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ミッシングリンクを追え! -疑惑のラビリンス 外伝-

昭和十六年十二月八日
中国 秦皇島沖
日本海軍 駆逐艦『栗』

「『長崎丸』ではこれが限界だろう……」
 駆逐艦『栗』艦長、寺内少佐はそう呟くとチラと横に視線を流す。そこには、羅針盤の前で腕を組み、仁王立ちしているスラリとした細身の女がいた。その姿は、襟だけが白い黒のセーラー服に波形の腕章、やはり黒の水夫帽には白い文字で『長崎丸』と染め抜いてある。
 女は、軍人ではない。
 東亜海運所属の長崎・上海航路定期船『長崎丸』の船員、雪下胡桃は沖を凝視しまま、切れ長の瞼を細めている。それはまるで運命を諦観した戦国時代の姫のような佇まいだった。

 胡桃は、海にそそがれていた視線を寺内艦長に移して答える。
「そうね。『長崎丸』は商船だから『プレジデント・ハリソン』に甘く見られたのかも。そもそも非武装の商船で敵の輸送船を拿捕するってのが無理難題なのよ。相手が言うこと聞くワケ無いじゃない。海軍サンはいっつもこんな依頼ばっかり」
 胡桃は、相手の船が米国籍なので、軍艦で追尾しなければならないことを知っている。しかし、胡桃の乗船『長崎丸』は海軍に徴用されたわけではないので、民間の商船である。よって『船舶の拿捕』などという軍艦のような危険な使命は帯びていないし、乗組員はそのような訓練も受けていない。にも関わらず、それをやらされたのでイヤミを言ったのだ。
「しかしだな君、『プレジデント・ハリソン』の一番近くにいた日本の船は……」
「わかってるわよ。それなら海軍で偵察機でも飛ばして接触を維持し、それから軍艦を派遣すればいいじゃないの」
 寺内艦長は言い返せず、口をへの字にまげて、荒波を左右に分断している艦首に視線を移した。
 胡桃は少々気の毒に思い、逃げ道を用意した。
「でも、わたしも斜め上からの指示で『プレジデント・ハリソン』を追う任務を与えられてしまったわ。その『斜め上』の人たちからみれば『長崎丸』が近くにいたのは、それこそ渡りに舟だったみたいね」
「気乗りしない言い方だな」
「気乗りしないわよ。だって…… ん、まあ、いいわ」
 胡桃は、紅をひいてすっきりと見える艶やかな唇をつぐみ、荒波の先に揺らめく『プレジデント・ハリソン』に視線を戻した。

 数時間前、日本の機動部隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲してこれを撃滅。南方では陸軍がマレー半島に上陸してシンガポールを目指し、さらに台湾から飛び立った海軍航空隊の零戦隊と中攻隊がフィリピン、マニラのクラーク基地を空襲している。
 日米開戦である。

『プレジデント・ハリソン』はアメリカの客船だったが、十一月にマニラで輸送船に改造され、主にマニラ~中国の秦皇島にある米軍海兵隊基地、キャンプ・ホーカムを結ぶ航路を往復していた。
 そして日米関係がキナ臭くなってくると開戦に先立ち、キャンプ・ホーカムや上海にあるアメリカの資源、兵員をマニラに撤収していたのだが、マニラから秦皇島に帰る途中で開戦となり、偶然近くを航行していた『長崎丸』に停船命令を受けたのだった。
 しかし、『長崎丸』が商船と知った『プレジデント・ハリソン』はそのまま逃走。一時は船首をマニラに向けたが、クラーク基地が日本軍に空襲されたと知って再び秦皇島にUターン。
 非武装で船足の遅い『長崎丸』では追尾不可能と判断した日本海軍は、支那方面艦隊所属の駆逐艦『栗』を派遣したが、その途中、憲兵隊の要請で『長崎丸』から胡桃が『栗』に乗り込み、追跡を続けているのである。
 追われる『プレジデント・ハリソン』は一万トン、一方、追う側の『栗』は十分の一にも満たない七百七十トン、艦種分類上は駆逐艦の中でも小型の、二等駆逐艦である。『プレジデント・ハリソン』は追ってくるのが小型艦、しかも一隻だと侮って停船に応じない。
 その様子を見た寺内艦長は眉間に皺を寄せ、命令した。
「左舷砲戦よーい」
 寺内艦長の号令が終わる前に、
「ダメよ」
 胡桃は即座に抑え、号令を復唱する声が途絶える。
「なぜだ」
「ダメ。だめと言ったら駄目。あれには重要な積荷があるというハナシなのよ」
「しかし、このままでは秦皇島に着岸して、乗組員に積荷を奪われるかもしれん」
「そうなったら仕方ないわ。それよりも、わたしは乗組員から話を聞きたいのよ」
 その言葉に寺内艦長は声を荒げた。
「なにっ、仕方ないだと?」
「文句あるの?」
 胡桃は薄い二重で切れ長の瞼の中から、青みがかった神秘さを感じさせる瞳で、ギロリと睨む。
 思わず押し黙った寺内艦長の耳元で、航海長が囁くように言った。
「艦長、女に甘すぎやしませんか? なんで『長崎丸』の水夫の言うことなんて聞かなきゃならんのです? しかも女学校出たてのような…… 日米開戦ですよ? ほかの部隊は勝った勝ったの大騒ぎです。我々も戦果を上げましょう」
 寺内艦長は不満タラタラの航海長を艦橋の隅につれていき、小声で言う。
「憲兵隊の指示で動いているらしい」
「あの女が? あぁ…… だからさっき『斜め上』って」
「シッ、声が大きい。彼女は雪下胡桃、東京憲兵隊の雪下特高課長の娘だ」
「えっ…… 連行されたら生きて帰れないという特高課?」
「バカっ! だから声がでかいというに。しかも東條首相とも懇意だと聞く。ともかく少しの辛抱だ。やんわりとな。やんわりと」
「はっ、そのような事情であればやんわりヨーソローですが、『長崎丸』に敵の追尾を依頼したのは憲兵隊ではなく、海軍なのでは?」
「表向きそういう話なのだが、命令の出所は憲兵隊の上層部らしい。もちろん、その憲兵隊に依頼した人間もおるだろう。ともかく、女……雪下胡桃を民間人の船員と侮り、ぞんざいに扱って睨まれんようにしろ。東京憲兵本部の井戸に投げ込まれるぞ」
「うえっ、い井戸にっ? 甘粕大尉の噂ってホントだったんですね。コワ…… わわわっかりました。開戦初日に連行なんてイヤですから」
「よろしい。わかったらお茶を淹れてこい。先月赤レンガの質屋から持ってきた高級茶葉が艦長室の棚にある」
「わたくしも飲んでよろしいでしょうか?」
「だ、め、だっ、はよせい」
「わかりました。お茶を淹れてきます」
「ゆけ」
 航海長は、美しくも凛々しい胡桃の横顔に奇異の視線を向けると、艦長室へ消えてゆく。
 二人のやり取りを黙って見ていた胡桃は、やっと口を開いた。
「お話は終わったようね。で、続きなのだけれど、この艦の乗組員で陸戦隊を組織してほしいのよ。目的は『プレジデント・ハリソン』の船長と航海長を捕まえて、事情を聞くため」
「うむ、何名必要だ?」
「10人お願い。指揮はわたしがとる」
「丸腰でか? そりゃいくらなんでも戦争をナメて……」
「なによ、丸腰の『長崎丸』で戦争をさせようとしてたのは、ドコのどちら様でしたっけ? それに」
 胡桃は、腰のホルスターから、南部十四年式拳銃を取り出して見せた。それは陸軍が採用している拳銃で民間人は持っていない。寺内艦長は東京憲兵隊から入手したものと察して口ごもり、足早に伝声管へ歩み寄ると大声で命令を下した。
「艦長だ。いいか、これより陸戦隊を編成する。各分隊、1名づつ選抜して三八式歩兵銃に実包を装填、着剣してランチの前に集合せよ。10分でやれ。いいか、10分だぞ」
 にわかに艦内が慌しくなる。

