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第五十八話 恐怖のバス再び

 インドネシアの人々は、どこに行っても非常に親切でした。
どこでも仲良くなるし、気にかけてくれる。ご飯に誘われる事も多く、正直、食事代を余り払った記憶すら無かった。

そんな彼らインドネシア人と、日本人の僕という間柄でしたが、過去に両国の間には、暗い歴史があります。

ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、そこは旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は、刀で切捨て、大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(*実際には現在のところ、その虐殺はなかったとの説もある。インドネシア政府は虐殺があったという話は誤りだったとしている。)

他の島々でも日本軍による虐殺があったという話は至る所で聞きました。
肉親が食われたという話も耳にしました。

しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。

何が真実なのかは、僕には分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達の間で語り継がれている言葉が印象的でした。
 
オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった。
(*1)
 
歴史は国や政治的立場により真実は変わる。
正直、真実なんて分からない。
 
でも、過去から目を背ける事なく、しっかりそれを直視し、そして考え、未来に向けて建設的な関係が築ければと僕は思っています。
少なくとも、僕自身はそうやっていきたい。
 
さて、話は戻りスマトラ島へ。
その後の僕はレイク トバ、パダン(インドネシアに行った人はご存知、Masakan Padangの故郷)などを経由し、お隣ジャワ島へと突入する事に。
 
ここまでの間はずっと、20時間とか18時間(食事休憩以外は、乗りっぱなし)の長い道のりを、スマトラ島の西側に位置するバリサーン山脈の険しき道をバスに揺られひたすら乗ってきた。
いや、乗り越えてきた。

山道は険しく、バスは揺れる。インドネシア人は乗り物にめっぽう弱く、バスの中がゲ○まみれ。それに釣られる人も続出で、もらいゲ○。
窓の外に吐くも、後ろの方からまたその粉末が戻ってくる。それが更にもらいゲ○を呼び込む。

阿鼻叫喚の地獄絵図とはこの事だ。
 
途中途中では、バスの中に鶏、そして豚も乗ってくる。
僕の隣に豚が乗っている。偶に目が合う。これまで豚と目が合う機会など無かった僕はどうして良いか分からず、とりあえず豚を撫でる。
膝の上には途中で乗ってきたおばちゃんに頼まれて持たされたの鶏がいる。鶏専用のカゴがあるのだけど、この中に入って僕の膝の上にいる。
何やら向こうも落ち着かない。

僕も全くもって落ち着けない。
 
もう何が何だか分からない状況の壮絶なバスに揺られながら、ひたすら耐えに耐えて、南下してきた。
そして最後の移動は、何と40時間に及ぶ、バスの旅。南部は山ではなく、湿原も多く、景色が変わる。長い長い、スマトラ島も上から下まで、よくも旅したものだ。

さて、今度はフェリーに乗り換え。
フェリーはバスと共に乗り込むのだけど、バスから先に降りて船内へ。インドネシアは1万3千という島があるので、移動は飛行機か主に船。
僕のこの度はひたすら、過酷ながら、船とバスでインドネシアを縦横断する旅だった。

そして、よくやくジャワ島へと到着。
「これでやっとスマトラともお別れだ!!」
僕はあの地獄の日々を思い出し、ホッとする。
 
しかし僕の旅に、安息の時はありません。
今度はここジャワでも、まだまだ大変な事が待ち構えているのでした_。
 
*1 オランダによるインドネシア統治は1619年より。日本により統治は1943年から1945年まで。当時、インドネシアは日本による協力で、オランダから独立出来ると考えていた。
しかし実はオランダ以上の圧制の始まりで、強制労働、資源の搾取、多数の死者を出したという歴史がある。

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