見出し画像

言葉と自己3

自分に対し自己を説明しようとする試みは、自分は〇〇〇であるとあれこれ と分析することに他ならない。

分析的ということは全て説明することでありいくら説明を重ねても説明する本人には至らない。

自分を他者と比べてその共通性を述べたり、一般的な事柄について抽象化に終始することになる。

本当の自分とは一般的なことを排除した全くの単独者であり、現実にただ一人の個物である。

換言すれば,主語となっても述語とならない存在である。もし私が、あなたに「浅原さん」と呼ばれ私が「はい」と答えたとしよう。

そしてあなたは「浅原さん」と呼ばれ「はい」と答えるその当体、そのものは何であるかと問われれば何んと答えたらよいのだろう。

この答えは先の分析的説明的ではありえない。主語的自分と述語時自分の 未分以前の 自己として説明しなければならないのだ。

 真の実存という立場に立った答えが必要とされる。
すなわち自己の普遍性と個別性といった問題に限定されなければならない。

私は生命誕生以来 一つの断絶もなく続いた歴史の一 焦点でありながら、未来への無数の個体を生み出す 始点にもなっている 者だ。

他の生き物から命をいただきながら、世代をつなぐ普遍的存在から自分とは「自分でないものが自分である」という存在でもある。

以上は自分を身体としてのあり方から述べてみたものですが、精神から見た自分とはどのようなものになるのだろうか。

それは言語を語るものに他ならない。言葉とは主観から発しながら有意味性という客観性を持っている。

その言語の持つ力は私の精神が私の精神作用となり言語共同体という普遍性の立場を成立させている。

私の身体が食べ物によって形成されるように、私の精神は言語共同体という普遍的なエレメントによって成立している。

私は誕生以来、この共同的なエレメントの中で呼吸しそこからの呼びかけによって自らそれに応答しようとする衝動を私の内から生じさせているのである。

先の命題「浅原さん」「はい」「これ何んぞ」という問答の言語的働きについて再考してみよう。

「これ何んぞ、それに答える者は何者」。「おい」と呼ばれ「はい」答えるということがこれは「何だ」と言っているのだ。

この問答の根源は言語の根源からして自己の根源を問いているのだ。この根源はもはや客観的な根源ではありえない。我々が語る「おい」「はい」は言語の持つ根源から語っているのだ。

真の普遍性から出ているものであるからそこを質問者は問いているのだ。また私たちは瞬時といえ、この根源である真の普遍性から離れることはできないのだ。

私は代わる者なき生命のの継承者であり、時空のたった一人の個別的存在者ありながら歴史を証明する普遍的な存在者という二面性を持つ。その両面性が真の自己である。

宇宙即自己が、そのまま普遍性として個として働くことと、個人性が自己自身の内から働くことは一つなのである。

生かされて生きること、宇宙性ともいえるこの普遍性と個人性とも言える個別性が一体となってるのがこの私なのだ。

私たちが実在を知るということは自分の外のものを知ることではない。自分自身を知ることである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?