 胡桃は寺内艦長に敬礼すると艦橋から降り、お茶を持った航海長に途中すれ違いざま、
「ご苦労様、あなたが飲んでいいわよ」と声をかけると、陸戦隊が整列する甲板に向かった。
「艦長さんっ、もう一度『プレジデント・ハリソン』に停船命令を出して! 発砲はダメよ」
 胡桃は艦橋に向かって叫ぶが、停船命令を出すまでもなく、唐突に『プレジデント・ハリソン』は停まった。その理由は呆気ないものだ。右往左往して逃げまわった挙句、浅瀬に乗り上げて座礁したのである。
 胡桃にとってその状況は、積荷の心配も乗組員の逃亡の心配も無いことになるが、相変わらず気乗りしなさそうな表情だ。
 胡桃はランチを降ろすよう指示し、海に飛び込んだ『プレジデント・ハリソン』の乗員を救助しつつ、岸壁のようにそびえたつ舷側に近付いていった。
 そして、『栗』の陸戦隊とともに『プレジデント・ハリソン』に乗り移り、オーレル・ピアソン船長を、脱出寸前で捕えることに成功したのだった。


昭和十六年十二月八日 深夜
中国 秦皇島
米軍海兵隊基地 キャンプ・ホーカム

 胡桃は、日本軍が開戦とともに占領した秦皇島のキャンプホーカムの一室で、『プレジデント・ハリソン』の船長、オーレル・ピアソンと向かい合って座っていた。
 米軍は日本軍の攻撃を受けると同時に施設を破壊しつくしており、電灯さえつかない。そこで『プレジデント・ハリソン』から陸揚げしたハリケーンランタンを照明に使った。
 部屋は海兵隊の司令室であったが、さほど広くはない。ぼんやりとしたランタンの灯りに浮かぶピアソン船長の、彫りの深い眼窩の奥に光る瞳を見て、胡桃は信頼できる人間だと感じていた。
 そこに、『栗』の航海長が遠慮がちに入ってくる。
「あら航海長、応援に来てくれたの?」
「ええ、『プレジデント・ハリソン』は無事離礁してタグボートに引渡しましたから『栗』の任務は無事終了。秦皇島での待機命令が出たので応援に。ええと、お茶のお礼とでも思ってください……」
 航海長は照れくさそうに頭を掻きながら続ける。
「それと、『プレジデント・ハリソン』の積荷ですが」
 航海長の言葉が終わらぬうち、胡桃は言った。
「おおかた、ドル紙幣と貨幣、ペソ紙幣、それと小切手というところかしら?」
「いや全くその通りです。ご存知でしたか。『プレジデント・ハリソン』の船長が自白を?」
「いいえ、ピアソン船長は黙ったままよ。でも開戦になれば逃亡先はフィリピン経由米国でしょ? ならば中国のお金を持っても仕方ないわよね。逃亡先で使えるお金、もしくは共通で使える小切手でなければね」
「なるほど。しかしなぜそれが『重要な積荷』なんでしょう?」
「重要な積荷なんて最初から無いのよ」
「ええっ? それではなぜ雪下さんは『栗』に乗艦したんですか?」
「もちろん、『重要な積荷』の行方を探らなきゃいけない。『プレジデント・ハリソン』には無いけれど。でもね、わたしにはもう一つ、どうしても知りたいことがある……」
 胡桃はそこまで言うと、ピアソン船長に向き直った。そして穏やかに、また丁寧な口調で尋ねる。その内容は積荷はもちろん、戦争とは無関係のことである。
「わたしは、雪下胡桃といいます。民間人なのでご安心ください……」
 そう話を切り出した胡桃の瞳に真摯さを見て、ピアソン船長の頑なで強張っていた表情から、僅かに力が抜ける。しかし相変わらず、眼をカッと開いて口は閉じたままだ。
 そのタイミングを逃さず、胡桃は聞いた。
「『プレジデント・ハリソン』は上海・マニラ航路の前、サンフランシスコから西回りの『ダラー・ライン』を航行していたと聞いています。それは、ナポリやジェノヴァなど、イタリアにも多くの日数寄港しますね。そして、そこにはドイツの船も多い……」
 ピアソン船長は、一体何の話かと目を丸くして聞いている。当然積荷のことや、いままで輸送した米海兵隊、武器のことなどを尋問されると思っていたのだ。
 胡桃は胸の内ポケットから一枚の写真を取り出すと、見せた。
「この人を知りませんか? ドイツの客船に乗っていたはずなんです」
 その赤茶けた写真には、結った長い髪を肩から前に垂らした和服の女性が写っている。それはどことなく、胡桃に似ていた。
 ピアソン船長は写真の人物と胡桃を何度か見比べると、黙って首を横に振る。
「おねえちゃ…… 姉なんです。行方不明の」
 落胆してうなだれ呟く胡桃に、ピアソン船長は初めて重い口を開いた。
「欧州戦線の影響でか?」
 しわがれてはいるが、腹の底から出たような、芯のある声である。
 胡桃は頷くと、ピアソン船長は紅潮していた顔を桃色に、吊りあがっていた目をいくぶん垂れて、さも気の毒そうに言った。
「お嬢ちゃん、力になれずすまんな。今はもう、ドイツ船はイタリアよりフランスの方が多いだろう…… 私がもし生きて本国に帰ることが出来たら、フランス航路の船長に聞いてみよう。お姉さんの名は?」
「雪下綾乃です」
「うむ、忘れずに憶えておく。戦争はイヤなものだな」
「はい…… ありがとう」
 胡桃の尋問はそれで終わりである。あまりのあっけなさに『栗』の航海長や陸戦隊の面々が唖然としていると突然、ドアを開く音も荒々しく、十数名の兵隊がドヤドヤと入ってきた。一様に、胸には憲兵を表す黒い胸章つけている。指揮官は金縁に星二つの中尉である。部屋は瞬く間に兵士たちの熱気と殺気を帯びた。
 航海長は相手の階級章を確認し、その前に立ちはだかると怒鳴なった。
「なんだ貴様らぁ!」
 相手は航海長の海軍大尉の階級章を見ても態度を変えず、高揚の無い声で答える。
「貴様こそなんだ。我々は北支那方面軍の憲兵隊だ。海軍の出る幕ではでない」
「なんだとっ」
 『栗』の陸戦隊が銃剣を構えると、憲兵隊も南部十四年式拳銃を抜いた。
「騒々しいわね」
 胡桃は静かに立ち上がると、両者の銃口の間にこともなげに割って入る。
「貴様らっ、銃を下ろせっ」
 そう言って憲兵中尉は慌てて態度を一変させ、胡桃の前に進み出ると気をつけの姿勢をとって敬礼し、まるで上官に報告するかのような口調で言った。
「北京協和医学院にはありませんでした。無念であります」
 胡桃は『長崎丸』ですでにその情報を掴んでいる。北支那方面軍司令部は協和医学院の道路一本挟んだ北側の向かいにあり、開戦と同時に憲兵隊が踏み込んだことも知っていた。それは東京帝大の小金井博士(解剖学・人類学。作家、星新一の祖父)の意を受けた北支那方面軍の梛野軍医中将の命令によるものということも知っている。その情報に接して『長崎丸』ではため息を漏らし、ここでは聞き終わると一言、「そう」とだけ答え、続けて、「ピアソン船長を丁重に扱いなさい。もし暴力でもあったら……」と、ギロリと睨んで言うと、憲兵中尉は背筋を伸ばして答えた。
「もももちろんっ、了解しております。部下には指一本触れさせません」
「頼むわよ。それと」
「はっ」
「入室するときは、ノックをするように」
「はいっ、以後気をつけます」
 『栗』の陸戦隊の嘲笑を受けながら、憲兵中尉は軍人らしくない、深いお辞儀をして退出していった。

