逆対応(追加訂正版)
逆対応
逆対応とは、哲学者西田幾多郎の哲学用語である。この言葉の世界に入っていくには絶対と相対の意味を理解しなければならない。
絶対と相対は、相互に対応しあっている関係をいうのだ。
絶対というのは「対を絶したもの」であるから、相い対するものはないということになる。
絶対が相対に対するとなれば、それ自身 一つの相対に堕してしまう。
しかし、何ものにも対することのないものは無であり、何ものでも ないならそれは絶対は対を絶したものであると同時に何かに対するものでなければならないことになる。
この意味で絶対は自己矛盾的存在である。
いわゆる弁証法は「第三の方法を予測する方法」であるから絶対という解がないのでどこまでも相対的と言わざるを得ないのだろうか。
ではわれわれは絶対をどう考えたらよいであろうか.どう考えたらこのアポリア(難問)は解決されるだろう か。
神を単に宗教超越的な存在として位置付けることを肯なうことをしなかった西田にとっては、神はまず、理性的な存在としてこの世界に内在するものでなければならなかった。
しかも神は、この世界から超越しているという存在性格をも持たなければならないとした。内在と超越、この二つの相反するものを、どうやって調和させるのか。
「逆対応」とは、このアポリアに応えるために、西田が持ち出した概念なのである。西田の本意はこの内在と超越の一致こそが自己の真の救いとなるからである。
絶対とは、「ものごとが絶対であるさま」という意味の言葉で、「相対」の反対語。他のなにものにも制限や拘束されず、それ単体で存在し、働くさまを言います。「絶対」とは、「他との比較対立を超えていること」も意味しています。
私たちの自己が永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、即ち絶対者に対する時であろう。
絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知るのである。我々の自己の底には何処までも自己を越えたものがある、しかもそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処(在りかた、在り様)に迷うのだ。
自己の永遠の死を知ることは、自己存在の根本的理由を知る事に他ならない。そこが自己の迷いの根源いわゆる救済の場となるからである。
そのことについて細部に立ち入ってみよう。
先に述べた相対はそれ自身を否定することによってはじめて絶対に対することができる。
相対が自己自身を否定するとは、絶対となることである。
だとすれば絶対も相対も,ともに自己自身を否定することによってはじめて相 い対することができる. 対極の位置にある絶対と相対は相互の自己否定をとおして対面していることになる.そして絶対と相対 のこのような相互否定的な対応関係を西田は「逆対応」と呼んだ。
宗教的信仰において,神と人間,仏 と衆生が相対するのはこのような逆対応によるのである。神の働きと人間の働きとの間の逆対応的関係がみとめられるからである。
仏と衆生は絶対に隔絶しているとともに,寸 毫(ほんの少し)も隔絶していない。
逆方向にあるものが相互に自己否定的に対応し合っている。神は神であり、仏は仏として仏と衆生との間に見 られるこうした即非的関係は、「逆対応」という言葉がうってつけだと西田は考えたので ある。
(神仏は人の対極、あれこれと観念化すれば、それは絶対的存在ではなくなり神は神でなくなる。すべからずそれが神である。Aは非Aであるが故にAである。そんな関係が即非的関係です。)
ちなみに禅仏教では啐啄同時ということをいう.啐とは雛が内側から殻をつつくことで啄とは母鶏が 外側から殻をつつくことである。
この内側からの雛の働きと外側からの母鶏の働きが対応して無事雛が誕生する例えを言うが、通常は師家(老師)と弟子(修行者)との働きが呼応しあっていることの譬えとして用い る。
これもまた逆対応の一つであると言えよう。
矛盾の弁証法と絶対矛盾的自己同一ということ
「弁証法」を「対立するAとB双方を離れ第三の道を予測する」とすれば正しい説明となるのであろうか。
納得できない出来ことを克服してさらに一段上のレベルに到達する思考を目指すとき、これによって一見相容れない二つの対立する問題をどちらも切り捨てることなく、よりよい解決法を見出出そうとするのがいわば第三の道を想像する、これが弁証法です。
正 ー 反 ー合
これはドイツ語でよく聞かれる
テーゼ --- アンチテーゼ --- ジンテーゼ
これを「止揚(しよう)といいます。
矛盾する事柄、あるいは問題点が存在するような場合に(アンチテーゼ)、これを取り込んで、矛盾や問題を克服し、より完璧な発展解決法(ジンテーゼ)を生み出す方法ですが、何か同じことが繰り返しすのみで真の解決といえるのかと疑問を持ったのは私だけではないだろう。
