見出し画像

身近な共生学

写真は今日小田原で釣った、タカノハダイ(上)とベラの仲間です(なんだろう?)。

共生って、もともと生物学のことばですよね。イソギンチャクとクマノミの関係みたいに。多様性もそうですけどね。
下の話は、私と店員さんの間には日本酒の売買をめぐる共生関係がありそうです。

市民ホールの喫茶コーナーで昼酒を咎められる

少しまえ、といっても子どもが保育園のときだったからだいぶ前か。とにかく以前に、家の近くの市民ホールまで子供とお散歩にいきました。その日は暑かったので喫茶コーナーに入って、子供はアイスを頼み、私は、カウンターの一角にある冷蔵庫にワンカップが冷やしてあったので、「日本酒はいいよな~、うんうん。(志村けん)」ということでレジに持っていくと、店員さんから「昼間から酒かよ」と抑揚のない声で言われました。

・・・たしかにおっしゃる通りだ。しかも、その日は平日でした。モヒートとかならおしゃれなんでしょうけど、ワンカップという点も悪かった。
でも、じゃあなんで、売ってるんだよっていう話ですよね。
てか、こんなんでもいちお、客だから、その言い方は良くないんじゃないの?っていうのが一番最初のつっこみだった。

でも、「あ、はい。そうなんです。」とかいって、子供はアイスを、私はワンカップを買うことができ、ホールの前の公園で飲みました。ギラギラした暑い日だったので、ぐいっと飲んだ時は、うまかったー。そのあと、この喫茶コーナー、B型作業所だと知りました。言われた瞬間「あれ?」と思ったから調べたんです。

B型作業所は、特定の障害者手帳を持つ人々が支援付きの就労を行う事業所ですが、私は「そうか、B型だったか」と思ったわけです。

ローソンだったらどうする?

もし、ローソンで言われたら、怒気をはらんだ応答をしていたかもしれません。しないけど。
ただ、「ローソンだったら怒るかもしれないけど、B型作業所だったら仕方がない。」みたいにまとめたら、それは差別にあたる可能性がありますよね。
逆に、「ローソンで怒るならB型作業所でも怒ろうかな」っていう方向性もだいぶ不適切ですよね。
じゃあどう考えればいいんでしょう。

共生社会における「他者」

おなじように、「あらかじめB型作業所だと知って入るべきだった」とかっていうのも差別的な思考が入ってるし、「怒るんじゃなくて、優しく糺せばいい」というのも、私はその人の特性がわからないわけなんだから泥沼にはまりそうな気がします。
いちばん良くないのは、「こういうことは考えないようにしよう」とかいうのが最も良くないですよね。それは、特定の人々を「いながらにして、いない存在」にしてしまう排除の根本的な思念になっていると思われます。

こんなことを考えながら日本酒を飲んで、子供に「パパ、さっき、これ買ったら『昼間から酒かよ』って言われたでしょ、それでさぁ・・」とかいって話していました。
で、あれやこれやと、話したうえでの結論は「ローソンでも怒らなきゃいいんじゃないの」でした。そりゃそうだ。
でも、コンビニの店員の対応がひどかったりすると気分悪くなったりしますよね。
「いや、なりませんけど。」そうか。わかった。あなたじゃなくて、そういう人がいてもおかしくないですよね。
怒りを我慢するんじゃなくて、怒りが湧かないっていうことは、なかなか奥深いですよ。

シン他者性

ローソンでは怒るというとき、ローソンの店員と私との間でなんらかの礼儀みたいな共通了解が成立してるって前提や期待が崩れた失望にもとづいて、怒るというわけですね。もしその怒りが発露するなら「私の失望を知れ!」っていうアピール行動です。
だけど、多様性の中での共生を考えるうえでは、もうそういう前提はあらかじめ成立してはいないっていうところを出発点に考えていく必要があるんでしょう。だって、相手にはいろんな背景があるってことが多様性だし、その背景は説明がないのだからわからないし、一定の共通了解が成立することを一般に求めるべきではないですからね。それを求めてしまうと「日本人なら」とか「標準的には」とか「ふつうは」とか「健常者」とか「一般常識」とか「マナーとして」とかいって、結局は保守的・マジョリティの理屈を押し付けるような、嫌な言葉が出てきてしまうわけです。不寛容な社会の根本原因の一つかもしれませんね。

新しい時代、シン他者性の中でのかかわりは、相手にはギリギリまで期待しないことが大事なはずです。ジューシー肉まんくれって言って、ジューシー肉まんが得られればそれ以上は期待しない。期待していない中で、「ポイントカードありますか?」って聞かれれば、「わー、聞いてくれた。Pontaカードもってないけど」っていうように喜びが沸くってこともあるし。

結論

つまり、いろんな人々と共生していくってことは、既存の常識みたいなもんをいったん全部ぶっこわす必要があるっていう、ドラスティックな内容が求められるってことなんでしょうね。言い換えれば、多様な人々との共生関係が進んでいけば、既存の常識みたいなものは壊れていくっていうことかもしれません。口当たりのいいことばかりでもないでしょうけど、自称保守みたいな人の説教が無効になるとしたら、ぶっ壊れてもいいかもしれませんね。ぶっ壊すが不適切ならエポケーですね。NHK党も、NHKをエポケーっていえば、いいのかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?