 胡桃は兵士の臭いでむせ返りそうな部屋の外に出ると、航海長はじめ『栗』の乗員に対して艦に戻るよう言い、自身はそのまま日本軍が接収したばかりのキャンプ・ホーカムの倉庫を見て廻った。そこには、米軍の武器弾薬が山のように積み上げられている。胡桃はそれを調べようともせず、まるで公園を散歩するように歩いていた。
 航海長は戻れと言われたものの、ナゾが多すぎる胡桃の言動に心が残って立ち去れず、胡桃の三歩後ろをついて歩いていた。そして、何も説明しない胡桃にとうとうシビレを切らす。
「あのぅ、雪下さん、先ほど憲兵中尉が話していた、協和医学院というのは?」
 胡桃は振り向かず、まるで独り言のように答えた。
「北京の医療学校…… なのだけれど、なぜか米国ロックフェラー財団の資本なのよね。だから日本軍は手出しできなかった。ただし、『昨日まで』(日米開戦前、の意)の話だけれど」
 航海長は、ポンと手を打って言った。
「なぁるほどぉ、それで私にも見えてきました。つまり『重要な積荷』というのは、協和医学院の医療機器や治療方法を記した資料で、それが『プレジデント・ハリソン』に積まれていた。そして『栗』の追跡中に海中に投棄された。それを見た雪下さんはヤル気が出ない。けれど、お姉さまの手がかりを知りたかったから船長を尋問するまでは、と考え、ここまで来た…… と。どうです、私の推理」
 胸を張る航海長に、胡桃は瞼を半開きにして冷たい視線を送る。
「ぜーんぜん、違う。そもそも『プレジデント・ハリソン』には重要な積荷を積んでいない。だから海中投棄もしていない。でもね、わたしのヤル気が出ない理由はソコじゃない。たとえその『重要な積荷』を発見したとしても、純粋に学問の向上に使われず、国威発揚に使われるのが目に見えてるからヤル気が出ないのよ。大湯環状列石のようにね」
「おおゆ???」
「秋田県にある縄文時代の遺跡よ。石が環状に並べられていて、中央に細長い岩が立てられている。それが日時計みたいに見えるものだから、『我が国には縄文時代から時計があったのだ』とか言って、日本人こそ世界最優秀民族だって喧伝していたわ。そもそも狩猟採取生活をしていた縄文時代で、現在時刻が何時何分か知ってどーすンのよって考えなかったのかしら? もうその時点で最優秀民族じゃないのだけれど」
「あぁ、それ私も記憶しています。確か3、4年前でしたか?」
「喧伝したのは昭和十二年。遺跡が発見されたのは昭和六年だけれど。そして今、帝大のエライ博士が大東亜共栄圏こそが人類発祥の地である、って言ってるのよ。大湯遺跡では日本人の民族意識を発揚し、今回の一件ではアジア人の民族意識を高めるつもりよ」
「アジア人の民族意識発揚ですか? どういうことでしょう?」
「『北京原人』は知ってるわよね?」
「はい、それも新聞で『アジアが人類発祥の地か?』などとデカデカと載ってましたから。しかし、北京原人だけでそれを言うのはかなり大げさだな、と思ってましたが」
 胡桃は棒読み口調で言った。
「北京原人、ジャワ原人、明石原人」
「え! 全て日本の勢力範囲……」
 胡桃は航海長に注意する。
「ジャワはまだでしょ。うかつに軍事目標を民間人に漏らしちゃダメでしょうが」
「すみませんっ、実はジャワ攻略作戦に支那方面艦隊から駆逐艦を出せと今朝、命令がきていたものでつい…… でも二、三カ月後には、きっとジャワも大東亜共栄圏になってます。はい」
「まぁつまりよ、この世界で、原人と呼ばれる全ての化石は、日本の勢力下の地域で発見されたことになるわ(昭和十六年時点において)。それを東條さんが利用しないワケがない。帝大の学者のお墨付きでね。そして、それは蒋介石も充分理解し、警戒している」
「私もそこまで言われればわかります。それは支那にとって屈辱的だから、蒋介石は米国資本の協和医学院に北京原人の化石を保管して、日本軍に手出しできないようにした上で、『プレジデント・ハリソン』に積んで秘密裏に米国へ移送…… あれ?」
「無かったでしょう?『プレジデント・ハリソン』には」
「雪下さんは最初からそれを……」
「知っていたというよりも、『積んでいるワケが無いと思った』という感じかしらね」
「ええと、なぜそれがわかるんでしょうか? 『長崎丸』が近くを航行していたのも、雪下さんが『栗』に乗り込んだのも偶然ですから、雪下さんに情報を入手する余裕など無いと思うのですが」
「『長崎丸』で命令を受領したとき、おおよその情報は手に入れてたのよ。『プレジデント・ハリソン』に積んでないな、と確信した根拠になった情報は二つ。まず、今年四月に米国が北京在留の米国人に引き上げ勧告をしていたこと。もう一つは、北京原人の研究者はドイツから亡命してきたユダヤ系米国人、ワイデンライヒ博士であること。そしてそのワイデンライヒ博士も、四月の引き上げ勧告と同時に渡米していること。四月よ四月っ、支那にとって至宝であり、ワイデンライヒ博士にとって重要な研究標本なのに、日本軍占領下の北京に置いたまま米国に帰る? しかも蒋介石の政府は遠く重慶にあるのよ? いくら米国資本の協和医学院でも、引き上げ勧告が出たということは、『中国にいたら米国は責任持てませんよ』と言ってるようなモノじゃない。つまり、蒋介石にも米国にもワイデンライヒ博士にも北京原人の標本を守れない状況になるわ。なのに、ボサ~と十二月まで協和医学院に北京原人を置いておかないわよっ、はぁ……」
