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【水曜日はスキレター】「神」言葉。

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例えば、実家や親族の葬儀のやり方とか、仏壇とか見ると、「これはナントカ宗」とかってのがあると思うんだけど、僕自身はあまりその辺のことを詳しく知らなくて(…って言ってしまうのもどうかと思うけど^^;)、信心深くそれを信仰してるわけじゃないんだなぁって現状を見ると、事実上、僕は「無宗教」なんだろうなと自覚するわけです。

…てゆうか、クリスマスにはパーティーをし、お正月には神社に行くこの国においては、きっと僕みたいな感じの人がかなり占めてるからこそ、この国の文化もそういうふうになってるんだと思う。
たぶん。

で、宗教信仰してるから、無宗教だから、それがいいとか悪いとか、そういうことでの判断は、僕は一切なくて。

でも、例えば「人事を尽くして天命を待つ」ような勝負事の時とか、人は神に祈ったりするんだよね。
そういうのは、よく見る。
自分も当てはまって、そうしたりするし、その気持ちはわかるなぁって思う。

大丈夫かな
自分一人じゃ不安だな
何か拠り所が欲しいな


そんな時に、人は「神頼み」したりする。
そして、もしそれがうまくいかない結果だったとしても、「きっと、そういう運命だったんだ」って納得したりする。
…や、その行為は「言い訳」とか「責任転嫁」とかではなくて、そう受け入れることで、自分を納得させられるっていうこと。
「神の思し召し」だと言えば、あらゆる結果も受け入れることができる。

何が言いたいのかというと、それくらい「神」っていうのは「絶対的」な存在で、その力は絶大なんだってこと。
僕のような無宗教な人間であっても、感覚でわかる感じです。


その「神」は、「目に見えない存在」だから畏怖するってものではなくて、聞いた話で「なるほど」って思ったことがあるんだけど、

「仏教」は、2000年以上前から今まで続いてる、最古の団体です

ってことを聞いた時に、特定の信教があるわけではない僕だからこそ、その説得力に頷いたわけです。

そこには、「教え」という商品(?)が、2000年以上の間、通用し続けてきたっていう事実があるということです。

寿命100年の「人間」よりもはるかに長く、その「教え」が受け継がれているということは、多くの「人間」が時代を跨いで「この教えはいいな」って思われてきたっていう証なわけで。
その「2000年分の信用」ったら絶大すぎて、そりゃあ揺るぎなく「絶対的」になるわけだよね。

例えば今、「数十年」生きてきた自分が抱いた「不安」があったとして、2000年という長い時間を経て通用してこられているという「教え」は、きっと間違いなく、その「自分の数十年に対する答え」を持ってると思う。
どの時代でも皆、今の自分と同じように感じ、考え、同じことを繰り返しながら紡いできたんだな。
だからこそ必要とされたし、今も通用する。
その経験値の信用。ってことだ。

何も知らない人に慰めの言葉をもらうより、同じ経験を踏んできた先人の言葉がありがたいと思うような感じ。みたいな。
それの2000年間品質保証バージョン。
そんなわけで「仏教」の教えが、不安な時の拠り所となるのは、必然だよなって思ったりするわけです。



思い起こせば数年前から、僕は毎日欠かさずこの「大愚和尚の一問一答」の動画を見ていました。
今振り返ると、きっと「心が不安で溢れていたんだな」と思う。
心を落ち着かせるために、今の自分で間違っていないと自信を持つために、誰かに何かを言われて心が揺らいだとき、傷ついたとき、ぐらついた心を鎮めるために、毎日これを見続けていた。

「戦っていた」なんていうと聞こえがいいけど、そんな勇ましいものじゃなく。
「虚勢」とまではいかなくても、拠り所がないと胸を張れないくらい、きっと不安で、自分の在り方に自信がなくて、満たされてなかったんだと思う。

コロナで「仕事」から一度離れたくらいからかな、気づけば僕はこの動画をあまり見なくなってた。
嫌いになったわけじゃないし、今も好きでたまには見るけど、「渇望して欲する」ようなことは無くなった。
日々子どもと時間を過ごし、心が癒され、満たされ、悩みから解放される感じがあって、動画の存在さえ意識もしなくなってた。

だからこそ、実感として思うんですよね。
心が弱ったとき、人は何かに頼りたくなるんだなぁって。
それが今ないってことは、心が落ち着いて、満ちてるんだなって、今はちょっとしたバロメーターになってる感じです。


…って、ここまで「仏教」な感じで進んできましたが、やっぱり僕は「無宗教」なわけで。
それでいて、前述のように「宗教が踏んできた経験値」へのリスペクトは持ってたりして。


ということで、ここまで進んでようやくスキレターw
前段、長っ!


*バイブルラインさま


ここにきて、「キリスト教」^^
…で、ご紹介させていただいておいて何ですが、、、まずは僕が「キリスト教」信仰してる者じゃなくて申し訳ありません。。。
そんなわけで、いち素人の目線ではありますが…、それでも僕なりに「スキ」と思うnoteなので、どうぞご紹介お許しくださいませ。。


考えてみたら今年西暦2021年、てことは「キリスト教」もその西暦の分、前述の「仏教」と同じように支持され続けてきた「絶対的信用」な拠り所であるということですね。

僕は無知な素人なので、「神の存在」云々とかまで言及はできないですが、ただ、そこに「真理があるんだろう」ということは、信じられるわけです。
だからこそ「キリスト教」も今の時代まで普及し、継がれてこられているのだと思うから。

そんな「絶対的信用の経験値」のもとで発せられた言葉だから、響く。
キリスト教でも仏教でも、2000年経て通用してきた「真理」って、やっぱりすごいよ。。
「無宗教」素人の僕で思うんだから、それは「人間」の真理を説いてるってことなんだと思う。


noteを開くと日々、バイブルラインさんの記事が現れます。
「聖書」の一節とかを、毎回サクッとピックアップしてくださってる記事です。
僕は、姿勢を正して、それを読む。

今の僕は、不安を解消したくて渇望するほど、「教え」を欲してはいないだろうと思います。
でも、バイブルラインさんの記事を読みたくて求めたり、読んですごく響いたりする時がある。
きっとそういう時って、ちょっと心が揺らいだり、不安になってたりするんだよね。
それこそ「心が健康かの、バロメーター」みたいな感じになっています。
日々読ませていただくのは、なんていうのかな、風邪ひいて薬を飲むんじゃなくて、風邪ひかないように「うがい」するみたいな、「検温」するみたいな感じで。
喩えが合ってるか、わかりませんがw

一節がサクッとピックアップされて書かれた記事を読んでは、

そうだね、今日の過ごし方、そこを気をつけよう
なるほど、いい気づきをいただきました

とか、そんな感じでちょっと気を引き締めたりするのです。

…こうやって書くとよろしくないのかもしれませんが、キリスト教を信仰していない僕にとって、「聖書」ってなかなか触れる機会のないもので。。
たまにビジネスホテルなんかには置いてあったりするけど、、、自分から進んで開くことってないので。。。(すいません。。汗)

なので、こうして日々一説ずつアップしてくださるのは、触れられて、知ることができて、とてもありがたいのです*

バイブルラインさん、いつもありがとうございます*


ということで、皆様も心満たして、
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ^^

See you next Wednesday !

最後までお読みいただき、ありがとうございました!頑張って書き重ねていきますので、是非またお越しください。