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戦国期の奴隷貿易

ガスパール・コエリョは、1572年(元亀3年)に来日。九州地方での布教活動にあたったイエズス会の宣教師である。

イエズス会初代日本準管区長であり、ポルトガルのオポルト出身。1556年インドのゴアでイエズス会に入る。1560年ごろ司祭に叙階した。

肥前大村(長崎県)領中心に活動し,のち下地方(主に肥前地方)の上長を務めてキリスト教への集団改宗に成功する。

天正7(1579)年日本にきた巡察使ヴァリニァーノの布教体制の改革により日本がインド管区を離脱して準管区に昇格すると,同9年初代準管区長に任命されたのだ。

彼は積極的な布教政策を展開し、彼の時代キリスト教は最盛期を迎えた。多くの武将や知識人の改宗に成功した結果であった。

天正14年大坂城に豊臣秀吉を親しく訪問して布教許可状を交付された。秀吉の案内で天守閣に昇り,のち豊後(大分県)のキリシタン大名大友宗麟が大坂城を訪れた折供をしたコエリョも組み立て式の黄金の茶室を見る機会を得た。

キリスト教布教に寛容であった信長のあとをついだ秀吉が朝鮮,明への出兵計画を披露してポルトガル船購入とポルトガル人水先案内人雇用につき斡旋を求めたのに対し,彼は積極的に助力することを申し出た。

そもそも、イエズス会宣教師が危険を顧みず遠い極東の地までやってきたのはヨーロッパで勢力を増してきたプロテスタントに信者を多く奪われたためであり、アジアでの失地回復が目的だった。

イエズス会は巨大な人口を擁する中国人の全クリスチャン化を目的としていたから中国、朝鮮への武力侵攻を画策していた秀吉の計画は渡りに船であった。

彼らはインドのゴアを支配地に置き隣国中国に布教の手を伸ばしつつあった。しかし、元来中国人はキリスト教の来世主義には関心のない現実主義者の国で布教は思うようには進展しなかった。そこでイエズス会は先ず周辺の国をキリスト教国にしてから中国への布教を本格的するための政策転換を図った。

そこで、隣の日本をキリスト教に取り込むための宣教を本格化させた。日本の前線基地化であった。その様な政治的な理由の他に日本人は聡明で宣教師が話す神の原理思想や天文学に大きな関心を寄せていたからである。

 ガスパール・コエリョは天正15年秀吉が九州に下向すると肥後(熊本県)八代の陣に見舞い再会した。

秀吉の九州平定の凱旋を祝って大砲搭載の洋式快速船フスタで博多に行き同地に教会用地を請願して付与された。

しかし予期せぬことが突然起こった。6月19日(7.24)長崎がイエズス会領となり要塞化され始めたことやキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られているという事実につきコエリョらは4カ条の詰問を受けた。

事の状況に激怒した秀吉は翌日伴天連追放令を発布して20日以内に国外に退去することを命じたのだ。

このためコエリョは宣教師を平戸に集めて善後策を協議し潜伏残留して布教活動を継続することを決議した。その一方で,小西行長,有馬晴信のキリシタン大名などの糾合を企て,マニラ総督にも派兵を求めた。

コエリョはイエズス会所領の長崎の確保と防備のために武器弾薬を集め,その要塞化を企て政治的に動くなど,信仰者としての資質や資格に欠けるところがあった。

また軍事侵攻を要請されたスペインのマニラ総督は、長く戦乱にあけ暮れる日本と日本人の勇猛さとを知るにつれ大海を渡る可成りの員数にあがるだろう遠征軍の編成の困難さと犠牲を恐れ遠征を躊躇したのだ。

日本で最初の布教にあたった宣教師フランシスコ・ザビエルも当時の日本の文化水準や国民の知識水準が他のアジア諸国民と違い群を抜いていることをイエズス会本部に連絡書簡を使い書き送っている。そこでは哲学の素養に優れた宣教師でなければ日本での布教は難しいと触れている。幕末日本が軍事侵攻されずに独立を保つことの出来た一つの要因が戦国の日本にあったのだ。

コエリョの行為や考えは秀吉のキリスト教禁教令を呼び、ひいては徳川秀忠、家光の激しいキリスト教弾圧のもとになり、日本に於けるキリスト教布教の不調を招いたことに重大な責任があった。

彼は、直接上司というべきアレッサンドロ・ヴァリニャーノに宣教を優位に行うため、キリシタン大名を支援し、フィリピンからの艦隊派遣を求め続けていた経緯がある。

さらに日本全土を改宗した際には日本人を先兵として、中国に攻め入る案も上司アレッサンドロ・ヴァリニャーノに具申していた。

コエリョは、ヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視したうえにフェスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという行為を行ったのだが、その行為こそ高山右近や小西行長等聡明なキリシタン大名の危惧したことであった。

高山らはこの行為を懸念し、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めたがこれに彼は全く応じなかった。

コエリョの失敗は伴天連追放令という秀吉の政策が長崎の要塞化と鉄砲の火薬原料となる硝石等の貿易決済にあったことに気づかなかったことだ。

器用な日本人は鉄砲の製造技術こそマスターしたが弾丸を飛ばす火薬原料硝石を南蛮貿易に頼っていた。信長が3000丁の鉄砲を使い武田の騎馬軍団をせん滅させた長篠の戦い以降、硝石の需要は鰻上りに増え高騰した。

火薬(黒色火薬)の原料は硝石、硫黄、炭粉だが、このうち主原料である硝石は日本では産出しないため輸入にたよった。硝石は水に溶けやすいため、雨の多い日本では天然資源としては産出しないのだ。
それゆえ火薬は希少・高価で、有力な戦国大名や領主しか得られない特別な軍事物資だったのだ。

主として西国の戦国大名は戦乱で発生する自国内の敵性領民を奴隷としで南蛮貿易の決済に当てるようにしていたが、ポルトガル商人を束ねるイエズス会はそのような決済も認めていたため大量の日本人奴隷(九州を中心に5万人以上)が海外に送られるようになっていた。

秀吉がこのような法令を発布したのは日本の為政者として当然であった。

コエリョは再び大友宗麟や有馬晴信らキリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが秀吉の国内制覇は盤石となり徒労に終わった。

その後、コエリョはスペインのフィリピン総督へ援軍を求め続けたが拒否され、1590年(天正19年)に肥前国加津佐で没した。

秀吉は鉄砲に使う火薬の原料硝石の代金を伴天連といわれた彼らに支払うため日本人奴隷を当てていたことを不興に感じていたが、秀吉のあと幕府を開いた家康もその点では同じであった。

神の前の平等を説くキリスト教の宣教師が日本の奴隷制度を制御できないばかりか事実上加担していた事実に秀吉家康が怒ったことは日本人として当然であろう。

海外へのカトリック布教の名分は神の光栄を遍く弘しめるという信仰の美名に隠れた軍事的野望や経済的搾取の側面もあった。特に徳川幕府は百年に亘った日本の戦国時代の戦乱の原因は南蛮貿易からの火薬の流入にあったと考えたのだ。

将軍秀忠、家光のキリスト教布教禁止令とクリスチャン大弾圧はここから始まり、プロテスタント教系イギリス、オランダを除く南蛮貿易禁止という鎖国につながっていった。

キリスト教棄却を迫る幕府の役人は「踏み絵」を信者に踏ませ転向しない者には死罪を含む苛烈な拷問を加えた。

この歴史を遠藤周作は『沈黙』という小説に書き、外国人監督により映画化された。この映画は、神の実在を問う信仰をテーマに人間を描き話題を呼だ。

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