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江戸という日本国を支えた庶民 2

ロシア帝国海軍軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイルヴィチ・ゴローニンが、千島列島測量中に国後島にて松前奉行配下の役人に捕縛され、約二年三ヶ月間、日本に抑留された事件があった。

 東方へ領土を拡張していたロシア帝国と、松前藩を中心に北方への進出を図っていた日本との衝突。事件の背景として、事前には外交トラブルが発生していた。

かねてよりロシア側では領土拡大の野心に燃えつつも、交易・燃料補給基地としての日本に期待し、 寛政4(1792)年にアダム・ラクスマンが保護していた日本人遭難者・大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節が蝦夷地に来航したのを皮切りに、通商を求める高官・軍人達が訪れていた。

しかし、江戸幕府は形がい化しつつあった徳川幕藩体制をこれまた象徴としての国法、鎖国政策を重んじるが余り、まともな交渉を取り合わなかった。というより頑なに通商を拒否するより外交の選択肢がなかったのだ。

 ニコライ・レザノフが、文化元(1804)年9月に日本人漂流民を伴い、皇帝アレクサンドルⅠ世の親書やラクスマンが入手した信牌をもって外交使節として、長崎へ来航した。しかし江戸幕府は散々待たせた挙句、黙殺に近い態度を取った為、レザノフは切れ、一時は武力による日本への開国強要を皇帝に上奏した程だった。

レザノフ自身はこの強硬策上奏をすぐに撤回したのだが、部下のニコライ・フヴォストフ等が文化露冦・・ぶんかろこう・・という事件をしでかした。

文化露寇(ぶんかろこう)とは、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件で事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件とも呼ばれる。

この暴挙にさすがに江戸幕府は国土防衛の必要性を感じた。その辺り、珍しく対処は早かった。それまでロシアの漂着船に対して食糧等を支給して速やかに帰国させるとしていたロシア船撫恤令を廃止し、文化4(1807)年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視すると云う内容のロシア船打払令を発令し、東北諸藩に蝦夷地沿岸警備強化の為の出兵を命じていた。

そんな情勢も知らず、千島列島に測量にやって来たのがゴローニンの災難だった。

文化8(1811)年、ペトロパブロフスク港にてゴローニンは千島列島南部の測量任務を命じられ、同年5月に択捉島の北端に上陸した。

そこで松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会ったゴローニンは薪水の補給を求めたところ、石坂から振別(ふれべつ)会所に行くよう指示され、会所宛の手紙を渡された。

しかし、逆風に遭遇したゴローニンは未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かわんとして振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。

結果、この行為は日本側にスパイ行為と見做され、5月27日、泊湾に入港したゴローニンに対し、先の文化露冦を受けて強行体制にあった日本側では、松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃を命じた。

まともな交渉は困難と見たゴローニンは、補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送ることで日本側と接触せんとした。

6月3日、海岸で日本側の役人と面会したゴローニンは陣屋に赴くよう要請され、翌4日に、少尉ムール、航海士フレブニコフ、他4名の水夫とアイヌ人・アレキセイを伴って陣屋に向かった。

陣屋で食事の接待を受けたゴローニン一行だったが、薪水補給に対し、松前奉行の許可が出る迄人質を残して欲しいと日本側から要求された。ゴローニンはこの屈辱的な要求を拒否し、船に戻ろうとしたが、そこで捕縛された。

艦長の拘束を知った副艦長ピョートル・リコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることが出来ず、却ってゴローニン達の身を危険に曝すのではと懸念した。

そこでリコルドは彼等の私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退。オホーツクに着いくと、事件を海軍大臣に報告し、ゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ向かって出発した。

ところが、途中立ち寄ったイルクーツクにて県知事トレスキンから、既に遠征隊派遣を願い出ているとの報せを受け、リコルドはイルクーツクに滞在して、遠征隊を待った。

たが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため、遠征隊派遣で日本とまで事を構えることを懸念した本国サイドでは派遣要請を却下した。

それゆえ、自力でゴローニンを奪還せんと決意したリコルドは、文化露冦の際に捕虜となりロシアに連行されていた中川五郎治を連れてオホーツクへ戻った。勿論、人質交換によるゴローニン奪還の為である。

その間、当のゴローニン達は縄で縛られたまま徒歩の、所謂、「キリキリ歩け」状態で護送され、7月2日、箱館に到着。そこで予備尋問を受けた後、8月25日に松前に護送・監禁された。

