟主の王権の人的象徴であったため、倭国と四韓の王妃族は連枝しており、特に、新羅の王妃族とは同体家族でした。「DNA縄文人」である倭国政事統括者は、朝鮮半島に伴侶が滞在している時も親衛軍をもって王妃と四韓王を共に護衛していました。結果的に、朝鮮半島の四韓は倭国との二重の政事体制となり、実権は倭国政事統括者にありました。
 しかし、倭国政事統括者は、実権を掌握しても四韓のすべて、あるいは一部を倭国に併合することはありませんでした。これは、倭国と四韓とは国体が違い、倭国『大后』自らは、倭国と朝鮮半島の二拠点体制を基本方針としていたからです。「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主が四韓の事実上の覇権者であるということから言えば、四韓の物部(蘇我)朝ないし尾張氏朝が樹立しなかった方が不思議です。
 ところが、「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主は、倭国に併合しませんでしたが、短期で滅亡した高句麗物部朝を現実化していました。

4-7-2.559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)

 「DNA呉系倭人混血縄文人」である蘇我馬子(551年生~628年歿)は、物部宗本家13代あるいは15代物部宇麻呂と同一人に比定され、母が蘇我稲目=第29代欽明の娘のペルシアから帰国した時の蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=新羅・阿陽公主=弓削阿佐姫、実父が「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部宗本家12世代・『大連』物部目B(第26代継体時代)=物部宗本家14世代・『大連』物部目A(第22代清寧時代)で、4歳まで倭国で育ちました。
 通説では、蘇我馬子(551年生~628年歿)は、父が「DNA匈奴金氏」である第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)、母が蘇我堅塩(キタシ)媛としています。これは、8歳の物部宇麻呂を「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明を親として継承させる口実で、悲劇のハプニングを起こす原因となりました。母の蘇我堅塩(キタシ)媛の父は蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明であり、伴侶ですので、系譜上は第29代欽明は母方祖父、義父となり、「父」という記載は全く出鱈目ではないことになります。
 532年(欽明は26歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第23代金氏法興王 (在位:514〜531年)=尾張連草香は、独立の支配権をもった新羅檐魯(タムロ、注:王族統治の分国の意)の金官加羅国を併合しました。以後、金官加羅地域は新羅の一地域となり、国王と妃は存在しなくなります。
 551年、サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の伴侶になっていた蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主が、高句麗に帰国しました。この時、母が尾張目子媛である蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主、母が手白香皇女=新羅・朴氏思道夫人と推測される石上氏蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫=新羅・太陽公主、蘇我小姉君の妹ないし双子と比定される穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・金珍娘主は、揃ってサーサーン朝ペルシア帝国から帰国したようです。
 552年(欽明は46歳)、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)[=第26代継体]の子(兄)の伊利(イリ)可汗(在位:552~?年)は柔然から独立すると、シル川方面に異母弟の室點蜜[=西突厥のシルジブロス/室點密可汗(シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目(506年生~570年歿)=第29代欽明(キンメイ)]を配置し、西方の守備と攻略を任せました。
 556年(馬子は4歳、欽明は50歳)、新羅と新羅・尾張氏の伽耶の興隆に危機をもった『大連』物部入鹿は、4歳の「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)馬子(551年生)=物部宗本家第15代・物部宇麻呂を倭国から呼び寄せ、一端百済に待機させました。幼少の聖徳太子像は、達頭ではなく、物部(蘇我)馬子と思われます。
 559年(馬子は8歳、欽明は53歳)、『大連』物部守屋は、「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目=第29代欽明]を追放して、倭国から呼び寄せた8歳の物部宗本家第15代・物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]に擁立し、高句麗物部朝を始めて樹立しました。
 559年(馬子は8歳、欽明は53歳)、『大連』物部守屋は、「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目=第29代欽明]を追放して、倭国から呼び寄せた8歳の物部総本家13あるいは15代・物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]に擁立し、高句麗物部朝を始めて樹立しました。
 562年(馬子は11歳、欽明は56歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、独立支配権をもった新羅王族分国の高霊(コリョン)伽耶国(一名:大賀羅国/大迦耶国)を併合し、また、同年倭国政事統括者の物部氏が支配する倭国分国の日本府任那を滅ぼしました。これによって、朝鮮半島南東部はすべて新羅国となりました。物部氏は、朝鮮半島の出先拠点を失いました。
 日本書紀は、雄略天皇21年(477年)3月に第21代雄略が久麻那利(コムナリ、熊津を指す)を百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)[=第21代雄略]に下賜して国の復興をさせた、と記しています。
 587年丁未(テイビ/ヒノトヒツジ)(馬子は36歳、達頭は34歳位)、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで高句麗に訪れた『大連』物部守屋は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]により血統上の誤解によるハプニングで殺害されました。
 590年(馬子は39歳)、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]は、自責をとって義父で母方祖父の蘇我稲目[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=第29代欽明]を追ってペルシアに移住し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)に就きました。「DNA匈奴金氏」である金官加羅系は、歴史的に中央アジアの柔然、突厥と深い関係がありました。
 三国史記は、これを隠すために、物部(蘇我)馬子を2年間の百済第28代恵王(在位:598~599年)に、達頭を百済第29代法王(在位:599~600年)に捏造しました。 
 父が蘇我稲目=第29代欽明である達頭は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]の信義に感動し、生涯を物部(蘇我)馬子に尽くします。
 
