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乙吉の達磨

日本の近代化に貢献した明治期の鉄道新設。明治21年には新橋の路線の最終は国府津止まりだったのが、翌年には静岡へ、そして4年後の明治26年には神戸まで伸びており、日本人の生活にとって欠かせない交通手段の一つとなっていた。

そんな時代、作家で東大の英文学講師であったアイルランドの帰化人作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は汽車を乗り継ぎながら静岡市周辺の海岸を訪れていた。水泳の得意な彼は故郷の海岸に似た荒磯の海岸を探していたからである。
その折静岡市の西隣、焼津の海岸風景に魅了され死ぬまで合計6回焼津を訪れている。

八雲が家族を連れて焼津を初めて訪れたのは1897年の8月でした。夏休みを過ごすための海辺のまちでの滞在先を探していたが、地元の魚商人・山口乙吉の家の2階を借りて一夏を過ごすこととなった。
その後、2年後の1899年から1902年まで毎年焼津を訪れました。また、亡くなる年の1904年にも焼津を訪れています。

焼津を大変気に入った八雲は、乙吉に別荘を建てるための候補地を探して欲しいという依頼を残して帰京します。ですが、それから1か月も経たない内に心臓発作で急死しました。
そんな焼津に滞在中小泉八雲は彼の晩年の傑作と言われる随筆のいくつかを書き残している。

私は焼津に生まれ育ったゆえに彼の作品には子供時代から馴染んできた。その中の「乙吉の達磨」は気に入った作品の一っであったのでこのNoteでも取り上げたことがあったが再度取り上げてみた。

明治の文豪小泉八雲は長男一雄と書生を連れ焼津村当目の鰻専門の小料理屋を良く利用した。


焼津港から富士山

その小料理屋は、南アルプスの伏流水を集めた瀬戸川というこの地方では比較的大きな川が駿河湾に注ぐ河口にあった。
この水辺の風景と川魚を愛したのは、日本で最初に過ごした松江の宍道湖への郷愁があったのだろうか。

私の故郷でもある焼津の当目地区には、フォッサマグナの南限にもあたる虚空蔵山と呼ばれる120m余の低山ながら少しユニークな山がある。その裾を、南アルプス前衛の山々の水を集めた瀬戸川が駿河湾に流れこんでいるのだ。

虚空蔵山が駿河湾に没する崖の表面には、枕状溶岩の痕跡が見られ、この山が海底のプレートのせめぎあいから隆起したことを明らかにしている。
山頂には、聖徳太子が刻んだともいわれる虚空蔵菩薩を安置した堂が鎮座し、牛寅生まれの守り本尊として、日本三大虚空蔵菩薩の一つともいわれる特別な信仰の対象となっている。

毎年2月23日の縁日には、後に乙吉だるまと呼ばれるようになっただるま市も開かれ、大変な賑わいである。
過去には沿道の各家には見ず知らずの人までも入り込み、もてなしの料理のお相伴にあずかる光景が繰り返された。

この縁日を境に、日一日と暖かさを増す焼津であった。ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1890年(明治23年)の4月に来日した。文部省で外国人教師を各地に派遣することを担当していた服部一三の斡旋で、松江県立松江中学校の英語教師として赴任した。

松江は湿度が高く天気も悪いが常にしっとりしていて、生活音ともいうべき足音や物売りの声などのリズムがとても新鮮に感じられる場所であった。

八雲は、古い歴史を持ち神々の国とも呼ばれる松江地方に祖国アイルランドケルトとの風習の類似点見つけ深く郷愁を感じるようになっていた。

その後日本人の妻と結婚し小泉姓を名乗るが様々な経緯の後、東京帝大の英文学の講師に招聘され東京へ家族と共に移り住む事になった。

そんな生活が始まった明治30年の夏、偶然にも訪れた焼津の海の光景に惹かれ、土地で魚屋を営む山口乙吉宅二階に一夏の避暑を決めたのだった。

八雲の作品の多くが再話文学と呼ばれ、日本に古くから伝わる霊的な話を英文で構成し直したものを文学のレベルまで引き上げたもので、自分の出自である英米の出版社から出版され評判を呼んだ。
代表作「怪談」等は日本語に再翻訳され国内でも多くの読者を得た。

