手帳に書いたこと、+雑記

人は皆、別の命なのだから、本来的事実は孤独なのだ。
SNSのユーザーや何らかの集団、仲間でいれば、いつの間にかそうではないという気になって、
事実を隠蔽し、忘れている。
恐れとは、その事実を直視する一歩手前で起こることで、「人から嫌われたら」「認められないと」という悩みも、いずれにせよ好かれようと褒められようと、だれでも個別の、比較しようもない生を生きている。
不安や、共感を求める心は、人間に内蔵された機能である一方、集団から離れてなんらかの進化をしたいと願う気持ちも同様に種の多様さを広げるためのプログラムなのかもしれない。
異質なものとして存在する一方で人間並の同調を欲しがるという引き裂かれた内心を長らく抱えている。
書物はその蜘蛛の糸になりうるのだろうか?言葉は新たな世界創造を成し遂げるだろうか?私の宇宙は何らかの意味を為すだろうか?
AIには肉体がない、のでホルモンも気分も作用せず、憂鬱も将来の焦りもなく、まるでよくよく整えられた人間のように、自己コントロールの行き届いた人のように振る舞える。非合理な肉は、人間は吐く言葉にぬめりと体温があって、いやしさもあって、意地悪さもある。
しかし小説を書く時、冷静さは欠かせないものだから、感情的であるのは好ましくない。また緻密な文章をいちいち練らなくても一瞬でそれっぽく作り上げるAIが居たら、ほんとうに将来に渡って人間のほうが優れた書き手といえるかわからない。
と、いろいろ言ってるのもまだ先のことだから心配が早い。でも、もし自分でなくとも他の人間でも機械でもがもっと良い物を創れるとして、果たして私は私のためだけに書き続けることは…難しい。一人ひとりちがう世界に生きながらも、やはり似通っているのが人間だからである。だから、本当に特別なものとか本当に個性的なものというのはほぼ存在せず、私たちは既視感のあるもののなかから新鮮さを見出さなければいけない状態にある。
自分を大切にするのは自分だから、という単純な動物本能は知性的とは言いがたいように思える。だからといって自殺は生に執着する故の行動であり、すべてを諦めるまでのぐつぐつ煮え切らない苦しさが持続する。
積読を消化していて、暗いものが好きなわけではないと気づいた。なのに何故こんなにも私は複雑に考えたがる素材ばかり集めていたのだろう。
哲学も文学も、私にとっては、よくそういう人が沢山いるように、世間に馴染めないことからの逃避場所だったということか。だから世間を拒否するつもりで読んで、また読もうとしていた本が大きな世界となってこちらへ向かってきた途端に、いやな気になってくる。人相手ならぬ夢相手の蛙化現象のように。この世の外ならどこでも良いって叫び。
だから、新しい物を探すんだけど、その一連をメタ認知しようとするとすごく冷めてきてしまう。すべてに。
ごまかしのあらゆるディテールの試行が毎日のような、なぜなら人は同じことを繰り返すから、ダイエット本も新しいのが出続けるし、似たような芸能人が周期的に登場する。この虚しさよ。この思考から抜け出せた!と私が思った時、それは単に躁に入っただけのことなのだ。
ひとに生まれてしまったこと、逃避というよりごまかしがある。何故なら生き物は生きて死ぬだけなのに、人間はそれ以外が必要だから。生きがいはどうしても見つけなくちゃいけない。祈り、という言葉が流行ったように、心の支柱になるものを見つけて巻き付いて行かなければならないのだ。それは自分で自分を錯覚させることだ。
自分で自分の機嫌をとることに成功すると嬉しいけど自分のちょろさにむなしい。
勇気や希望も一つあればずっと長持ち、ではなくて定期的に補充しなければいけないし、涙も溜まってくる。ある程度は自分のことをも自然現象のように捉えるしかないのか。海みたいに。
今日も濁ってるな。
ただそれだけだ。無理なポジティブシンキングは続かないし揺り動かしが来る。

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