628年(馬子は77歳歿、達頭は75歳位)、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子は、投獄していた子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。処刑理由は未詳ですが、父が母・額田部皇女[=推測:王妃・マリア]を追放したと思ったことが考えられます。
 ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子と額田部皇女(554年生~628年歿)(推測:王妃マリア)の歿年は同じです。
 記紀は、626年に百済第28代恵王(在位:598~599年)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子=第31代用明]は、蘇我稲目の子の境部摩理勢(サカイベマリセ)連合のクーデターにより唐・新羅勢力に殺されたと改ざんしています。
 蘇我馬子の伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子]の王妃として同行しています。額田部皇女は15歳頃に入婚し、593年(39歳)までの約24年間同行しています。
 蘇我馬子の陵とされている奈良県明日香村の蘇我馬子とされている石舞台古墳は、額田部皇女の陵かもしれません。

4-7-3.物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)と子・入鹿(イルカ)(?645年歿)

 586年頃(蝦夷誕生)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A蝦夷は、父が高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]、母が額田部皇女として高句麗で誕生します。  
 高句麗王妃・宝皇女(593年生~661年歿)[=第35代皇極B宝皇女=第37代斉明(サイメイ)B宝皇女=百済第30代武王(在位:600~641年)の百済後王妃・宝公主=新羅第29代武烈王(在位:654~661年)の新羅後王妃・涓花夫人]との子は、物部(蘇我)入鹿です。
 590年(蝦夷は4歳、舒明は13歳頃)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]の継嗣の物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が赤子のため、繫ぎとして達頭と額田部皇女の高句麗での子の「DNA匈奴金氏」である金舒玄(577年頃生~641年歿)が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]に一時繋ぎとして擁立されました、
 600年(蝦夷は15歳頃、舒明は23歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が成人になったので高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]に高句麗王退位の条件として百済第30代武王(在位:600~641年)が物部氏により用意されました。しかし、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]は、高句麗王を退位しようとしませんでした。
 618年(馬子は67歳、蝦夷は35歳頃、舒明は41歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)は、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=金舒玄=第34代舒明]を追放して、高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=第35代皇極(コウギョク)A蝦夷]に就きました。金舒玄(577年頃生~641年歿)=第34代舒明は、金官加羅の第二本拠地である中央アジアに永住移動します。
 623年(天武が誕生)、母が宝皇女(593年生~661年歿)、父が高句麗・高向玄理(父が第34代舒明、母が額田部皇女)として、淵蓋蘇文[=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文=重祚第40代天武]が高句麗で生まれます。
 627年(宝皇女は35歳)、新羅・宝公主[=宝皇女(593年生)]と廃位になった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の異父弟の和邇氏系金仇輪との子の新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]が、新羅[多分、伽耶の火自振(ヒジフル)]で誕生します。その後、和邇氏系金善品は、母の宝皇女と共に百済に行き、百済第30代武王(在位:600~641年)[=高句麗26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第34代舒明]の養子となり、百済・翹岐(ギョウキ)王子を名乗ります。
 新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品[=第38代天智]と宝公主[=宝皇女(593年生)]の子の和邇氏系藤原不比等は「DNA源流鮮卑族和邇氏」であるので、第38代天智も伽耶出自とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」となります。伽耶の火自振(ヒジフル)が、「藤原」の語源です。
 628年(馬子は77歳、達頭は75歳位)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家第15代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]は、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。カワード2世は、590年生まれで、母はマリア[=(推測)額田部皇女]です。
 628年、カワード2世(在位:628年)の子のサーサーン朝皇帝アルダシール3世 (在位:628年9月6日~630年4月27日) (621年生~ 630年4月27日歿) が就きました。
 630年(達頭は77歳位)、達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、皇位を剥奪してサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月9日死去)に就きますが、すぐにサーサーン朝の貴族によって殺害されました。
 632年、達頭=上宮法王=聖徳太子の継嗣の山背皇子が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就きます。山背皇子の母は、宝皇女(593年生~661年歿)です。
 記紀では、643年に聖徳太子の継嗣の山背皇子一族は、物部(蘇我)入鹿に斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、斑鳩寺(法隆寺)において一族皆自害したと常套手法で改竄しています。当時は通い婚であり、斑鳩(イカルガ)宮は、宝皇女、娘の間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后の大和の国都です。
 642年(蝦夷は57歳頃歿、淵蓋蘇文は19歳)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]が「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]により暗殺されました。 
 642年に高句麗は事実上滅亡しました。高句麗(末代)第28代宝蔵王(在位:642~668年)は、唐が架空王と認め、また、倭王『大王』の付帯称号をもたないことからもわかるように淵蓋蘇文が演出した架空王です。
記紀は、物部(蘇我)蝦夷が645年に倭国で戦わないで翌日自死したと改ざんし、殺害者を淵蓋蘇文から中大兄皇子の責に変えています。物部(蘇我)蝦夷は倭国、三韓の覇者であり、戦わずして自死するなどありえません。
 