執筆には日本人妻の助けを借りながら「霊的感性を持たない人はだめだ。人の精神に触れるには、それを感じるゴーストが、その人自身の中に存在していなければならない」と口癖のように言い、また、日本人は自然に合わせて生きていく、そんな感覚を大事にする人々と思っていた。
それが日本の霊的な精神世界を描きたいという意欲を刺激したのだろう。
その事自体、彼の精神的バックボーンというべき故郷のアイルランドケルトのアミニズムに重ねたのだろう。

特に焼津は、日本武尊伝説のある霊的な古い生活風習が数多く残り、神々の故郷松江に似た空気があった。
何よりも静岡市との境界に続く日本列島の構造線(フォッサマグナ)を作る断崖は、波が叩きつけ白い飛沫をあげているアイルランド的原風景を併せ持つ場所であった。

故郷に似たという特別な場所の印象のある焼津の海は、近代化への残滓を引きずるような明治という時代の恐ろしいものや霊的なものを八雲に感じさせた。
その中から何か普遍的なものを探り出し、書き残すことが晩年を焼津で過ごす自身の責務であり目的となっていったようだ。

冒頭の小料理屋に話を戻してみれば、この家の主人は、魚屋の亭主乙吉の懇意にしている者であった。
乙吉の案内で最初訪れてからは、船を使い何度か尋ねる様になっていた。
この場所が松江に似た水辺の風景で富士山が駿河湾を見下すように空中に浮ぶ様が特に気に入ったことと、この小料理屋に目鼻立ちの整った可愛い男の子と一緒に下宿をしていた若夫婦がいたからである。

当時日本とロシアは戦争に突入しようとしていた。
ヨーロッパ出身の八雲は、強大な軍事力を持つ狡猾なロシアの怖さを十分知っていた。
もし日本が負ければ、敵国イギリス(アイルランド)出身の自分と家族は、酷い仕打ちを受けるにちがいないと心配していた。
戦争になれば当時世界最強の艦隊、ロシアのバルチック艦隊が極東に回頭されるだろう。
これを日本近海で迎え撃つための作戦立案に新型無線機の開発が日本国家の急務であった。ロシアは当時雑音ばかりが目立つ無線機の開発をあきらめ旗艦から全艦隊への指令は昔ながらの手旗信号に頼っていたために一糸乱れぬ艦隊運動とはいかなかった。

その実用試験が虚空蔵山の山頂と神奈川県三崎間で行われていた。焼津での交信担当が小料理屋で下宿していた前記の子連の若い夫婦であった。
その開発は開戦に間に合い、南シナ海、東シナ海を進むロシア艦隊の行動は逐一日本の哨戒艦に捕捉され帝国海軍の作戦本部に即、打電された。
その迅速な情報収集が、かの有名な敵前回頭作戦を呼び、世界史に残る勝利となり日本を亡国の危機から救ったのは説明を待たない。
またこの虚空蔵山は日本無線発祥の地としての名誉を担うことになり今も山頂に記念のモニュメントを残す。

八雲は重要任務に就く若い夫婦のため少しでも役立ちたいと思っていた。
虚空蔵山の山頂に建てられたアンテナから百五十キロ先の三崎との交信実験のため毎朝子供を小料理屋に残し山頂に出かける夫婦。
その間、一人で残る子供が可哀そうと父八雲に言いつけられた長男一雄は、幼子と遊んだり面倒を見させられた。
一雄は『父八雲を憶う』本の中で少し不満げにその様子を書き残している。