 胡桃は溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すかのように、一気に言った。
「お、おっしゃるとおり…… 雪下さん、落ち着いてください。では、北京原人の化石は四月にワイデンライヒが米国に持ち去った、と?」
 胡桃は息をフゥ、と吐くと続ける。
「それも無いわね。なぜなら、ワイデンライヒ博士は昭和十一年から昭和十三年まで四回も天津経由の船で日本に来ているの。帝大のエライ博士に会うために。北京原人の化石の『模型』を持ってね。模型を見せられた博士たちの残念そうな顔が目に浮かぶわ。京都帝大の清野博士(731部隊、いわゆる石井細菌部隊の顧問)は贈られた模型を捨てちゃったらしいわ。だからそもそもワイデンライヒ博士にとって重要な来日じゃなかった」(ちなみに、先の東京帝大小金井博士、京都帝大清野博士は、アイヌ人骨の盗掘をしている。この2名は研究のためなら犯罪も許される、と考えていたフシがある。なお、731部隊長・石井中将の京都帝大時代の教授は清野博士)
「ではなぜ四回も?」
「外国人が国外に出ようとすると、ここや天津憲兵隊の厳しい荷物検査を受ける。ワイデンライヒ博士も当然受けたはずよ。だから、手荷物に北京原人の標本をもぐりこませて渡米するのは不可能だと知っている。つまり支那事変以降の来日は渡米に備えた『演習』だと思うの。来日の主な目的は憲兵隊の荷物検査がどれほど厳しくなったのか確かめることだったと、わたしは考えている」
「でも、四回も日本に来るなんて、ワイデンライヒは親日派なんですねぇ」
 航海長は的外れな反応を示すが、胡桃は話をあわせて、ワイデンライヒ渡米の動機に会話をつなげた。
「親日…… ね、まあ、嫌われていないけれど、好かれてもいない。というのが正解だと思うけれど。なぜなら、昭和十二年に支那事変(日中戦争)の引き金となった盧溝橋事件が起きている。いい? 北京原人が出土した周口店からは道が二本分岐し、それがまた一つになって盧溝橋を渡り、北京に続いている。それ以外に道は無いの。つまり盧溝橋を日本軍が抑えている限り、遺跡のある周口店で発掘しても、ワイデンライヒ博士がいる協和医学院に出土品を運べない。それは、ワイデンライヒ博士にとって新たな出土品が手に入らないということよ。おそらく、現実問題として渡米を考え始めたのはその頃だと思うわ。そして、日本の国威発揚のやり方や論調は、同じ昭和十二年の大湯環状列石の例でよく知っていた。日米関係悪化以前に、当時の状況からみてワイデンライヒ博士は北京での研究継続を諦めていたと見るのが正しいわね。タダの学者がそんなこと、って思うでしょうけど、彼はドイツでは政治家でもあったんだから、その辺は敏感だと思うわ」
「それならば、盧溝橋事件の時点で渡米してもよさそうだと思うのですが……」
 胡桃は言葉を続ける。
「ワイデンライヒ博士はユダヤ系の米国人だと言ったでしょう? 盧溝橋事件の翌年、昭和十三年に日本はソ連経由で逃げて来たユダヤ人を満州に逃がし、ドイツ側の抗議に対して当時の関東軍参謀長(東條英機・昭和十三年時点では陸軍中将)が『人道上当然だ』と一蹴しているわ。また昨年はポーランド日本領事館からユダヤ人に大量のビザが発行されている。そのとき、ユダヤ人を受け入れたのは日本領事館だけよ。そのような日本の姿勢がワイデンライヒ博士の心を引きとめた。つまり、ユダヤ人であるワイデンライヒ博士は、日本の勢力範囲にいる限り自分の身は安全だ、と考えたのでしょうね。研究のためには北京にいたい、そして日本の支配下でユダヤ人に危害が及ばない、ただし、日本『軍』の影響力は無いほうがいい…… その三つの条件を兼ね備えたのが、日本軍占領下の北京にある米国資本の協和医学院だったのよ。しかしその後状況が変化して、自身と『北京原人』が安全とは言えなくなったのが、ワイデンライヒ博士にとって一番の問題になった……」
「状況の変化、ですか。なるほど、日独伊三国同盟、そして日米関係が悪化したので、ユダヤ系とはいえ、米国人であるワイデンライヒは、北京原人を米国に持ち出す必要を強く感じたというワケですね…… ではホンモノの北京原人は今どこに? さっきの憲兵中尉の言い方だと、協和医学院にはすでに無いということでしたが。そして『プレジデント・ハリソン』にも無かった」
「あら、得意の推理はどうしたのよ。フフフっ……」
「いやまいったなぁ……」
 航海長は、初めて見せた胡桃の笑顔に見惚れつつ、愛想笑いを返す。
「今現在、北京原人が存在している場所はわかるけれど、そこには行けないわ」
 航海長は前のめりで胡桃の話を聞いている。失われつつある人類のミッシングリンクの行方にロマンを感じて、興味深々であった。
「雪下さん、『栗』でいけるところまで行きましょう。私のほうから艦長に意見具申します」
「他国の領土なのよ。場所は『プレジデント・ハリソン』の動きをおさらいすれば想像つくわよね? それに、そこもさっきあなたが言ったように、もうすぐ大東亜共栄圏になるかもしれないけれど」
「それまでおあずけですか。残念です」
 二人の会話が途切れる。
 航海長は別れの挨拶にと、握手するため手を出した。しかし、胡桃はしばしその手を見つめる。
「すぐに会うことになるでしょうから、握手はそのときにとっておくわ」
 そう言い残すと、一人キャンプ・ホーカムを後にし、遅れて入港した『長崎丸』に乗り込んでいった。