645年乙巳(イッシ)(中大兄皇子は18歳、淵蓋蘇文は22歳)、中大兄皇子[=第38代天智]、中臣鎌足等が高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺し、物部(蘇我)宗家が終焉したとされていますが、蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子である物部宗本家分家17代・蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)が継承しています。そして、649年の右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂の歿後以降も717年の物部宗本家18代・左大臣(708年~717年)石上氏麻呂(640年生~717年歿)まで蘇我宗本家・分家から多くの日本の政事統括者がでています。更に、第50代桓武天皇によって、『左・右大臣』から『天皇』の地位に変更して復興され、現在の天皇まで継続しています。
 また、蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)の娘の(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と(妹)蘇我姪娘(メイノムスメ)、およびその娘が、次の時代の『皇后』となります。
 
因みに、日本書記の645年乙巳(イッシ)の記述は、冷静に見ると、母・宝皇女の前で殺害とか、小説レベルのリアリティで詳細に記載されているのは、記紀が隠蔽・改ざんする時の常套手法を想起させます。倭国の伝統的文化は、勝敗が決すると、敵の死を求めないのです。三国史記や記紀は、「DNA匈奴」や「DNA鮮卑族」の伝統文化に従って、追放だけされて生きているのに、死亡したと多々記載しています。645年乙巳(イッシ)の蘇我入鹿の殺害は、保留事項として、関連する出来事と矛盾しないか更に検討が必要です。

 「馬子」とは、中央アジア、ペルシアの覇者の騎馬族に相応しい名です。
 「蝦夷」とは、「DNA縄文人」を指す象徴名です。
 「入鹿」とは、海洋国家を指す象徴名です。

4-7-4.「蘇我氏」の氏族名の由縁に関する考察

 蘇我氏の別名を持っているのは、
蘇我稲目(506年生~576年歿)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)。
蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃に誕生)=新羅・阿陽公主。
蘇我小姉君=新羅・金珍娘主。
蘇我馬子(551年生~626年歿)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)。
蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)。
蘇我入鹿(645年歿)。
蘇我刀自古(トジコ)郎女(蘇我馬子の時代の名で、子が山背大兄王)=額田部皇女[サ-サ-ン朝ペルシアのホスロー二世(在位:590~628年)の王妃、西突厥のシルジブロスの妹娘]。
(二代目)蘇我刀自古(トジコ)郎女[蘇我馬子の娘]=宝皇女(593年生~661年歿)。
蘇我姪娘(メイノイラツメ)[蘇我刀自古(トジコ)郎女の娘、第34代舒明の娘]=(推測)額田王。
 
「ペルシア」の意である「間人(゙ハシヒト)」の別名を持っているのは、
穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主。
穴穂部間人王子=サ-サ-ン朝ペルシア帝国・シャフリバザール将軍
 =達頭
 =サ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)
 =西突厥の阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)。
間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)[第36代孝徳の『大后』]=(推測)蘇我遠智娘(生年不詳~665年歿)(オチノイラツメ)
 =中宮皇后=百済王妃・木恩古(モクウンゴ)[百済第31代義慈王の王妃]。
 
「蘇我」や「間人(゙ハシヒト)」は、中央アジア、ペルシアに由縁があることが考えらます。
<以上>