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相手はあなたに共感しているんですか?【共感の返報性】

【写真】
大学の庭でとった、センチコガネです。私の家の周りでは、紫色なんですが、河口湖産は、緑ですね。

この記事は、支援者が相手に共感するっていうとき、支援者→クライアントの一方向の関係でよいかどうかは、意識しておいたほうがいいよって内容です。

もし、支援者が、ひたすらクライアントの話を聞くことに徹するっていうポジションなら、そこをあまり気にすることもないかもしれません。
ただ、支援者とクライエントの双方が協働して、一つの進路をつくっていくような場面では、支援者側にも主体ってものがあって、クライエントと相互に影響しあっていかないとうまくありません。

そこに共感はあるんか?
クライエントの語りを傾聴して、情動的なところには共振させてとか、うんぬんかんぬんして、ラポールできたかなっておもったら、自分が話し出したとき、相手が共感しているのか、観察しておくといいと思います。

共感している場合は、こちらのアドバイスやコメントについて、相手も共感的応答をしたり、こちら側の意向を汲み取ろうとしてくれるでしょう。言うとおりにするかどうかは別にして。

こちらが共感すると、返報性の原理が働いて、相手も、共感的対応になることがおおいです。

逆に、支援者側がなんらか話したとき、相手が「あっそうですか。よくわかりませんけど。でさー・・・」みたいな感じだった場合、共感の関係はできていないし、それ以上共感対応を続けても、共感疲労のコストを踏まえると、私は意味がないように思います。こちら→相手っていう、一方向の共感関係がひたすら続くなんて、それじゃあ主従関係ですよ。

おまえのものは おれのもの
おれのものは おれのもの 
          剛田武

そういうときは、ストラテジーを切り替えて、規約や制度論でロジカルに話を進めていきましょう。

共感的関係をうまく使う医師を、私は見た。
ある疾患の治療法を選択する場において
 治療A:50%生存率が5年で、副作用大。
 治療B:50%生存率が3年で、副作用は小。

みたいな岐路があったとき、患者さんに向かって、治療Aのほうがいいって簡単にはいえないわけです。
統計学的な知見は、個人における適用性を判断をする絶対的な根拠にはなりえないってことです。
だって、プロ野球選手になれる割合が何万分の1だからっていって、可能性ということでいえば、イチロー少年は絶対なれたし、私は絶対になれないわけだから。で、薬が効くか効かないかっていう場面では、目の前の人が、イチローなのか、凡人なのか見分ける術は基本的にはないってことです。
疫学的な知見っていうのは、治療者側の視点に立っている情報ってわけですね。

私が、病院に勤務していたときに、うまいなと思っていた医師は、普段は看護師と遊んでばかりのチャラい医師なんだけど、患者が迷うと、患者の身の上話に聞き耳を立てて、短時間でも、ふんふん聞いてました。
で、患者が、「先生はどうおもいますか?」とか聞いてくると、「そりゃ、僕は医師だから、多くの患者さんを救いたいですから、多くの人が長生きする治療法がいいと思ってます」とか本当におもっているのかどうかしらんけど、そんな風なことを言う。
そうすると、「じゃあ、先生におまかせします」とかって患者が言う。
医師は、「うん、まあそうしましょう、じゃあここに名前書いてください」とかいって、病棟に戻っていく。看護師と飲みにいく。

患者が、医師側の選好で決定しているようにも見えるこういうプロセスは、SDM(Shared Decision Making)を意図した現場ではよくみかけますね。自他の境界線が曖昧になる共感関係の面白いところですね。

この医師は看護師にもてました。たぶん、共感の返報性をうまくつかって、自分の要望(欲望?)も相手に共感させちゃうんでしょうね。

まとめ
共感のはたらきの一つは、共感の返報性をとおして、相手に、自分のメッセージを聞き入れてもらう状態にすることがあります。悪い目的には使いたくないですね。




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