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小泉八雲の生涯ー11

焼津時代3

前段ー  神様、仏様、乙吉様

焼津に関係する作品の紹介と解説をする前に全般的な八雲の人柄、下宿の主人山口乙吉との交流、長男一雄の父を想う記事等の紹介を前段として最終章の話を進めていきたい。

 焼津は私の生れ故郷である。古くは駿河と呼ばれ大井川の扇状地にありその中心が当時の焼津村であった。明治時代東海道線が開通するまでは辺鄙な漁村に過ぎなかった。私の少年時代までは城の腰と呼ばれた海岸通りに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の滞在した山口乙吉宅があったが近年犬山の明治村に移築されてしまった。

焼津も第二次大戦後、内港外港が整備され鰹鮪の水揚げでは日本有数の水産都市へと変貌した。私の生家は焼津市との合併前の旧小川村にあり八雲の書いた漂流の舞台となる地蔵尊のある村で奈良時代日本最初の駅制が敷かれた官道東海古道の一駅でもある。大井川畔島田初倉駅から東へ一駅で、ここから焼津村を抜け日本坂の要衝、駿河安部の市そして府中へ抜ける。万葉集にも歌われた歌数編を残し小泉八雲が好む日本武尊の伝説の地である。


 ここでは先ず、八雲の長男一雄氏の書いた父『八雲を憶う 海へ(焼津八雲顕彰会編)』を参考にして話をすすめてみたい。この中で八雲が示す日常生活はどのような意味を持つのだろうか。

人間の思考によりもたらされる生活や文化や科学技術は大自然の内より生成されたもの。換言すればこの全ての世界は大自然が顕現したものである。幸福も不幸も戦争も平和もそこにある世界と一体となって生成流転していくのが人間生活の本質です。

仏教ではこれを縁起といいます。縁起し新たな因縁生の繰り返す無常の現世で幸福を追求するということは正しい生活意味を把握実現しつつ生きるということに他ならない。

八雲が日常生活の中で示した幾つかのエピソードはそのことを意味しているのです。

明治30年の夏、八雲は家族を連れ始めて焼津を訪れた。水泳の得意な彼は波静かな海を好まず、海も深く波も荒いこの焼津の海が大層気に入り滞在することになった。焼津での下宿先は御休町・・日本武尊が祭神の焼津神社夏の祭礼時神輿市内巡行のさい神様がお休みする場所が数箇所あり私たちはこの場所を御休みと呼んだ。・・の魚屋山口乙吉宅2階であった。

一雄は父八雲が「土地の赤銅色の子供達を決して侮辱してはならぬ。もし焼津の子等と喧嘩するような事があれば、それは必ずお前の方が悪いのだ。お前の心に邪な点があるからだ。焼津の子供はあるいは粗野かも知れぬが皆正直だ。決して嘘つきや意地悪は居ないのだから、彼等には常に温情をもって臨め」と厳しくいわれたことを述懐する。

また寒村で暮らす当時の日本人と同様に教育も満足に受けなかったであろう魚屋の亭主山口乙吉を次のように語っている。

「彼を貞実な男、善良仁と常に褒め貴賎貧富老若男女の別なく誰にでも正直と誠意を以ってヘヘーイ!と接してゆく一本調子のまるで好々爺のような乙吉さんをあの人間嫌いの父はおそらく終生棄てられぬ唯一人の人であったと信じます。」

「あんなに敏感でデリケートな神経の父が蝿と蚤と蚊の多い、魚の臓腑と干物の臭気が充満している中に漬け浸されているあの南北の風通を閉じた東西に烈日を受ける天井の低い2階の部屋を不平一つ云わずに月余をかりて愉快がって居たのは、焼津の海が気に入ったからのみじゃないのです。勿論ここには自分一行の他、東京や横浜の人が居ないからでもあるし、煩わしい訪客が殆ど無いからでもありましょうがこれ等もその原因の主たるものでは決してないのです。山口乙吉さんの人物に甚だしく心を惹かれたからです。父は乙吉さんを、乙吉様 オトキチ サーマと呼び、乙吉さんは父を先生様と呼んでいました。子供心にも余りに極端な賛辞だと思ったのは、音吉様、神様の様な仁です。と云う一語でした。」


八雲は山口乙吉という表象の奥の奥で働く神性を直覚した。このような直感の人、八雲もまた神の人と呼ばれなければならない。
私事であるが昔「自宅の天井で騒がしく動き回るネズミの音に悩まされたことがあった。そのうちにあちらの建具、こちらの木材とかじり始めたねずみに堪忍袋の緒が切れて、かのねずみを捕まえて殺すことばかり考えていた。ねずみ捕りを天井に仕掛けたが掴まらずついに毒入りの餌を天井の通り道へ置いてから一切の物音がしなくなったが死骸も発見出来なかった。餌を食べた為異常に気づき外へ出て死んだのか危険を察知し遁走したのか判らぬが畳を横切る姿を一度目撃したのは子ねずみであった。」

