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ものの究極

存在論やら物理やらおまけに宗教学まで動員して「無と有」を論じてきました.それぞれに間違いはないのでしょうが大分混乱しています。

無から有を生み出すという話は、素粒子のようなミクロの世界や、宇宙のようなマクロの世界の話であって、日常生活ではありません。

日常生活レベルで、無から有を考察するのなら、物理というより、宗教学なり哲学の対象なのでしょう。今後はこのあたりの定義付けをはっきりしていこうと思う。

さて今回は物の究極という話です。
 私は物質の極限小化は0ではありえず粒子といえども質量を持っているならばその極限小は終わりないということを以前書きました。

では極限小は何なのでしょうか。それはもはや形ではないといいます。
私は物質は「波動と粒子」の二面性(デュアリティ)を持っていると教えられてきました。

物質をどんどん小さくしていくと次第に形がなくなっていきます。
しかし、決してゼロではないといいます。

そもそもゼロという概念は自然にはないのです。
何らかの形で存在している事だけは確かなのですから無から有を生むことはないのです。その究極が波動としての存在といわれます。

物質が消滅して光(波)になった時、そのエネルギーはアインシュタインが式であらわしていますから何となくそうなのだろうと超素人的にはわかります。

宇宙的「無」とは真空を指します。しかし物質の極限小は何らかのあるものであるとすれば真空とは何なのでしょうか。

一見、そこに何もないように見える「無」は、そこはとてつもなく大きなエネルギーを持った極微の宇宙が生成消滅を繰り返しているといいます。

その「無」から、量子論的効果によって現在の宇宙の初期状態となる時空が発生し現代物理学の描く宇宙誕生の幕開けになったといいます。

本来仏教では物の実在性を否定し関係性を重視しますからこのような物理学的説明も矛盾なく整合します。

原初の宇宙は「無のゆらぎ」状態であったといいます。「無のゆらぎ」とは無と有の状態が両方とも同時に、ある確率をもって存在している状態を指します(仏教の無即有)。

私たちの身近にあるものも、細かく分解して見ていけば、実はすべて確率的に存在しているに過ぎないということが結論です。

このような概念に基づく物理学を、量子論と呼びますが仏教的概念と矛盾しないのがインド人は偉いというか釈迦は偉かったといえるのでしょう。

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