ぽんのみちというあまりに斬新で残念な作品について
23年10月からなかよしやアニメ等様々な媒体でで展開された「ぽんのみち」
少女漫画で麻雀が!と話題になった一方で、アニメ版のアマプラ等での評価ははっきり2分されており、残念ながら総論として概ね失敗作扱いされている。
レビューでは方言に関する低評価が多いが、それは表層的なものに過ぎない。
ぽんのみちが真に犯した過ちは、実験作と言ってもよいくらい先駆的なコンセプトを持つ作品でありながら、そのコンセプトに対する表現の在り方やターゲットの設定を誤ったことにある。
今回の記事では、その点について分析・解説したい。
麻雀漫画が少女漫画誌に掲載されるという快挙
ぽんのみちの残した先駆性として最初に挙げられる事とすればこの点であろう。
そもそも、日本に麻雀が紹介されて以降、今日に至るまで麻雀=賭博・不健全というイメージが染み付いている。麻雀を題材とする作品の大半は賭博やヤクザ、イカサマ等非合法的な存在や行為が付き纏っており、現実でも賭けマージャンで生計を立てていたことを公言する元プロも存在する。そのため、これだけ知名度があるテーブルゲームにも関わらず、将棋や囲碁等に比べ不遇な扱いを受けてきた歴史がある。
麻雀業界もこの点については積年の課題としており、70年代以降健康麻雀や各種プロ団体の設立による競技化・クリーン化の取組が行われており、特に近年はMリーグの設立をきっかけに、観戦する競技として、そして純粋なテーブルゲームとしての麻雀の形態も普及しつつある状況となった。
そのような麻雀の競技化・クリーン化の流れの中で少女漫画誌に麻雀をメインテーマとする作品が掲載された事自体が麻雀業界的には大きな出来事であり、業界の努力が結実したものといえる。 少なくとも麻雀史におけるエポックメイキング的作品といっても差し支えないであろう。
勝ち負けではなくコミュニケーションツールとしての「麻雀」
上記の点は多くの人が感じていることと思うが、それ以上にすごいのは麻雀に対する姿勢として勝ち負けにこだわらず、単なるコミュニケーションツールとして描き切っている点にあると考える。
作中でキャラ達は和気あいあいと麻雀に興じ、勝ち負けに一喜一憂するものの、跳を除けばあまり勝ちにこだわっている訳ではない。なしこやぱいの2人は未経験の状態から最終話では稚拙とはいえ手詰みでイカサマできる段階まで成長しているが、あくまで打ってるうちに上手くなったもので、勝たんとすべく研鑽に励んだ描写はない。 どこまでいっても麻雀は彼女たちにとってコミュニケーションツールに過ぎないのである。
もちろん、キャンプや登山、バンドといった趣味を上記のような立ち位置で描いてヒットした作品はあり、その点での新規性はない。しかし、これまでヒットした作品のジャンルは、客観的な勝ち負けの定義がなく、究極的には自分が満足できればそれで良いという点で共通している。だからこそ、勝ち負けにこだわらずみんなで楽しもう!という展開も行いやすい。
一方で、麻雀のようにたとえ趣味や娯楽であっても点数で客観的に勝ち負けが示される題材をメインに据えたフィクション作品で、勝ち負けに拘らないスタンスを貫きながら試合の様子をそれなりに描きつつ、大々的に話題となった作品があるか?というと寡聞にして知らない。
野球に例えれば、「美少女が甲子園を目指す!」とかではなく、ただ実家近くの都合の良い空き地でノックやキャッチボールに興じながらたまに試合をやって、楽しければそれでよし!という勝ち負けに頓着しないノリで、かつ野球要素もそれなりにある創作物が地上波アニメになったようなものである。
野球漫画といえば「タッチ」が勝利至上主義のスポコン漫画を終わらせたと評されることがあるが、タッチですら物語上の最終的な目標は甲子園出場であり、勝ち負けの概念からは逃れられていない。
客観的な勝ち負けの存在する競技をメインテーマとするフィクションで、このような表現を行った前例を探すのは中々難しいのではないか。
そういう点で、ぽんのみちは麻雀漫画の枠を超えて考慮してもなお挑戦的な作品と言えるのである。
企画立案者の剛腕さ
このような挑戦的なコンセプトを持った作品であるということを踏まえて、昨年からの流れを思い返してもらいたい。
ぽんのみちはネットや同人誌で書いたものがバズってメディア展開がなされたものでは無く、初めからアニメや漫画と複数の媒体でそれなりの規模の展開を行うことを前提とする作品である。
そんな先駆的な作品をこれだけ大々的に展開できる、ということ自体がまずすごいと言わざるを得ない。
たとえば前述の美少女が和気藹々と草野球をする創作物をアニメ監督である自分が企画して、そのアニメの制作にアニメ版ポケモンを制作している会社を、メイン声優に前田さんを、キャラデザに春場ねぎ先生を、漫画版に野球漫画で実績のある作家をそれぞれ起用して、複数の会社からコラボグッズを出せるような大々的なメディア展開ができるだろうか?