昭和十七年三月十二日 深夜
フィリピン コレヒドール沖 西1海里
日本海軍 駆逐艦『栗』

「三ヵ月半ぶりです」
 少しやつれ気味の航海長の敬礼に、胡桃は笑顔で返した。その唇には笹色の光沢がある小町紅が引かれていて、大人の色気が漂っていた。
 航海長が見惚れつつ言った。
「不思議な色の口紅ですね」
「もらい物よ」
「へー、男性からですか?」
 あまりにも率直な質問だったが、胡桃はニコリともせずに答える。
「おねえちゃんから」
「あ、行方不明の……」
 航海長は、さも悪いことを聞いたかのように気まずく口ごもる。しばらく会話が途絶えたあと、胡桃は明るい口調で言った。
「たった三ヵ月なのに、一年以上もご無沙汰の感じね」
「それだけ、色々とあった、ありすぎました」
「なんだ貴様たち、知らぬうちにずいぶんと仲良くなりおって」
 不審そうに二人を見る寺内艦長に、胡桃は聞いた。
「そんなことより、戦況はどうなのかしら?」
「うむ、マッカーサーは広域戦闘はてんでダメで、マニラはすぐに陥落したのだが、コレヒドールに立てこもってからは我が方も苦戦している。ヤツは総司令官というよりも、連隊長ぐらいがちょうどいいな。話はそれたが、それでも、少しずつ我が軍は前進している。来月には陥落するだろう」
「そう。マッカーサーを逃がさないようにね」
「そのために、『栗』をはじめ南遣艦隊でコレヒドールを海上封鎖しているんだ」
「にしては、駆逐艦が少ないようだけれど?」
「今、太平洋のいたるところで侵攻、海戦、上陸が繰り返されておる。大型艦は役割が決まっているが、何でも屋で小回りが利く駆逐艦は何隻あっても足らんよ……」
「だから支那方面艦隊から『栗』も引っこ抜かれたのね」
「そういうことだ。しかし駆逐艦といっても、770トンの二等駆逐艦だから単装砲三門、いや、一門外して対空用25mm機銃に変えたから今はたったの二門…… 日本海軍が誇る九三式酸素魚雷は装備できず、六年式の通常魚雷。しかも大正九年竣工の老いぼれ船。なのに、最新鋭の特型駆逐艦と同じように扱われるからたまったモノではない……」
 航海長も同調して愚痴った。
「それに、今まで戦闘といったら、沿岸警備ついでに陸に向けて艦砲射撃したぐらいですよ。船に向けて砲撃したことも無ければ、ましてや魚雷なんて発射したこともありません。実は、雪下さんと『プレジデント・ハリソン』を追ったときは駆逐艦『栗』、初の砲撃戦かっ?って内心ドキドキしてましたよ。結局二番主砲は一発も打たず機銃に変えられてしまいました……」
 自虐的に愚痴る艦長と航海長に、胡桃は慰めて言った。
「そういう艦があってもいいじゃないの。主砲よりも25mm機銃のほうが使えるかもしれないから落ち込まない落ち込まない。それにわたしは好きだけど?『栗』。おいしそうな名前だし。天津甘栗よりも、和栗の渋皮煮の方が好きね」
「そそうか? この艦が好きか…… そうかそうか」
 艦長は照れながらもニコニコしている。
「今こそ特型駆逐艦には出来ないことが『栗』には出来るんだって、連合艦隊に示すときじゃない。南遣艦隊の中で『栗』だけが門外漢(『栗』のみ支那派遣艦隊からの応援なのでそう言った)ってことは、受け持ち海域の中で自由に動き回れるということよ?」
 寺内艦長は答える。
「うむ、もちろん、その立場を最大限に利用しようと考えている。他艦の受け持ち区域であっても知ったことか」
「ふふふっ、艦長がそんなコト言っていいのかしら?」
「そんな愚痴ならいつも言っておる。それに……」
 寺内艦長は胡桃をジッと見てから、恥ずかしそうに視線をさけて海にやった。
 航海長がニヤニヤして続けた。
「艦長は、上海で雪下さんが乗り込むことが決まったとき、『ウチの乗員にしたいな』なんて言ってたんですよ」
「くぉらっ! 余計なことを言うなっ、茶でも淹れてこんか」
「私も飲んでよろしいでしょうか?」
「よい、早くゆけ」
「はいっ!」

