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客観性とハイヤーセルフ

子供から学ぶ事沢山あるとは本当の話で、
スピリチュアルな事も、
まだ小さな子供達からちゃん日常的に教えてもらっています。

娘は動きが速く、スタスタテクテクと機敏に飛び跳ね回るので

ステっと転んだり、角にオデコをぶつけたりする事がよくあります。

そんな時彼女は、もちんろ泣いたりもするのですが、
完全に、泣いているふりをしている嘘泣きも多く、

それは泣いてよしよしとされるための気を引く意味と、

なんだか、一応ぶつけたから泣いてみようという感じが受け取れる泣きなのです。

何故かと言うと、泣いたりいたがるよりも、

それが起こった場所を指さし、

ここで、こうして、この場所をこうやって痛くしたの。と、説明するのです。

何度も何度も。

そして、だからね、今、こうして私、泣いてるの。エーン、エーン。と。。。

泣いてる(泣きまね)の口の端は、
いつも少してれのような笑が見られます。

私、こうやって泣いてみちゃってるのよー。なんて、表現しているかのように。。

私などは、ベッドの角に足をぶつけると、アイタタとなって痛みを感じてしまうのですが、

娘のその客観性にはいつも驚かされています。

何が起こっているのか客観的に見ること、
いつも客観的ていること、
そしてそれが起こっている対象の
自分自身(主観)から、確実に一歩下がった部分で自分を見ていること、

それは、大きな見方で見ると

エゴを離れて、
ハイヤーセルフとつながりながら
過ごしているとも言えると思うのです。

それも、完全な自然体で。

私はまだ、意識的にハイヤーセルフとつながつたり、その状態を保とうとしたりしている自分がいますし、
自然にそうなっていてもなにかの出来事でふとまたエゴの支配に戻されて
自分でそれに気づくという事が多々あります。

娘の常なる客観性、
それを目にする度、
彼女のハイヤーセルフを感じずに入られません。

そして私も見習って、エゴ的な自分が今何をしているのか、

高次の自分(ハイヤーセルフ)
が愛とともに観察しながら見守り、
そしてエゴを否定するのではなく、
認識して、認めて、許して、融合することで
その存在を高い意識に引き上げてあげる、

そんな思いで日常を過ごしています。

子供達は、一番の先生。
親は、親だからといって偉いわけではありません。

謙虚に、そして愛を持ちながら、
子供先生の生徒でいさせてもらいます。

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