翌々日から始まった取り調べは、ゴローニンがフォボストフの文化露冦に関係しているのではとの容疑で進められたが、松前奉行・荒尾成章は、ゴローニンの、「フボォストフの襲撃はロシア政府の命令に基づくものではなく、自分もフボォストフとは関係ない。」と云う主張を受け入れ、11月に江戸幕府にゴローニン等の釈放を上申したが、幕閣は拒否した。

帰国の叶わなかったゴローニンだったが、虜囚としての待遇は徐々に改善され、監視付ながら散歩が許されるようになり、居住も牢獄から城下の武家屋敷へと変わった。

だが、望郷の念に駆られたゴローニン等は、脱獄して小舟を奪い、カムチャッカから沿海州方面へ向かうことを密かに企て、これに失敗したため、再度牢獄生活となった。

その後、ゴローニンはロシアへの知識を深めんとする幕府の意図から、通詞(通訳)達へのロシア語教育に務めさせられた。牢獄へやって来た者の中には文化露冦で襲撃に遭遇していた間宮林蔵もいて、間宮は壊血病予防の為のレモンやみかん、薬草を手土産にしながら、様々な観測・作図用具を持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めたが、友好的に振る舞いつつも、ゴローニンのことを間者と見做していた。(有名な話だが、間宮林蔵自身、公儀隠密だったとの説がある)

一方、オホーツクに戻ったリコルドは、中川五郎治や日本人漂流民を伴ってディアナ号と補給船・ゾーチック号の二隻で国後島へ向い、同年8月3日に因縁の国後島泊に到着した。

国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めたリコルドだったが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民護送を感謝しつつも、「既に処刑した」との偽りの理由でゴローニン等の解放を拒絶した。

失意のどん底に叩き落されたリコルドだったが、ゴローニン処刑の報を鵜呑みにせず、事の真偽を確かめるために8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕し、乗船していた高田屋嘉兵衛以下六名をペトロパブロフスクへ連行した。

或る程度の自由は許されながらも、抑留生活を強いられた嘉兵衛だったが、彼はそれにめげず、リコルドとの同居生活の中で親しくなった現地人からロシア語を学び、貿易港でもあったペトロパブロフスクにて各国の商船と交流する等、商魂逞しくした人物だった。

やがて嘉兵衛はリコルドと事件解決について話し合いを持つようになった。

嘉兵衛は、ゴローニンの捕縛は、フヴォストフの蛮行ゆえに幕府が強硬策に出た故のものであることを説明。日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニン達は釈放されるだろうと説得した。

交渉はすんなりとは進まず、翌年には一緒に抑留されていた三人の仲間が病死した。焦る嘉兵衛はリコルド説得を続けた。そしてついにリコルドもカムチャッカ長官だった自分の役職名義で謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。

その頃、幕府側でも強硬策一辺倒は見直されつつあった。
ロシアとの紛争を広げない為にも、フボォストフの襲撃がロシア皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明されることを条件に、ゴローニンを釈放することとした。

その旨をロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成すると、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。そこへリコルドがやって来たのだから、タイミング的にも事件は解決に向かっていた。

文化10(1813)年5月26日、リコルドは、ディアナ号で再々度国後島泊に上陸。

先ずは嘉兵衛と共に抑留生活を送って来た金蔵と平蔵を国後陣屋に送って先触れとし、次いで嘉兵衛が陣屋に赴いてそれまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。

そして陣屋にて「魯西亜船江相渡候諭書」を託された嘉兵衛はディアナ号に戻り、それをリコルドに手渡した。

松前奉行側でもディアナ号の国後島到着を知ると、二人の吟味役(高橋重賢、柑本兵五郎)にゴローニン配下のシーモノフとアレキセイを連れて国後に向かわせた。

だが、彼等はリコルドの謝罪文を、公式なものと認めなかった(リコルドが嘉兵衛を拉致した張本人なので)。
リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められ、これに応じることとした。

6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、高橋は嘉兵衛等を連れて松前に向かい、松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告した。

内容を確認した服部は8月13日にゴローニン等を牢獄から出し、引渡地である箱館へ移送した。

リコルドはオホーツクにて、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手し、ロシアに帰化していた元日本人漂流民を通訳に伴って嵐に難渋しながらも9月11日に絵鞆(現:室蘭市)に入港した。

そこで嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、16日夜に箱館に到着。入港直後に嘉兵衛が小舟にてディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。

9月18日朝、嘉兵衛はディアナ号にてリコルドからオホーツク長官の釈明書を受け取り、翌 19日正午、両国の会見が為され、イルクーツク県知事の釈明書が手渡された。

松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、26日にゴローニン等を解放し、嘉兵衛一行で最後までロシア側に留められていた久蔵を引き取った。