 この三日間、不眠不休で海上封鎖を続けていたが、艦長に疲れが見えたので艦長室で休んでもらい、今は先任将校である航海長が艦長代理で双眼鏡を眼にあて、胡桃は漆黒の海面を見つめている。
 そんなとき、夜半、『栗』の電信員が艦橋にやってきた。
「航海長、微弱電波を傍受しました。解読不明の暗号です。電波を辿るとコレヒドール方面ではなさそうなのですが、一応報告に」
 胡桃が聞いた。
「どこから?」
「一番感が強いのは、南…… ジャワ、ニューギニア、オーストラリア方面です」
 航海長が言った。
「ジャワ島は我が軍が攻撃中の方面ですね。おおかた敵が救援でも求めているんじゃないでしょうか」
 電信員が航海長に電文を渡す。航海長は意味不明のアルファベットの羅列を一瞥して、そのまま胡桃に見せた。
「これは…… 平文よ」
「これが?」
「これはね、セブアノ語といって、フィリピンの言葉。日本軍には不可解な暗号としか見えないわね」
 航海長が感心したように言う。
「へー、どこで習ったんですか?」
「学校でね」
「今どきの女学校はそういうのも教えるんですね……」
「女学校とは言ってないけれど、まあ、そういうことにしておきましょう。それより、この電文…… Hulaton taka、は『あなたを待つ』という意味よ」
 そのやりとりを聞きつけて、寺内艦長が艦橋に上がってきた。
「どうした?」
 胡桃が電文を渡して意味を説明すると、その真意を察した寺内艦長は声を大きくする。
「『あなたを待つ』だと…… 卑怯なっ、マッカーサーめ、南へ逃げるつもりだな。部下を置き去りにするとは卑劣極まりないっ!」(ちなみに、マッカーサーは部隊を置き去りにしたものの、大統領命令で脱出している)
 航海長も言った。
「逃亡準備が整った、というワケですか。しかし、待つと言ってもどこで…… 電文の発信方面はジャワ、オーストラリア方面とのことでしたが」
 胡桃が例のごとく、言下に答える。
「ミンダナオ島よ。ジャワは遠すぎる」
 航海長は不思議そうに聞いた。
「雪下さん、なんでそれがわかるんです?」
「セブアノ語はコレヒドールはもちろん、マニラでも使わない。フィリピンでも南部で使われる言語なの。きっと日本軍にわからないと考えて選んだのね」
「しかし、一言に南部と言ってもフィリピンは多島国ですから、一概にミンダナオと言えないのでは?」
「フィリピン南部でかつ、米軍の航空基地がある場所。しかも、日本軍の空襲を受けていない、もしくは損害が軽微な」
「航空基地? すでに米軍の航空兵力は壊滅しているはずですが……」
「あのね、マッカーサーの立てこもるコレヒドールに米軍の飛行機が無いのはわたしもわかってるわ。すると船で脱出するしかない。しかし大型艦は発見されるから小型船舶を使うはずよね。でも、それだと航続距離が短く、届く範囲は全て日本軍の勢力範囲。それでも脱出計画は存在し、暗号……というよりこれは符牒ね。符牒が発信される。ならば導き出される答えは? ホラ航海長、推理は得意でしょ?」
「えっ? ええと、コレヒドールを小型艇で出て、それから、まだ無事なフィリピン内の米軍基地…… つまりミンダナオの飛行場で飛行機に乗り換え?」
「その通り。名探偵ぶりが板についてきたじゃないの」
 航海長は得意満面の表情を寺内艦長に向けて言った。
「艦長ぉ南下を、あっ、でも……」
 一度色めきたった瞳だったが、気落ちしたように瞼を伏せ、急速に語気を減じる。
「そこは別の艦の受け持ち区域ですね…… しかも、よりによって旗艦の」
 胡桃が海域図を見ると、『栗』の南は第三南遣艦隊旗艦、軽巡洋艦『球磨』が配置されている。
 そのとき、けたたましい声が伝声管から響いた。
「右舷前方、敵魚雷艇、南に向け航行中!」
 すかさず、寺内艦長が命令する。
「探照灯照射、逃すなっ」
 黒い海に真っ白い波濤を投げかけて、灰色の小型艇が横切ってゆく。そして『栗』に加速する余裕も与えずにまた黒い海のベールに溶けていった。
「南方海域に消えました! ものすごい高速です、四十ノットは出てましたっ」
「ぐっ……」
 『栗』は三六ノットである。今追いすがらなくては、魚雷艇を見失うのは確実だ。呻いたっきり押し黙る寺内艦長に航海長が言った。
「あの速さでは速度差がありますから『球磨』は追いつきません。暗いですから『球磨』搭載の水偵(水上偵察機)も飛べませんし。『栗』の加速力であればもしかすると追いつくかも知れませんが、でもさすがに旗艦の縄張りを素通りするワケには…… ですよね艦長?」
 航海長は、例のごとく胡桃が艦長に決断を迫る発言をしてくれるものと考えていたが、胡桃は黙ったまま、寺内艦長を見つめている。
 男を試す眼差しである。
 寺内艦長の額に冷や汗が一筋流れた。そして、静かに言う。
「『球磨』に連絡しよう…… 第三南遣艦隊旗艦宛に打電、『敵魚雷艇、貴艦の哨戒区域を南下中、速力四十ノット』」
 胡桃も航海長も気落ちして、暗い海に視線を投げる。
 寺内艦長は一呼吸おき、覚悟を決めたように顔を上げた。
「こう続けろ。『われ敵魚雷艇追撃に移る。貴艦の哨戒区域に入ることを許されたし』おい航海長、ナニをしておる。打て」
「それでは艦長が叱責を……」
「叱責が怖くて戦争ができるか。かまわん」
「はいっ! 電信員、緊急電だっ、すぐに打て! それと『球磨』を見たら発光信号で同じ内容を伝えることも忘れるなっ」
「はっ!」
 艦長の命令は続く。
「面舵いっぱい、哨戒海域を出て魚雷艇を追跡する。第五戦速!」
「おもかーじ、いっぱいっ、第五せんそーくヨーソロー」
 艦内を揺らすほど激しい振動を『栗』のエンジンは響かせて、老朽艦とは思えないほど急激に加速する。探照灯を前方に向けると一瞬魚雷艇の航跡が映るが、またすぐに消えた。

