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大山捨松ーその三

明治15(1882)年

卒業日は7月29日(一部Webの記事参考)
 卒業生の3番目の優秀な成績で卒業した捨松。
magna cum laude (偉大な名誉)」 の称号を得ている。
 
彼女の素晴しさは大学で収めた一般的学業を自身の知識に応用できる力であった。所謂実行力が素晴しいことであった。
卒業生総代の1人として講演した「英国の日本への外交政策」は、現地新聞に報じられるほどだった。
 見事な刺繍を施された着物姿にもかかわらず、毅然とした確固たる演説に途中での拍手で中断を余儀なくされ、講演が終わると、しばらくの間、拍手が鳴りやまなかった。
 その概要は、日本人の精神的支柱ともいえる武士道精神に基づくものであった。
以前アメリカで会津戦争の体験を雑誌に掲載したことあったが、どんな理屈をこねた言い分でもそこに大義がなければならないとした。
卒業時の講演もまた、日本人の無知に付け込んだ幕末の不平等条約の不当性を主張したものだった。

その条約の不当性を上げれば次の二点である。
先ずは「関税自主権」を行使できないことだ。
これにより開国後日本は極度のインフレに見舞われ、金銀が海外に多量に流失したことで経済が疲弊し戊辰戦争の切っ掛けともなった。次は「治外法権)である。

ある国の人や企業が犯罪を犯かした際、日本の裁判を免れるのだ。それにより重大な犯罪が軽微な処罰ですんだり、見過ごされたりする場合が多々あった。まるで独立国としてみなされていないのが現状であった。
捨松は、幼くしてアメリカに留学した目的を、知識を得て真の日本国独立のために戦うためであると主張した。

捨松の英語力の素晴しさと相まって卒業総代講演は多くの聴衆を感動させ大評判になった。
 米国の大学を卒業し学士号を授与された初の日本人女性のみならず、アジアの中でも初の女性となった。
派遣先の役所北海道開拓使も廃止され前年に帰国命令が出たが、延長を申請してコネチカット看護婦養成学校に短期入学、ニューヘブンの市民病院で看護学の勉強を始め、甲種(上級)看護婦の資格を取得した。
 日本人では初めての取得であり、後の社会福祉活動の基となる。

 戊辰の役に8歳で参加した捨松はその時、地獄を見た。
会津戦争は近代戦の恐ろしさをを非戦闘員・市民が日本で初めて体験した戦争だ。砲弾の直撃に肉片が飛び散る中、組織的な看護集団もいない、ただただ多くの負傷者を見守るだけという惨禍のなか、尊敬する兄嫁も目の前で爆死している。
 捨松はその体験と、前年に米国赤十字社の設立を聞いて日本に帰ったなら教職に立ちたいという願いと看護学の普及を誓ったのだ。

明治15年11月21日
 11年ぶりに、津田梅子とともに帰国。
 横浜港には、結婚のため1年早く帰国していた永井繁子が鉄製大桟橋に出迎えている。
 日本の女子教育に貢献し、赤十字社の設立などの実現に燃えていた捨松である。
 母/えんや兄/浩は暖かく迎えてくれたものの、すでに北海道開拓使は廃止されており、大学の教職を希望するが、文部省は拒絶する。
 今も国際的に遅れる日本女性の地位向上を理解できる知識や制度など、文部省は当時も持ち合わせていなかったのである。
 捨松の見た日本は、米国に比較して物質的だけでなく、全てがあまりにも貧しかった。夢を砕かれ、失望以外のなにものでもなかったのである。

 日本語を忘れないようにと、永井繁子に会う際は日本語を使ったり、母との手紙を続けていたが、帰国してみると、日本語での会話が満足に出来なかった。
 半年も経つと、何とか日常会話はできるようになったが、漢字の読み書きは、最後まで苦手だったという。
 人格が形成される11年の時期を過ごし、考え方や行動などはすべてが米国方式になっていた。
 そのような捨松を見て、人々は 「メリケン娘」 と陰口を叩いた。

 捨松は、23歳になっていた。
 夢への実現の糸口すら見つからず、あきらめて結婚を考えるようになった。
 10代で結婚が当たり前の当時、適齢期は過ぎていた。
 母からも縁談は来ないだろうといわれたが、いくつかはあった。
 しかし、英語学者の神田乃武など数少ない縁談は、すべて断ってしまう。

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