6月2〜3日

一ヶ月半ほど前に"疫病で世の中も止まってしまっていることだし、お互い短編小説みたいなもんを書いてみようぜい"とマイメンに言われて、6月2日は出来上がったそれを見せ合った日だった。
それとは別に、約一ヶ月かけて視聴していたネットフリックスの長編ドラマを6月2日に見終えた。とても面白かった。
それとも別に、二週間ぐらい前に申請した国からもらえるありがたいお金が、6月2日に口座に振り込まれていた。
6月2日は色んな物事が、一斉にレジ締めをしたみたいな日だった。
増えた口座残高をスマホで眺めながら小躍りしていたら母親から、富山に住んでいる婆ちゃんが亡くなったという連絡がきた。人生山あり谷ありの最速レコードが出た瞬間だった。もう一度だけ口座残高をみる。確かに振り込まれている。"いっぱい香典包めよ"と国が言っている。

祖父母との思い出は少ない。俺が小学校低学年ぐらいの頃には、既に爺ちゃんは二人とも亡くなっていた。爺ちゃんとの思い出で記憶に残っているものはほとんどない。
大阪に住んでいたらしい父方の爺ちゃんの遺影写真を見ると、なんかすごい濃い。ろくでなしブルースとか北斗の拳の画風みたいな濃さをしている。悲しみにくれる遺族が、インクの出力を間違えたのかもしれない。
逆に富山に住んでいた母方の爺ちゃんの遺影の写真はとても薄い。こっちはハンターハンター・キメラアント編前半みたいな画風(内容は濃いけどね)をしている。悲しみにくれる遺族の涙で、インクが薄まってしまったのだろう。
両親から聞く爺ちゃん二人の性格は写真の濃さと似通っていたようで、大阪の爺ちゃんはかなり激烈な性格をしていて、富山の爺ちゃんは穏やかな人だったらしい。大阪と富山という土地に対するイメージをまんま投影したみたいな二人だ。そういう二人の配偶者だからか、二人の婆ちゃんも結構正反対の性格をしていた気がする。

大阪の婆ちゃんは派手好きで財布の紐はゆるっゆるでとても口数の多い、いかにもな関西人だった。パジャマはきっとヒョウ柄だったに違いない。
祖母と孫のコミュニケーションといえば祖母は孫の聞き役にまわるのが定石だと思うのだが、思い出の中の婆ちゃんはいつもノンストップマシンガントークをかましている。
あれでもあの人なりに聞く側にまわっていたのかもしれないと思うと、普段は更にお喋りな人だった可能性もある。慣れない関東にやってきての振る舞いだったということも考慮すると、本拠地大阪でのパフォーマンスは三割増しぐらいだった可能性もある。
俺が小学校高学年の頃に大阪の婆ちゃんは亡くなった。あんなにお喋りだったお婆ちゃんが一言も喋らなくなって目を閉じている現実は、死という概念を教わるには十分だった。

だから長らく、数字でいうと二十年近く、俺にとっての祖父母という役目は富山の婆ちゃんがワンオペで担当していたことになる。
幼稚園生の頃、幼稚園に行くのが嫌過ぎて(気の強い女の子にやたらいじられていた)富山の家に永住したいとわめいた記憶がある。でも正直なところ、それぐらいしか覚えていない。大きくなった俺との関係は別に悪くはなかったと思うが、どこか希薄だった。
お婆ちゃんは俺の目にはおとなしい人のようにうつっていたのだが、自分の娘(俺の母ちゃん)に対しては違ったようだった。ウチに電話をかけてきて俺が出ても言葉少なに"お母さんに代わってくれるかい"と言い出して、そこから30分ぐらい喋っていることがよくあった。もしかしたら孫に人見知りをしていたのかもしれない。

ずっと離れて暮らしていたし、近頃は調子が悪そうとも聞いていたので、訃報を聞いても悲しみが駆け込み乗車みたいにやってくることはなかった。勿論悲しかったけれど、何割かの余力を保ったまま受け止めた。流行りの疫病のこともあって通夜はなるべく小規模で行われた。北陸地方の葬儀に出てくる寿司は、やっぱり関東のそれよりおいしかった。

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