この実用試験こそ、世界の海戦史に残る日本海海戦へ向けて開発を急いだ三六式無線機の実用試験であった。

日本の完膚無き大勝利にはこの新型無線機の実用化が大いに貢献した。この事実は明治期国家の近代化に向かうには何よりも欧米先進国的な合理主義が大事だったかを後世の日本人へ知らしめた。その点は、作家司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。

敵艦隊の位置を逐一捕捉し迎え撃った日本の連合艦隊の対馬沖で万全の迎撃態勢が、日本海海戦の勝利のキーワードとなったが、以降この戦いの勝利に慢心し「神風」的な精神主義がが日本の軍隊に蔓延し始めたのは太平洋戦争の悲劇を見ればわかる。

偶然にも歴史的当所に居合わせた八雲親子がこの様な形で日露戦争史に関わっていたのも興味を湧かせるが、当時、焼津のような辺鄙な場所で大海戦の帰趨を決めかねない重要な無線機の実用試験を若い夫婦だけで行っていたのも驚きである。(無線機開発は帝国海軍の最優先課題として行われた)

虚空蔵山にアンテナが設営されたのは明治36年、日本海海戦まで2年近くその間官民合同で必死の開発に明け暮れたのだ。
焼津では交信距離の決め手となるアンテナのアースで苦労した記録が残されている。
八雲親子がその子連れの家族と会ったのは、たぶん明治37年ではないか。家族で焼津に滞在し、その任に当たったのが、委託を受けた無線機の開発メーカー日本無線の社員であったのだろう。

このようなエピソードを残しつつ幾度かの夏を焼津で過ごした八雲と山口乙吉の間には、家主と下宿人という関係を越えた微妙な人間関係が生まれていた。
人間嫌いの八雲は、これといった親密な友はいなかった。しかし、乙吉だけは「貞実な男。善良仁(よきじん)です。」と常に褒めていた。

水産物製造業の私の実家がそうであったように、風通しの悪い東西に長い当時の焼津の二階家は夏の朝夕には、ひどく陽がさした。
朝夕の凪の時にいたたまれないような暑さになるときもあり、特に二階の座敷はエアコンのない当時は東京からの八雲一家には大変であったであろう。
おまけに魚臭い蚤のたかった座敷で月余を送ったのは、ただ焼津の海が気に入ったばかりではなかった。名もない焼津村の一庶民であった山口乙吉に心惹かれたからである。

八雲が彼を『乙吉様(おときちさーま)と呼び、雲の上の人である帝大の英文学講師、八雲を「先生様」と尊称した乙吉。
魚屋と帝大の先生という雲泥の身分関係であった当時において、このような交友は考えられないことであった。

焼津では盆の最終日の夜、精霊送りが行われた。新仏のある家は、慣れぬ冥界への帰り道を霊が間違えないよう家族の内泳ぎ達者な者が沖合まで送り、それ以外の者は、海に入ってはならないとされた。
あの世へ霊魂の道連れにされるという伝説があり危険視された。私の父親の時は、やはり泳ぎ達者な長兄が父親の乗った精霊船を沖へ送った。

死者との別れの悲しみに満ちた夜の海は、数百の精霊船の頼りげないろうそくの火と夜光虫の光が暗闇の中で混じり揺らぎ合いしていた。
土地の者が精郎様という霊気が海上に満ち溢れているようだった。
八雲は当日、夕方から寝入ってしまい、気が付いた時、精霊送りは終わっていた。慌てて人気のない沖へ流れていく数百の精霊船の後を追って海に入った。

急に居なくなった八雲を気遣い海岸に来ていた乙吉は、暗い海岸に戻って来た八雲に向かい、「今夜の海は精霊様で充満(いっぱい)だにのう。こんな晩になんぼ、泳ぎが達者でも泳ぐもので無あです(にゃーです)。
河童だって水中に引き込まれ死ぬことがあるに」と真剣に八雲を叱りつけた。

まるで、三つ子を叱るように死者の霊魂に満ちた夜の海の怖さを説いた。
またそれを素直に聞き入れる両者の間には、スプリチュアル(霊的)なものを信じ合い、社会的地位など無関係な真に平等な友情があったからであろう。