『栗』は最大戦速で疾走するが、魚雷艇の尻尾は掴めない。波濤を乗り越えるたび無重力になる艦橋で、胡桃はジッと考えている。寺内艦長も航海長も、いまや胡桃の指示を待っている状況であった。『栗』は単艦、深夜の海をあてども無く南下している。
 胡桃の声が、重苦しい静寂を破った。
「追いつかないわ。先回りしましょう」
「先回りだと? 相手の向かう先もわからないのにどうやって?」
 相手は四十ノットの高速である。寺内艦長が強く聞き返すのも当然である。
「ミンダナオ島の南半分は日本軍が上陸しているからマッカーサーが向かうはずがない。だから、北岸地域に絞りましょう。北岸で空襲を受けていない米軍の飛行場は?」
 フィリピンの地図を海図を上に広げ、三人は覗き込むように見ている。
「ブトゥアン、ガガヤン、オザミス…… といったところか」
「そのどこかに来るでしょうね。でも、ブトゥアンはかなり東ね。魚雷艇で行くには遠すぎるわ。残り2箇所はミンダナオでも中部寄り。艦長さん、操艦の技量に自信ある?」
「無論だ」
 胡桃は航海長に視線を向ける。
「航海長は?」
「当然です。広い太平洋ばかり動き回っていた南遣艦隊には負けませんよ。中国戦線は河川が多いので河川用砲艦と行動することもありますから。浅瀬急流陸寄り大歓迎!」
「ふふっ、それは心強いわ。では、ミンドロ島を東に行って、セブ島とネグロス島の狭い海峡をすり抜けるというのはいかがかしら? 最大戦速で。駆逐艦『栗』の本領でしょう?」
「いやまさしく。しかし追いつけるとしてもギリギリですね」
「もちろんよ。でも秦皇島では、船長に逃げられる寸前に追いついたわ」
 寺内艦長も言った。
「そうだ、『栗』はツイている。運がある。天佑神助がある。行って行けないことはあるまい」
 寺内艦長の精神論に、胡桃は現実的な説明を加える。
「そうね。それに米軍の小型魚雷艇がミンダナオまで四十ノットで走り続けることは出来ない。どこかで速力を落とし、燃費の良い航行をするはずよ」
「うむ、それに比べ『栗』は三六ノットを持続できる。航海長、セブ島にさしかかったら艦首に見張りを立てながら走ろう。いくぞ。前進全速! 取り舵っ」
「とーりかーじヨーソロー」
 駆逐艦『栗』は胡桃たちの希望を乗せて、闇夜に白い宝石を撒いて進んでいった。


昭和十七年三月十三日 朝
フィリピン ミンダナオ島沖 北2海里
日本海軍 駆逐艦『栗』

 昇り始めた陽光を受けた朝靄の、朱色に滲んだ色が海も染めて深く浸透している。それを反射した三人の頬は、一睡もしていないにも関わらず健康的な色だった。
「左舷魚雷艇、二隻っ!」
 見張員の声に、寺内艦長はすぐさま反応、下令する。
「左舷砲戦ヨーイ」
「雪下さん、やった! 追いつきましたよっ!」
 航海長の声に胡桃は双眼鏡を額に当て、魚雷艇の動きを注視する。
(わたしたちを陽動するように、陸側とは逆に航行している……)
「艦長さん、あれはマッカーサーの乗った魚雷艇じゃないわ」
「雪下君、敵の方が速力が出るから放置しては掻き回される。いずれにせよこれを排除せねば先に進めまい」
「わかったわ。思う存分やって頂戴。それに、迎撃があるということはこの方面にマッカーサーがいるという証だから、良い知らせでもあるわ」
 寺内艦長は航海長に視線を移し、ニヤリと笑みを浮かべる。
「航海長、念願の主砲が撃てるぞ」
「はいっ!」
 ハリのある声で返事が返ってくる。
「目標、南西の魚雷艇、一番、二番斉射用意」
「主砲斉射ヨーイ、当日修正、笛頭ぉ右寄せ一、距離、高め二っ!」
「当日修正ヨシ、ヨーイ、テェーっ!」
 ズン、と艦が振動し、砲弾は魚雷艇の船尾に命中、敵は速力を落とした。
「初弾命中っ! よしっ、トドメを」
 航海長は飛び上がらんばかりである。
 胡桃が言った。
「航海長、捨て置きなさい。真の目標はマッカーサーの艇よっ」
「そうでしたっ! 取り舵っ、第五戦速ぅっ! ミンダナオ島に寄せろっ、もっと寄せろぉ!」
『栗』は陸地スレスレに全速力で白波を蹴る。その行く手を妨害するように、もう一隻の魚雷艇が突っ込んできた。
「こいつがマッカーサーかっ」
「違うわっ!」そう、胡桃がすかさず返す。
 そのとき、見張員が叫ぶ。
「左舷雷跡2本、魚雷、向かってきますっ!」
 敵は至近距離で魚雷を撃ってきた。『栗』の右舷は陸地で舵が切れない。艦長が言った。
「魚雷に頭を向けろっ! 取り舵っ!」
 復唱する余裕も無く『栗』は急激に転舵。胡桃と航海長は羅針盤にしがみついて体を支える。魚雷は、左右の舷側スレスレをかすめてゆく。艦首で左右に別れる波の勢いを利用して魚雷の進路をわずかに変化させ、避けることに成功したのだった。全速で航行しているからこそ出来た芸当である。また、寺内艦長の瞬時の判断の賜物でもあった。
 しかし転舵したわずかな合間に、魚雷を撃ちつくしたはずの敵は勇敢にも反航しつつ、『栗』とすれ違いざま、機銃掃射を浴びせてきた。
 伝声管から叫び声が聞こえる。
「一番砲塔、負傷者一名ぇ!」
 胡桃が艦橋から一番砲塔を見ると、軍医が呻く負傷者に包帯を巻いている。遠ざかったかに見えた魚雷艇は踵を返してまた接近してくる。
「早く艦内に入ってっ!」
「おのれっ!」
 いきり立つ艦長を胡桃は抑える。
「艦長、自分を見失わないでっ!」
「わっわかっておるっ! 面舵っ、陸に寄せろっ! マッカーサーはきっと上陸する、見逃すなっ!」
 しかし、速力に勝る敵は『栗』の背後から追いついて、機銃を乱射しながら前を横切る。
「ぶつけろっ!」
「はいっ!」
 とっさに航海長は魚雷艇に向けて舵を切り、『栗』は魚雷艇の船尾に激突、敵は転覆して急速に沈没したが『栗』も艦首を損傷し、速力を落としつつも追撃を続ける。
「空よっ!」
 胡桃が指差す先に、離陸したばかりのB17爆撃機が巨大な機体を見せている。
「くそっ、逃げられたか……」
 呟く艦長に、胡桃は言った。
「まだよ、主砲の代わりに何を装備したんだっけ?」
「そっそうだっ」
 寺内艦長は伝声管に叫ぶ。
「対空戦闘っ! 25mm機銃、撃てっ!」
 二番主砲があった台座に据えられた機銃がダンダンと撃ちだした。
 銃弾はB17の胴体に命中し、破片を飛び散らばせる。ガクリと一瞬機体を傾けたが体勢を取り戻して撃墜には至らない。やがて高度を上げて射程外に飛び去ってゆく。そして小さくなり、やがて消えていった。

