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フィクションのロレックスマラソン

「あいにく、在庫はございません。」

何度聞いたセリフか。

腹立たしさと落胆が同時に来る。分かっているがやめられない。
もう何百時間費やしただろうか。ここ最近、電車代を計算するのもやめていた。

1本買えれば百万円は儲かる腕時計。
職場の先輩から聞いて、気軽に始めてみた「ロレックスマラソン」。

こちらは客のはずなのに、なぜこんなにも冷たい対応を受けるのか。確かに転売という不純な目的のための来店ではある。
だからといって店に入ってすぐに、仏頂面で「在庫はございません。」はないだろう。あの店員の目はどこを見ていたのか、未だに分からない。

Youtubeやtwitterで情報集めもした。
購入報告を見ていると自分でも買える気がした。そして店舗に行く。打ちのめされる。
これの繰り返しだ。
新社会人のころ、自己啓発本を読んで鼻息を荒くしていた時に似ている。
会社に行ってへこみ、自己啓発本を読んで根拠のない自信で武装する。そしてまた会社でへこむ。

店舗に何度も足を運んでもうまくいかず、やがて購入報告を見るのが不快になってくる。

緑色の紙袋を映した写真。
「本日異常あり」。
「おめでとうございます」のコメントの数々。
疎外感と劣等感の二重奏。スマホを放り出す。そして10分後にはまたスクロールしている。

高級車のステアリングの前にロレックスをかざして撮っている写真。
マウント以外の何ものでもないが、見てしまう。

スタバのプラ容器の上にロレックスを置いて「優雅な時間の演出」なのか。
大量消費社会及び消費による自己演出の象徴だろ。とツッコミを入れる。

自分にはこのアップルウォッチ風のスマートウォッチ。どんな機能があるかも分からないまま時刻確認のためだけに使っている。

今日もだめだろうなと思いつつ、やはり店舗に行ってしまう。


対応してくれたのは、初めてみる女性の店員だった。
「よ、よろしければお伺いします。」慣れていないしゃべり方が新鮮だった。
「お仕事用ですか。」「スポーティなタイプがお好きですか。」
色々と聞いてくれる。うれしかった。ロレックスでこんな体験をしたのは初めてだった。

その日から訪問する店舗はひとつになった。
あの子がいますように。もはや在庫の有無はどうでもよくなった。もし在庫があって買ってしまったらあの子に会う口実がなくなってしまう。
訪問する度にあの子の説明はうまくなっていく。仕事にも慣れてきたのだろう。

時には、違うお客と楽しそうに話している姿に嫌悪するが、仕事なのだから仕方がない。

店舗をひとつにしぼってから半年が過ぎた。
いつものように訪問すると笑顔を迎えてくれたあの子がこう言った。「お見せしたいものがあるのですが。」
奥の席に案内される。

ロレックスで席に座るのは初めてだ。心拍数が上がる。
しばらくしてトレーを持ってきた。
テーブルの上で、はずされるベージュの布。
「とてもお似合いになると思ったので、持ってきました。」

目の前にあったのはスマホの画面で何度も見て、夢の中にまで出てきたものだった。
「こっこれは・・・。」次の言葉が出てこない。
「つけてみますか。」
返事にならないような声とともに頷く。
つけてみると少しひんやりとした感触とともに、黒いものが全身を覆ってくる感覚がする。
目の前の子はこの時計を使ってほしくて私に見せたのに、
私は、、、私は、すぐに売ってしまうのだ。売ってしまったらもうこの店舗には来られないだろう。そしてもうこの子には会えない。
だからといってこんな金額の時計を持つことは金銭的に難しい。

喜びと苦しみをまぜこぜにした顔の私。笑顔が少し困惑ぎみになってきたあの子に私は言った。

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