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しこりと出会った頃の話

闘病記などという殊勝なものは書けない。でも私の癌人生の始まりから1年が経ったから、つらい思い出を供養したくなった。

癌にまつわる思い出はすべてつらい。告知、手術、妊孕性温存治療、術後病理診断結果、抗がん剤、そして今毎日苦しめられているホルモン療法。
いいことも、学んだことも、得たものも、何ひとつない。
だから私は闘病記は書かない。
ただ、呪うように、まじなうように、祈るように、1年経った日が来るごとに、それぞれの日がどんなにつらかったか語ろうと思う。
語ることでなかったことにしたい。
それは当然、不可能だけれど。


明日で息子は生後100日。そんな夜だった。
100日祝いの料理は、通販で取り寄せたキャラクターものの祝い膳。ちゃんと取説が付いていて、料理をしない私でもちゃんと鯛の焼き物で息子を祝える。蛤はお湯をかけるだけ。赤飯はチンするだけ。
そんな「幸せの手順」を頭に思い浮かべながら、シャワーを浴びていた。
2021年2月4日の夜だった。

今でもあの感覚は人生でたった一度切りの奇妙な体験としてリアルに思い出せる。
石鹸で滑らかに滑る手が右乳の内側下を走った瞬間、柔らかなだらしない脂肪の中にブヨッと何かが触れた。

私はとんでもなく母乳の出が悪く、息子が生まれて2ヶ月で母乳育児をあきらめた。断乳してちょうど1ヶ月が過ぎていた。

まだ母乳が残ってしまってるのだろうか?確かに左に比べ右はまだ僅かな望みがある乳だった。それでも母乳で張って痛いなんてこと産後3日でなくなったから断乳時に搾り切ることもしなかったのだ。
私はそのブヨッと触れたところを強く擦りながら1ヶ月ぶりに乳を搾った。すると数滴、石鹸の泡と判別できないくらいわずかに母乳が滲んだ。もう出ないだろうというくらい搾りに搾ってもう一度祈るように乳全体に手を滑らす。
内側下だけ、まだ固い。
なんだろう?行ってはいけない禁忌の場所に足を踏み入れるような寒気を感じながら、その塊を左手で奥まで探ってみた。

その時。
明らかに、肉ではない、でも骨でもない、今まで自分の身体で感じたことのない感触に出くわした。
それは身体の中にあるのにしんと静かで、無機質で、とにかく硬かった。

シャワーの音しかしないのに、爆音でくらくらするくらいアラームが鳴った。
何も聞こえなかったけど私は確かに聞いた。
ぐわんぐわんぐわんぐわんと。
お前の身体にヤバイものがあるぞ、と。

あれは私がそれまでの29年の人生で初めて第六感を使った瞬間であったと今でも思う。
足元から身体を掬い上げられるような、腹の底から来る危機感だった。

風呂から出て夫にすぐ報告した。事なかれ主義で楽天家の夫だったが、珍しく真面目な顔で
「気になるなら病院に行けば?何もないなら何もないで良いんだし」
と受診を勧めた。
ついこの前、夫の母がマンモグラフィーで精密検査になり、何もないといいね、なんて言い合っていたばかりだったのだ。(義母は幸い何もなかった)

「◯◯市 乳房 しこり 病院」
確かそんな言葉を検索ボックスに並べた。
そして家から車で15分くらいのところに小さな乳腺科があるのを知った。
「乳腺」その言葉自体、国語教師として恥ずかしいがその時初めて知った。

息子の100日祝いは落ち着いて祝いたいので、乳腺科には100日祝いの翌日に行くことにした。

それがちょうど一年前、2021年2月6日だった。

しこりを見つけて病院に行くまでたった2日だったが、私は暇さえあれば検索ボックスに
「乳房 しこり」
「乳癌 しこり 特徴」
等という言葉を並べ、出てきたサイトを読み漁りながら右乳を揉みしだいていた。

触れば触るほど、読めば読むほど、私の右乳に沈んだソレは、乳癌のソレの特徴に当てはまっていった。
動かない。硬い。表面がザラザラしている…
どれほど、動いてくれと願っただろう。
何度、やっぱり柔らかい気がすると思おうとしただろう。
何回、ツルツルになれと祈って撫でただろう。

町の乳腺科の医師は、白髪混じりの髪を真ん中で分けた、痩せた眼鏡の男性だった。
優しいヤンキーのようなラフな話し方をする人だった。
診察室に入ると「何?しこりがあるんだって?診てみよう」と私をベッドに座らせた。
カーテンが引かれ、衣服を脱ぐ。
医師がカーテンの隙間から現れ、そっと手を伸ばす。
全くの他人に乳を触られる。私は一体なんて経験をしてるんだろう、と不思議に思った。
医師は触診を済ませるとエコーの機械を引っ張ってきた。胸元にジェルを塗られる。ほんの3ヶ月前はこの機械をお腹に当てられていたのに。ほんの3ヶ月前は、この機械を当てられるのが楽しくて嬉しくて、幸せで仕方なかったのに。

白いモザイクの中に、金平糖のような黒い影が見えた。

「このジャガイモみたいなやつ…これがしこりね。2センチくらいかな」
医師は呟いた。
たった30秒ほどの出来事だった。
早々にエコーをやめた医師は重大な決意のようなものを滲ませて言った。

「よし、がんセンター行ってみるか」

これが私の、癌人生の始まりの合図だった。

「それって…癌なんですか?」
「まだわからない」
「そうじゃない確率って、どのくらいですか…」
カーテンが引かれる。
衣服を着る。
「3割くらい」
「えっ。針指す検査とかしないんですか?」
「それはここではやらない。結果が出るのは時間がかかるからね。やってる間にどんどん散らばっちゃうと困るから」

「散らばる」とは…。
悪夢が始まる。でもそれは夢じゃない。
聴覚が鈍っていく中で医師が聞いてきた。
「子供は何人いるの?」
「3ヶ月の息子が一人います」
拳を握りながら眠る息子の頬の丸みが浮かぶ。
「3ヶ月?!じゃあお母さん、頑張んないとね」
頑張るって何を。頑張って、何とかなるの?
それまで優しいヤンキーのような話し方をしていた医師の語り口がフッとただ優しく、しかし力強く諭すように変わった。

「今は治療法がたくさんあるから。ただあちこち色んな治療を試しちゃいけない。ブレちゃいけないよ。この人、と思える先生を見つけて一生懸命付いていくんだよ」

「はい」

もう決まりなのだなと、私は了解した。

それから告知までの約1ヶ月、一生分の涙を流しては、もう一度一生分の涙を作り、そしてまた一生分流した。
今でもあの日々を思い出すと、この季節の気候のように、心が冷えて固まる。
私の人生の終わりはすぐそこなのだ。明日にでもやってくるのだ。息子の人生は始まったばかりなのに。その瞬間をまさに昨日のことのように思い出せるのに。
私は鮭のような女だなと思った。卵を産んですぐ朽ちる姿に自分を重ねていた。




1年前の私へ

残念ながら、それは本当に癌です。
そして残念ながら、1年後の今も、私は泣いてばかりです。

でも

1年後の今日は、息子を母に預けて、夫と焼き肉を食べに行きます。少し遅れた結婚記念日の祝いで。
そして、息子のためにジャガイモ餅を作り置きします。できるだけたくさん作ります。

なぜなら

人生は、生きている限り続いていくから。

こんな悲劇も、日常に取り込んで、凡庸に、続いていくからです。



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