その私の体験に似たエピソードを一雄も紹介している・・・一雄が父から英習字をさせられていた時、暗い廊下伝いに部屋の中までチョロチョロと一匹の子ねずみが出てきました。「パパねずみが出ました」と知らせますと父も眼鏡を急いで取り出し是をみて「静かにゝ恐れるやるないょき。」と云いました。

しかしこの時既に彼は逃げてし舞いました。ここ迄来る様では彼は空腹に違わない。それに東京から来たパンや菓子の香りが彼をこの部屋まで知らず知らずの内に惹き寄せたのであろう。「よろしい、あのプアー、ハングリー、マウスに少し進物をしましょう」と申して、包みの中からウエーファースを取り出しそれを部屋と廊下の境の敷居際へ置き、しばらくして出てくるだろうと待っていました。案の定、5分の後出てきました。そしてウエーファースくわえるやいなやチョロチョロと戸袋の陰へ運び去りました。

彼は又出てきました。今度は私が敷居より中へ 畳の上へ 投げ置いたウエーファースをくわえて再び戸袋の陰へ持って行きました。是が始まりでこの子ねずみはだんだん私等に馴れてきました。

そして毎日出てきました。しかもその時刻も一定していました。午後4時から5時へかけて必ず出てきました。父は泳ぎに行っていても、さあもうそろヾあの小さいお友達が訪ねて来る頃だから一先ず帰ってご馳走してやろうと申しました。後には部屋の中へ何の恐れも無く這入ってきて私等の肘近く投げ与える食べ物を、持ち去りもせずその場で小さな両手にカリヾと微かな歯音を立てつつ食べるようになりました。


 ある日父は子ねずみがトーストの破片を自分の膝から一尺とも離れぬところで食べている様をじっと独眼鏡を目に当ててみていましたが、しばらくして「オー、プーア、クリーチュア 一雄、ルックアップ アット ヒム。パパのような盲目 ブラインド でした。」と叫びました。

成る程、よく見ると、彼の片方の目は硯の海から今筆先を掬い上げた山椒の実の如く黒くつやヾと光っていましたが、他の一方は日陰にいじけて生った白難天の様に白く小さくどんより曇った眼の球でした。

子ねずみが自分と同じ不具者であった事を計らずも発見した父は更に不憫さを増したらしく、その翌日は今までよりはもっと彼を喜ばしてやろうとしてか彼の好物と思いし食べ物を沢山に準備して待ち受けていました。

しかし4時、5時、6時過ぎても7時、8時、灯火が点いても晩になっても出て来ませんでした。遂に彼はその翌日も又次の翌日も出て来ませんでした。何時も出てくる道に随分種ヾのご馳走を置いてやりましたのに一つも減りませんでした。

可愛そうに、猫かいたちか梟か蛇に捕らえられたのだろう。多くの敵を持つ身の上だもの。それとも捕鼠器にかかって非業の最期を遂げたのだろう。あれは少しも悪いことをせぬねずみだったのに、と申し父は切に悲哀を感ずるものの如くでありました。
この子ねずみ対する気持ちは私と大変な差がある。

単純に良いとか悪いとかの問題ではないが八雲が惹かれた仏教思想の根本は「智慧と慈悲」である。いかに頭で理解してもその価値生活即ち慈悲の実践が伴もなわなければ八雲が自ら言うように「 カルマをする、行為をすればそれが直ちに消えるのではなくて、その印象が残されていく。 それが業となって蓄積されていくわけです。他の命への慈しみが無ければ悪い業の積み重なりにより印象という霊魂が悪しき輪廻を繰り返すということなのであろうか。

見えるものは見えないものの表れとしたら、見える底の底を見据え神道の心、大乗仏教の空性といってもいい境涯に触れていたからこそ、八雲はアイルランドが多く排出した偉大な詩人、作家と同質の才能でライフワークというべき霊感の世界を描き切ったのだろう。

市井の一庶民の山口乙吉の誠実さを神と思い、小動物や弱きものに対する慈愛の深さは、まるで求道者の趣である。少しエキセントリックな精神で人間関係の構築が苦手ではあったが、生きとし生きるものに優しき心を持った八雲は1904年9月26日 狭心症のため逝去した。享年54歳雑司が谷の墓地に葬られ法名は正覚院殿浄華八雲居士である。

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