ここにゴローニン事件は解決したが、ロシア側が求めた通商開始については拒絶された。

事件の日露交流への影響は、ロシア側の蛮行から始まり、それに対する報復から険悪化したことだ。日露双方は人質交換のような形で交渉が持たれ、ロシア側の蛮行が不良軍人による暴走で、国家とは関わり合いがないことを日本川が認めたことで解決した。

一方、日露両国とも国交がない状態で起きたこの事件に学ぶところは多い。交易・国防・親善などの様々な観点から事件当事者の報告や情報は重要視された。

帰国後、日本で罪人とされながらも、軍命に従事していたゴローニンと、事件解決に尽力したリコルドはサンクトペテルブルクに到着後、両名とも飛び級で海軍中佐に昇進し、年間1500ルーブルの終身年金を与えられることとなった。

その後、ゴローニンは日本での虜囚生活に関する手記を執筆し、『日本幽州記』が官費で出版された。


この書は三部構成で、第一部・第二部が日本における捕囚生活の記録、第三部が日本および日本人に関する論評で、ロシアのみならず、広くヨーロッパにおいても日本に関する信頼のおける史料と評価され、後には日本にももたらされた。

一方、日本においても、一連の事件の被害者であり、解決における功労者でもあった高田屋嘉兵衛はリコルドを迎えるため松前から箱館に戻った9月15日から称名寺に収容され、監視を受けた。

現代の視点から見れば随分な仕打ちだが、海外の情報に乏しかったこの時代、直に海外と接した者はそれを知る重要な証言者であるとともに、他国に懐柔されたスパイではないかとの懸念を抱かれる存在でもあった。当時の為政者の国際認識はこんなものであった。


実際、中川五郎治も、ロシアから日本に帰国を果たした初の漂流民・大黒屋光太夫も取り調べを受け、日常生活も監視された。

それゆえ五郎治も、光太夫も、そして嘉兵衛もキリスト教に帰依していないことを必死に訴え、嘉兵衛はロシアの地で客死した部下を葬る際に、現地人のキリスト教式の供養を断り、仏式・アイヌ式の供養を行った。

そんな状況にあって、ディアナ号が箱館を出た後も解放されなかった嘉兵衛だったが、体調不良のため自宅療養を願い出たことで許され、後にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金五両が下賜された。

(幕府も嘉兵衛を一方的に疑っていた訳ではなかったことが分かるが不慣れな外交交渉の基準が幕府になかったからである。)

そしてこの事件を受けて、ロシアは日本との国境画定と国交樹立を急務と考えたが、江戸幕府は国交樹立は断ったものの、国境画定の必要性は実感していた。

実際、リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、その実践は容易ではないと見た。

リコルドは交渉長期化がレザノフの二の舞になり、更なる日露間のトラブルを生むことを懸念し、ゴローニンとも相談の上、日本側には箱館を去る際に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6、7月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した。

幕府も、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとし、実際に択捉島までを日本領、新知(シモシリ)島までをロシア領とし、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て文化11(1814)年春、高橋重賢を択捉島に送った。

しかし、タイミング悪く、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後で、国境画定はプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。

もし、この国境画定が幻に終わっていなければ、日露両国は更に多くを学び、日露交流のみならず、幕末の欧米列強との和親条約、修好通商条約の締結にももっと多くの影響を与えていたと思われる。

日露の幕末外交史を日本側の立場に立ち反省すれば、徳川幕閣政府が長く続いたその制度疲労のためとはいえ、また時代錯誤的な鎖国という国法を守る為にたらい回しや黙殺の果てに拒絶して相手を怒らせた意味のない紛争を長引かせたこと、また自国民は受け取りながら、リコルドにゴローニン処刑の虚偽を告げて事態をややこしくした松前奉行の態度も責められる行為である。

ロシア側が相手の態度が気に入らないからと言って、武力行使をしたがるのはヨーロッパの田舎者と揶揄されるロシアのある意味の常とう手段であった。

そんな指揮命令の非近代性のため現地司令官の暴走、略奪(ヴォストフの愚行)を止められず局地戦に至ったのはロシア帝国海軍の汚点でもあるのだ。

ゴローニンは、謂わば、フヴォストフの蛮行に巻き込まれたに等しく、人質要請を拒絶したのも当然の行為だったと云える。

リコルドの高田屋嘉兵衛一行の拉致も問題があるが捕虜を虐待することなく、ゴローニンを助ける為にデマに苦しんだり、様々な要請を却下されたりしても数々の手を打ち続けた粘り強さと仲間意識は彼への評価となる。