小泉八雲のアイデンティティの根幹は、ケルト民族の文化であり、宗教である。
その帰属意識の根強さは、現在も続くケルトのアイルランド、スコットランド対非ケルトのイングランドとの抗争を見れば理解できる。

ケルトは森の民であり、自然を崇拝する。万象の中に妖精、精霊を認め輪廻転生を信じるのだ。
その意味で日本の神道とも近い地域文化の中から発生したのがアイルランドの土着信仰であるドルイド教だ。
一方、日本に根強く残る仏教は、万象を貫くものとして個性なき縁起を説く宗教である。
絶対不変の個人我を説くキリスト教嫌いの八雲にとって、仏教的な文化、風習、概念は、親近感があった。


ここからは、本題である小泉八雲の随筆『乙吉だるま』に関した話である。

私がこの話を好むのは、だるま像を介して八雲と乙吉のほのぼのとした人間関係が垣間見られるからである。

―私が店先から奥を見渡した時神々を祀まつる棚が見えた。そしてそのカミダナの下に目にとまったのが、それより小さい棚と、その上にのせた赤いだるまであった。

だるまが家の神様として祀られているのを見ても、私は別に驚きはしなかった。日本の各地で、天然痘にかかった子供のために、だるまに願をかけることを知っていたからである。私がむしろ驚いたのは、乙吉のだるまが片目であるという、その変った様子であった。

大きなこわい目が一つ、大きなフクロウの目のように、店の暗がりの中をギロッと睨んでいるように思われた。それは右の目で、つやのある紙でできていた。左目の穴のところは、何もない空白であった。

そこで私は乙吉に声をかけた。「乙吉さん!子供たちが、だるまさまの左目をたたき出したのですか。」「へぃ、へぃ、」と乙吉は私の気持ちを察して含み笑いをすると、とびきり上等の鰹を俎(まないた)の上に持ち上げた。「もとから左目はなかったです。」

「そのようにできていたのかね」と私は聞いた。「へぃ」と乙吉は答えた。「このあたりの人は、盲のだるましかつくりませんです。私があのだるまを買った時は、目は何もついていませんでした。去年私が右の目を入れてやりました。大漁があった日の後にです。」「けれど、どうして両目とも入れてやらなかったのかね」と私はたずねた。

「片目ではいかにもかわいそうだが。」乙吉は、「こんど大吉の日がありましたら、その時に、もう片方の目も入れてやります。」といった。私が村を発つ前の晩、乙吉は勘定書を届けてきた。2か月分の精算だ。そしてその金額はとみれば、どう考えても少ないものであり、思いやりという心づけを含めてやってもなお、その勘定は馬鹿馬鹿しいほど正直なものであった。

せめて私にできることは、その金額を2倍にしてあげることであった。すると乙吉の満足げな、その様子は、まったく自然で、しかも品位の具わったものであっただけに、見ていて何とも言えぬ美しさがあった。

翌朝、私は早い急行列車に乗るために、3時半に起きて着替えをした。しかし未明のそんな時刻でも、温かい朝食と乙吉の小さい娘が、給仕するために控えた。最後に熱いお茶を一杯飲みおえたとき、私は何げなく、まだ小さい灯明のともっている神棚のほうを見やった。

するとだるまの前にもあかりがともっている。それに気づくのと、ほとんど同時に、私の目にとまったのは、だるまがじっと私を直視していることであった。ちゃんと二つの目を入れてもらって

―この八雲の書いた一文には余分な注釈はいらないだろう。7才で事故により片目を失ってからそのことの劣等感と不自由さに悩まされ続けた自身をなぞり「片目だるまでは可哀そう。」という。そして、金銭に捉われない八雲が心からのもてなしに報いる「心付け」を乙吉は、だるまの両目に託し大願成就、感謝の言葉に変えたのだった。それは片目の不自由な八雲への心使いでもあったのだろう。

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