時間という海へ

〇〇さんがいいねしました、誰かが作為的にタイムラインに流そうとしたわけではない言葉がときたまに私のタイムラインに流れてくる。

見られてしまうことを意図してるわけではなさそうな、ユーザーが関心を寄せて"♡"を押したものをその人のフォロワーはこっそり見ることになる。

画像2

誰かをフォローすると必ず、次の出会いやきっかけがついてくる。関心をワンクリックひろげると、スクリーンショットではきかない所有欲がかきたてられる物に出会うこともあるし、考える力が増すものに出会うこともある。知り合った瞬間から、その人は自分自身にとって濃密な個性でありながらも汽水域の様な存在になり、終わりのない出会いの奥へ連れだしてくれる。

日常生活のなかでもsnsのなかでも、出会いは常に連続していて、わたしはその連続性を保つものの一枚である。この終わりのない"出会い"という大きな時間の一部になってしまった暁に、一人一人の個人の辿りきれないルーツや、過去の記事、文化、歴史に触れ続けるはめになり、それがなかなか面白くて抜けられず、まんままと時間という存在の思う壺にはめられている。時間という存在を私の日常の中にある存在に例えるなら、祖母と私という関係の間に、母という人がいる。母と、曽祖母の間には祖母がいて、祖母と、高祖母の間に曽祖母がいて、みんながバトンタッチすることで現在の私がいる所まで時間は命の継承と共に肥大化してきた。時間はきっとそうして何かと併走し走り続けてきたものそのものであり、私はその大きくて縦にも横にも長い時間の中にいる。私はいつも時間に包まれてるのか、時間の中に佇んでいるのか分からないけど、ただ時間の中にいることだけは分かる。

こうしてバトンタッチされ続けたものが日常の中にも、繋がりの向こうにも溢れてる。ルーツをさかのぼるにも時間と共に伸びてきた脈路が長過ぎて、カテゴリーそれぞれの歴史に触れ続けて、ぜんぶぜんぶが知りたいとのめり込んでるうちに気づいたら枝分かれした幹の先にある枝や、蕾にたどり着いていたり、隣の畑や、遠い向こうの世界と繋がってしまったりするから終わらなくて、おもしろい。いつも未知なる無限の中にいる。それなのに、形を変えながらも有限な海に無限を重ねてしまう私はほんとうに、ちっぽけないきものだ。


画像1


ダイレクトに繋がっている事実だけが自分の環境じゃなくて、意識の向こうにも可能性が広がってることを忘れたくない。

ps.私は好きな人たちのいいね覧をダイレクトに覗きにいく変態タイプです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?