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餞に。

あの日の僕が正しかったと今でも思えるわけではない。

けれど間違っていたのだと、そう思う強い気持ちもなく、日々淡々と過ごしている。

仕事をして、部屋に帰って、食事をして眠る。時々は友達と飲みに行ったり、女の子と待ち合わせて、夕食を食べて、いろいろな話を聞いて、駅で手を振る。

ベランダの鉢植えはカラカラになって、枯れた葉が飛ばされてすみっこにつもった。

Tシャツは色が落ちて文字がかすれてのびたけど、やわらかく体になじんでいる。

環境に適応する能力は人の持つ才能だ。

僕はもう心が痛みはしない。心は痛まないが、君を思い出す。

そして君を思うたびに心から涙がこぼれる。

なぜなのかわからない。涙がこぼれる。


1994年に出された銀色夏生さんの「葉っぱ」という本の、当初より大好きだった文章を引用してみました。


久しぶりにnoteを開けたらフォロワーさんからコメントがあって、

今月末でnoteを辞めるね。ここで遊ばれてくれてありがとう
なんか知らないけど、すごく楽しかった。久保田さんで遊ぶのが
(記事はちゃんと読んでたよ)

なぜかまた会う気がする…、なぜだろう…
私の気がするは外れたことがないよ…
餞別は月末までに、詩でも投稿してくれんかね。

そう書かれていたのを見て、ふとこの文章がよぎったので、これにしてみました。


数ヶ月のコロナワクチンの仕事を終え、これからの過ごし方やnoteやる意義とか、色々考えながらこれから整えていこうと思っていた矢先だったので、まだ自分発信のものが用意できてなくて、でも急に今月末までと言われたもんだから、取り急ぎの借り物の文章でごめんなさい。

考えてみたら、僕がnoteにいる限りSNS外からでも記事は読めるし、しようと思えば問い合わせからメールもできる。てゆうか、僕は素性を明かしているので、どこの誰だかは一目瞭然で、どんな形でもコンタクトは取れる^^

道が別になったとしても、会わなくなったとしても、生きている限りは接触できる確率はゼロじゃないんだよな、って思った。

人生の経験は累積だ。
過去をハードディスクに保存して、現在というメモリの上で暮らす。
また必要になれば、過去のファイルも引っ張り出せるし。

そんなふうに思うと、「また会う気がする」のは全然あり得ることで。
会わない決意とか他人のフリとか、そういう思惑じゃない限りは、「会える」んだよね。

なもんで、それくらいの温度感で選んだ餞の詩、でした。
重たくなくて、ごめんね^^



遊んでくれてありがとう。

ここのところは、なかなか遊べなくてごめんなさい。

この記事を、いただいたコメントのレスに替えて。

僕は来月から、ぼちぼちnoteも再開していこうと思ってます。

いやぁ、タイミング合わないね笑


それでは、また。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!頑張って書き重ねていきますので、是非またお越しください。