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普遍性〜それは何であるべきか〜

■代数学を学んでいると、しばしば「普遍性(universality)」という概念に出くわします。最初のうちは自然に構成された代数的対象の一性質に過ぎないと思っていたのに、だんだん対象自体(の構成法)と普遍性との主従関係が逆転しているように感じた、そんな経験をなさった方も多いのではないでしょうか。

(この記事には値札がついていますが、最後まで読めます。お捻りは数学活動の足しにいたします)

普遍性ことはじめ

<質問> 直積、直和の普遍性などの「普遍性」とはどのような事なのでしょうか?定義すれば自然に得られるもののような事でしょうか?

 少し専門的な代数学(群論でも環論でも)の本を読み始めると、しばらくのちに「普遍性(universality)」という概念と出会うことでしょう。ぼくの場合は可換環論でしたから、最初は剰余環の普遍性、続いて剰余加群の普遍性と出会いました。
 ここまでは良かったのですが、問題は次にテンソル積の普遍性が現れたときでした。「これは何?」とぼくは思いました。テンソル積を作るのにも苦労したけれど/したのに、それが普遍性によって特徴づけられる(同型を除いて一意的に決定される)というのはどういうことなのか、今ひとつよくわかりませんでした。

 試しに剰余環及び剰余加群の普遍性を書き下してみましょう。

(剰余環の普遍性)A を可換環、I を A のイデアルとし、p:A→A/I を自然な全射とする。環準同型 f:A→B の核が I を包む、すなわち I の任意の要素を 0 に写すならば、環準同型 g:A/I→B で f=gp を充たすものがただ一つ存在する。
(剰余加群の普遍性)A を可換環、M を A 加群、L を M の A 部分加群とし、p:M→M/L を自然な全射とする。A 線型写像 f:M→N の核が L を包む、L の任意の要素を 0 に写すならば、A 線型写像 g:M/L→N で f=gp を充たすものがただ一つ存在する。

 ここまでは「うん、そうだな」と素直に読めました。「剰余環/剰余加群とは何か」を認識していたからです。また、p や f や g が総て同じ種類の写像であったことも助かりました。それが、テンソル積の普遍性になると次のようになります。

(テンソル積の普遍性)A を可換環、M、N を A 加群とし、p:M×N→M(×)N をテンソル積の構造射とする。任意の A 総線形写像 f:M×N→X に対し、A 線型写像 g:M(×)N→X で f=gp を充たすものがただ1つ存在する。

 いきなり話が複雑になった感じがします。直和や直積の普遍性も、同様の複雑さがあるのかもしれません。

 加えて、テンソル積の場合は構成法がわかりにくいというネックがあります。それなのに、普遍性のゆえに、テンソル積が(同型を除いて)一意的であることは形式的に導けてしまうのです。

圏論の思想 -それはいかに振る舞うか-

 このあたりの事情がすんなりと飲み込めるようになったのは、圏論という道具を日常的に使うようになった頃でした。圏論という道具は、今や数学全体を塗り替えんとする勢いで発展を遂げています。細かいことも高度なことも判らないへっぽこユーザーの一人ですが、ぼくの感じている圏論の発想を一言でまとめると「いかに振る舞うかが対象を特徴づける」となりましょうか。

 詳細はばっさり省きますが、圏は対象とその間の関係(射)からなります。そして圏論では、あらゆる性質が(他の対象との関係である)射によって記述されます。ここでは対象がどんな存在かはほとんど斟酌されません
 集合論(を基礎とする数学)が対象を中心とし、写像を始めとする道具は対象の構造を調べるためにありました。圏論ではこの主従関係が反転して、対象自体の内部構造はさほど斟酌せず(場合によっては内部構造すら射によって再表現され得ます)、対象同士の相互関係こそが主たる観察対象になるのです。

 集合論が「それは何か」を問題とするなら、圏論では「それはいかに振る舞うか」を問題とするとも言えるかもしれません。

普遍性による定義 -それは何であるべきか-

 圏論的視点に立って考えると、普遍性の主張は、各々の対象を圏論的に再定義していると言えます。つまり「それがそれであるならば斯様に振る舞うだろう」と期待される性質を(射を用いて)表現したのが普遍性だと言えます。

 このような、存在の成否を棚上げして性質だけを論じる考え方の利点を1つ挙げると、存在するとは限らないが存在したら有力な概念を抽出できることです。
 いかに素晴らしい概念でも、存在しなければ意味は少ないかもしれません。しかし、抽象的な概念になればなるほど、その構成には適切な方向感覚が必要になります。「何であるべきか」が予め明文化されていることはとても重要です。「何であるべきか」がわかっていれば、構成(存在証明)もさることながら、非存在をも断じることが可能になります。

 存在しない可能性がある対象をどう特徴づけるか。それはやはり「その対象が持つであろう、持っているべき性質」に頼る他ありません。その有力な主張の1つが「普遍性」なのです。

(これ以降に文章はありません)

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