特に麻雀作品は漫画専門誌があるほど盤石なファン層がありながら、一般紙で人気作となることは少ない、という実績が既にある特殊ジャンルということを踏まえれば、ぽんのみちの凄さというか、企画を発案した南川監督やプロデューサーの辣腕ぶりが光るのである。
作品を台無しにした「迷いと不安」
そのような先駆的かつ挑戦的な作品であるぽんのみちだが、それ故に製作陣の迷いや不安が見える部分が多々ある。
これこそ、本作の抱える問題点の本質であると筆者は考えている。
そもそも、本作はターゲットとなる層を絞りきれていない。
麻雀経験者からすればあくびが出るような初歩的な解説をしたかと思えば、ダブリーやハイテイツモ等麻雀を知らなければ意味が分からない用語を補足や解説なしに使ったり、男性のアニメファン(特に春場ねぎ先生のファン層)が求めるであろう性的描写を意図的に排除しておきながら、ストーリーはアニメに慣れていない層には退屈な話と見られがちな日常系がベースになっているなど、作品全体に迷いが見えるのである。
その迷いからくる不安が最も顕著に現れたのが、アニメ版の第一話で連発された麻雀作品のパロディーと、非公認として展開しているヤンマガ版ぽんのみちである。
南川監督は第一話の演出意図として「初心者はパロディーをやりたがるからその描写を盛り込んだ」とインタビューで述べている。
それならば麻雀を知らない人でも知っているような麻雀作品系のネットミームを2・3個程度出す程度で十分と思われるが、実際には一定の麻雀漫画ファンでないとわからない作品のパロディを初心者が脈絡なく連発するという不自然極まる演出になっている。そんな演出をする理由があるとすれば、作品を見てくれるであろう層として真っ先に思いつく既存の麻雀作品愛好家に向けたアピールぐらいしかない。
しかし、それは先行して展開していたなかよし版や関連する報道で麻雀や作品に興味を持った初心者を第一話から置いてけぼりにしたのと同義である。
本作の根幹であるコミュニケーションツールとしての麻雀を書ききるのであれば、パロディもまたコミュニケーションツールの一つとして用いるべきだったのである。
それを貫徹できなかった原因があるとするならば、先駆的な作品であるが故の製作陣の不安感であり、それが最も顕になったのがあのパロディだったと考えるのである。
完全な後知恵ではあるが、同じパロディをやるにしても回が進んで麻雀への理解が深まるにつれてどんどんディープなパロディをやるようになる、という流れならここまで批判は出なかったと思われるし、むしろ受けたのではないかと思う。実際、「リャンメンで待て」は中々コアなネタだが、そこまで批判を受けていない。
そういう意味ではヤンマガ版も同じ不安感の先にある存在と言える。
なかよし版やアニメ版でクリーンかつ先駆的な作品を作る一方で、非公認と言い訳をしながら同じキャラを使って完全に従前の麻雀漫画の文脈に沿った真逆のコンセプトの作品を並行して展開している事自体に、既存の麻雀作品ファンでなければ麻雀をメインにした作品を見てくれないのではないか、という不安感が見えるのである。
作品を製作・プロデュースする側が作品の力や素晴らしさを理解できず、それがためにターゲットとする層を絞り切れないとどうなるか、という点において本作は規範とすべき作品と言えよう。
万人に受けようとするものは万人に受けない
重ねて言うが、本作の先駆的なコンセプトは決して過小評価されるべきものではない。実際、なかよし版は麻雀を知らない女子小中学生にターゲットを絞って作品を完結させた事で一定の評価を得たし、実際に子供が麻雀に参加するきっかけにもなっている。
だからこそ、アニメ版やヤンマガ版から見える迷いや不安、それによるターゲット層の不明確さが致命傷となっている。
既存の層も初心者も、とやってしまうからこそ結局誰にも響かない作品か、これまでの作品の焼き直しでしかない作品が生まれるのである。
コンセプト自体が誤っているヤンマガ版はさておき、仮になかよし版とアニメ版で訴求する層を分けるなら、アニメ版は見るが麻雀はアプリでやったことのある程度という20〜40代あたりの男性層をターゲットとし、その層に沿った描き方を徹底していればここまで評価を下げる事も無かったのではないか、と思わずにはいられない。
もっといえば、アニメ版においても麻雀があまりわからない層に麻雀の面白さやゲーム性、コミュニケーションツールとしての麻雀の素晴らしさを少しでもわかってもらう表現にチャレンジすることが、先駆的なコンセプトを実現する上で本作に求められた課題の一つだったのではないだろうか。
少なくとも、卯花先生はそれをやりきっているのだから、アニメ版でもできないはずがなかった。
例として挙げるのは少々迷ったが、例えばこの東海オンエアの麻雀動画などは、麻雀を知らない人への配慮を多分に含んだ上で麻雀の面白さを表現できている。
作中でも取り上げられたネット麻雀も、そのわかりやすさが流行している理由の一つなのだから、その表現の文脈をきちんと分析し、作品に反映すべきだったのではないだろうか。
前例のない作品作りに不安が付き纏うのはやむを得ない部分もあるが、それが透けて見えてしまってはどんな意欲作も台無しである。
極めて先駆的なコンセプトと実力のあるスタッフが集結した本作の評価が大きく分かれる要因の一つはここであろうと筆者は感じている。
次回作があるかは不明とのこのだが、もしあるならば次回こそ迷いのない作品を期待したい。
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