 高田屋嘉兵衛も、何の咎もないのに拉致された被害者でありながら、事件解決に全力を尽くし、加害者である筈のリコルドともある種の友情を築いていたことは人としてかなりの度量ある人と窺わさせるのだ。

9世紀の初め、ピョートル大帝が不凍港を求めて南下してきたことは既成の事実である。このようなロシアの南下政策、即ちカムチャッカ半島から千島列島への軍事外交の対策を日本は早くから認識し対処を実行すべきであった。

アメリカはロシアの対日本外交のそれを十分研究し日本にやってきた。そして日本は強硬にでれば最終的には折れることや交渉の期限を切りることも重要であることを認識していた。

その様に実行したペリー外交は圧倒的海軍力を背景に日本を開国に引きずり出したのだ。これらのことはブローニンの著作を研究した結果でもある。

再度高田嘉兵衛に話を戻せば「おこがましいかもわからんが、わしは日本とオロシヤの間を平らかにするつもりだ
捕まった時、そう言ったそうです。

単なる庶民であり民間人の高田屋嘉兵衛が、外交にまで関心を持ち日露の関係改善に一肌脱ごうと決意したのは幅広い教養と海運、造船そして実業家としての実務に裏打ちされた専門知識を持ち合わせていたことも理由の一つであった。当時はそのような庶民は諸外国にはほとんどいなかったであろう。

逆境という立場を変え、新たな自分を仕立て直しまでして国益に身を処すという考えは幕末という時代の日本人の特質であり、特に下層階級に属していた町人らがその職業柄、海外事情を肌で感じていたためで、その代表格が高田屋嘉兵衛ということだった。

そのうち周囲のロシア人が、地位は高くはないが「これは大変な人だ」と嘉兵衛を尊敬し始めた。一介の商人の態度でなく、高潔な思想を持ち立ち振る舞うさまは日本人固有のものであり、彼のゴローニンも当時の日本人の賢さをほめています。

その態度ばかりではなく何が正義で人間として大事かをロシア人に披歴したのです。いつのまにか誰もが嘉兵衛に感服していくのでした。

ロシア人達は彼のことを「タイショウ」と呼びました。嘉兵衛と共に連れていかれた日本人の連中が「大将」と呼んでいたのですが、 みんな嘉兵衛の事が大好きになって「タイショウ、タイショウ」と呼んだのでしょう。

小説家司馬遼太郎は嘉兵衛をこよなく愛しました。『菜の花の時』という長編小説にも書きました。

そして、「今でも世界のどんな舞台でも通用できる人」と称えています。囚われの嘉兵衛と副艦長リコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」の交渉。嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件は、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を、日本側に提出するように説得しました。

そして、ロシア人は嘉兵衛の魂を信用して、彼に全権を一任します。

リコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、この両者の協力が遂にゴローニン釈放にいたる両国の和解を成し遂げたのです。

嘉兵衛は信頼にこたえようとして、幕府を口説きに口説きます。この時彼が町人という色のつかない身分だからこそ、逆に幕側の人間に対し幸いしたのかもしれません。時代は身分よりその人の能力を評価する方向に日本自体が変わり始めていたのです。

やがてロシア艦長は釈放されることになります。嘉兵衛の仕事は終わりロシアの軍艦は去っていきます。そのとき艦長以下、全ての乗組員が甲板上に出てきて、見送る嘉兵衛に叫びました。

ウラア、タイショウ」と何度も何度も。ウラアはロシア語で万歳という意味です。

別れを惜しみ、感謝してくれた。嘉兵衛はこの感激を生涯忘れませんでした。交渉中の緊張とカムチャッカの寒さが嘉兵衛の寿命を縮め、淡路に戻って59歳で亡くなりました。

亡くなる時に、枕元の人たちに頼んだそうです。
「大将、ウラア」と言ってくれ」と。

司馬老太郎は、こう語っています。「高田屋嘉兵衛は大きな仕事をした不世出の人でした。われわれは嘉兵衛のような人ではありません。けれども、人はその人なりに、大将、ウラアということがあるといいですねと・・・

このように本来敵性外国人といわれた人たちにも愛された数知れない多くの庶民といわれた階層の日本人が古い体制に抗し反作用のように生まれてきてのが幕末という時代の特質といってもいいのだろう。

政界、軍事でも下層の藩士であった西郷隆盛、大久保市蔵も然り、彼らが明治維新への変換エネルギーを作りだしたのはは間違えないのだろう。

体制にいて改革意識の少ない旧幕臣が時代の流れに抗がらえず、260年の制度不良を作り出し、内部を錆びつかせ滅びるべきして滅んだといえるのだ。

この内容はWebの記事より流用した箇所が多くあることをお断りしておきます。
 

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