「物事に矛盾は当たり前、正もあればあれば、必ず負の側面もあります。と、言っても、矛盾的でも物事はきちんと存在しています。
「存在」「ある」というそのこと自体は、目の前に現前しているのですから疑いのないことです。
あらゆる物事はこのあることを繰り返しによって発展していきます。
しかし、どう見ても納得できないもの、もめ事も「物事」としてあるものす。
妥協や折衷案とは異なる発展的解消が弁証法なのだというのですが、常に相対的な解決法と感じられてなりません。
世の中「盾と鉾」という存在に満ちているから「絶対矛盾的自己同一」とか訳のわからないことを言わざるを得ない。「私という存在は矛盾で、永遠の生を願いながらやがて死なねばならないと悩みは尽きない。
ここに語られている「訳のわからないことを言わざるを得ない」というヘーゲルの弁証法にも影響されてとも言われるこの言葉ですが、西田によれば、絶対矛盾的自己同一、真の実体とは、「主語となって述語とはならないものである」「それ自身によって有り、それ自身によって働く」ものと規定された。
他に基づいてあり、他によって動かされるものは真の実在ではなく、また他のものをもって初めて理解され、他のものの述語たるにすぎないものは真の実在とはいえないのだ。
私たちは事の世界、事実の世界を毎日経験している。
私が今体験する、そよぐ風が花を散らしている。その体験する一つ一つが一瞬の今の事実であり一度的であり、唯一的である。
しかもそれらの事実が無数に組みあって一つの事実の世界を構成している。ここに矛盾的自己同一の世界が成立している。何故ならば、一々の事実なるものは一つの世界の中のことであり、一であるからである。つまり多にして一(いち)、一(いち)にして多であるからである。これが矛盾的自己同一である。
すべての人々が互いに我と汝である。互いに独立しながらも、互いの間に絶対の飛躍があり、断絶があり、非連続がある。
しかし、我と汝と言う時、そこには互いの理解があり、連続がある。全き一は一ではなく、多の中での一であり、逆に全き多なるものはなく、集って一なるが故に多であり得るのである。
一元一体の明滅の連続、一刹那の連続、裸電球の明滅のようにある存在、見るものの中には既にそれがあり、見られる側にもそれがある。
弁証法では、そこがどうしても語れない。語る世界を超えているのです。
ヘーゲルのような「過程的に考へられた」弁証法で はなくて,「絶対の否定が即肯定である真の弁証法」を考えていたのが西田幾多郎の立場であったのです。これが「場所的論理」としての絶対弁証法と呼ばれるものだ。
「絶対矛盾的自己同一の弁証法」の根本思想は,「死するこ とによつて生きる」ということである。「我々が自己自身の中に絶対の他を 見るといふ時,それは深められ広められた自覚を意味するものではなくして, 自己自身を否定する意味を有つていなければならい。我々は自己自身を否定す ることによつて肯定するのである。死することによつて生きるのである。
まとめ
神戸大学の紀要論文にこんな記述があった。
アインシュタインの等価式、E=MC2、この左辺は絶対無。右辺のエネルギーは形がなく分割することができない。このエネルギーが展開することにより私たちが認識するこの現象界が生まれれる。
現象界とは物質世界である。つまり、エネルギーの展開により物質が生成される。換言すれば絶対無が展開することでこの相対世界が生まれるのだ。
よって現象界は絶対無の現れに他ならず、空と色のように絶対無と現象界は表裏一体の関係なのだ。
西田はこの関係性を絶体否定即絶対肯定、もしくは、絶対矛盾的自己同一と表現したのだ。
ここで何故絶対という言葉を使用したかであるが、絶対無が係ることでその強調として絶対という形容詞を付け加えたのだ。
絶対無が相対世界の現れとして発現した瞬間,絶対無の特徴はなくなる。
即ち絶対無は、無限であるが多ではなく一の世界、即ち無差別の世界である。
一方私たちが住む現象界は有限で差別の世界である。
無限が無限、無差別として表れたのでなく、無限が有限、(一(いち)でなく多として顕在化しているのだ
無限とか一が否定されたという側面を取り上げて絶対否定と表現されているのだ。
西田のいう世界は、ヘーゲルの説く世界と異なり何か特殊化した個(人)や物の世界ではなく自由で独立した個や物が互いの関係性を持ちながら自由に存在している世界なのだ。
一は他に他ならず、多は一に他ならない融通無碍な華厳世界なのだ。
絶対の無が媒介し多くの個物が関係しあいながら互いの独立性と自由が保障されたのが仏教でいう華厳世界なのだ。
ここでは、絶対という語句の意味合いや定義づけをしながら絶対無の否定とか、絶対無と相対世界の矛盾を取り上げてきた。要は絶対とは、これらの否定や矛盾に他ならないからである。
終り
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