※※※

 胡桃は、フィリピンのリンガエン湾に着岸した駆逐艦『栗』のタラップを下り、艦長に続き、航海長と握手を交わしていた。
「ありがとう、艦長、航海長」
 そういって背を向ける胡桃に、航海長が慌てた様子で言った。
「ちょちょっと、行ってしまうんですか? 我々に謎だけを残して」
 航海長は残された謎にも、また胡桃にも、未練たらたらである。それを知りつつ、胡桃はトボけた。
「ナゾ?」
「北京原人ですよっ! 北京原人の化石はマッカーサーとともに豪州経由で米国に行き、ワイデンライヒ博士は研究を続ける…… はずなんですが、そんな情報ありませんよねぇ」
「北京原人、そうね、忘れてたわ……」
 胡桃は、航海長の言葉に苦笑いを返した。
「なぜですか、胡桃さん。ねえ答えてくださいよぉ」
「あははは……」
 胡桃は頭を掻きながら笑うだけだ。
 艦長は興味無いそぶりをしていたが、ついにたまりかねて話に加わってきた。
「あー、雪下君、軍機なのかもしれないが、我々はもう一緒に戦った『戦友』ではないか。絶対に秘密は守るから、教えてくれぬか?」
「25mmが悪いのよ、25mmが……」と言った後、胡桃はしぶしぶ話し始める。
「米国からしてみれば、日本軍から北京原人を奪い返し、研究を続けるということは、負け戦が続く中の明るい話題だし、奪われた日本軍を蔑むのには格好の材料のはず、だわね」
「ですね。蒋介石にとっても良いニュースですよ」
「ということは、米軍は北京原人を入手していない、と考えるのが自然よね。でも、北京の協和医学院(ワイデンライヒ博士の研究所)にも、『プレジデント・ハリソン』(秦皇島~マニラ航路の輸送船)にも、秦皇島のキャンプホーカム(ハリソン号が寄港した米海兵隊の拠点)にも、マニラにもコレヒドール(マッカーサーが立てこもっていたフィリピンの拠点。後に陥落)にも、無い」
 航海長は言った。
「ですから、雪下さんは『栗』に再び乗り込んだ。マッカーサーが持ち去るだろうと推理して……」
「さすが名探偵ね」
「からかわないでくださいよ」
 寺内艦長がじれったそうに言った。
「雪下君、じらさんでくれるか?」
「ごめんなさい。消去法で考えると、やはりあの、B17の機内にあったのは確かだと思うの」
「では、やはり米国に? いやでもなぜ公表せんのだ?」
 胡桃は、ふと、『栗』の25mm機銃に視線を投げる。
「機銃手、いいウデだったわね」
「え? ああ、命中していたからな。惜しくも撃墜できなかったが…… おい、話をそらさんでくれ」
 胡桃からため息一つ。
「B17の胴体からバラバラと何か落ちていたわよねぇ」
「機体の破片だろう。大きな破片だったから撃墜確実だと思ったが」
「もちろん破片もあったでしょうけど、わたし、いやーな予感がしたのよねぇ……」
 そう言いながらも、胡桃はどこか満足げである。
 寺内艦長と航海長は、当初から胡桃がこの件に乗り気でないことを思い出していた。理由は北京原人が『学問の向上に使われず、国威発揚に利用される』である。
「ま、さ、か、あのとき、破片と一緒に海に……」
「雪下さん、そういえば主砲より25mmのほうが使える、って言ってま……」
 航海長は、胡桃の目的を思い返す。姉の行方を捜すことと、もう一つは北京原人を葬り去ることではなかったのか、と考える。しかし、マッカーサーを追う胡桃は明かに全力を尽くしていた。とすると、追いつけない、と最初から解っていたのではないか。胡桃が25mmの方が使える、と口を滑らしたことを考えると、対空戦闘になることまで計算していたのではないか。
 航海長の背筋に、冷たいものが走る。
 すると、航海長の考えを遮るように、胡桃は人差し指を唇にあてた。
 二人は、胡桃にあわせて唇に人差し指を立てる。
 三人は、笑い合う。
 一瞬の沈黙のあと、航海長が感謝の言葉を口にした。
「雪下さん、戦いの中、こんなロマンと謎に満ちた任務につくことが出来て、私たちは幸せだと思います。これも、雪下さんのおかげです」
「わたしも、これが初陣でよかったと思ってるわ」
 寺内艦長は驚いた様子である。
「初陣だったのか? 見事な判断だった」
 胡桃は少し、頬を紅らめた。
 船乗りの顔は急速に少女の顔になり、それは戦場に身を置く艦長と航海長に、優しさの種を植え付ける。そして航海長の背筋の冷たさは、温もりへと変化してゆく。
「もういくわ。二人とも元気で」

『栗』の隣の桟橋には、ちょうど『長崎丸』が入港してきた。

 寺内艦長と航海長は、軍人特有の別れの敬礼も、帽振れもせず、幼馴染を見送るように、ただ、無邪気に胡桃の背中に手を振った。
 気がつくと、『栗』の乗組員が全員甲板に出て、思い思いに胡桃を見送っている。

胡桃は、自分を押し付けていた『戦争』という空気を払いとばすように、大きく手を振り返した。そして、『長崎丸』のタラップを上がりながら、独り言をいった。
「自分が化石になったときのことを思うと、それが政治に利用されるのはまっぴらだわ」
 人が死んで遺体となり、遺骨となる。それが数万年を経て化石となり、至宝と呼ばれる。化石は標本であるから二度と葬られることはない。胡桃はその考えに違和感があった。
 北京原人を葬ったということは、人類の遠き『時代』を葬り去ったことになる。そして、それを利用しようとする政治によって芽生えた民族意識も。それは、この戦争の遠因になったはずである。
 胡桃は、自分達を包む戦争という重苦しい時代を、軽い力で払いのけることが出来たような気がしていた。

「おねえちゃんも、きっと生きている」
 気持ちも明るく、前向きになる。
 胡桃はもう一度、思い出したように振り返ると『栗』の十字マストにも手を振って、艦長、航海長をはじめ乗組員みんなを守ってくれるよう、願いを込めた。


『栗』の汽笛が、優しく、答える。


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