見出し画像

内在と超越

(写真はNoteより転載。我が家の紅白のミヤギノハギも今が盛りと交じり合い咲き誇っています)

内在とはある存在の本性に含まれ、またとどまっていることである。超越に相対する概念ある。

例えば人の良心は内在によって、権威の介入なしにおのずと罪を悔い改めることができる、そのようなことである。

汎神論では神の働きは自然に内在していて、神は世界から超越せる外的存在ではなく人の内在的活動として定義されている。

次に超越もしくは超越論的とは経験を越えて、経験に先だって経験の成立条件を問う際に成立する認識という意味であり、その意味をくんで「先験的」ともいう。

自分を立ち止まって振り返ること、このことを反省といいます。時間で言うと「過去」を振り返えることです。しかも自分の記憶の中で振り返る。そして次にその反省に立って「乗り越え」を図っていく。

行く手に自分の目的を企てる。これを時間的な言葉で言うと現在を超えて向こう目的を目指してることになる。これが「超越」です。

この「反省・内省」、「期待・超越」は切り離して成り立つ事態ではなく「相即」といいます。これを「内在的超越」といいます。「的」が「相即」にあたります。

西田幾多郎の場所的論理と宗教的世界観に「宗教は何処までも内在的に超越でなければならないとある」「逆に超越的に内在的であらねばならないとある」

彼は、内在即超越、超越即内在の矛盾的立場が真の宗教であるという。そして、結論として将来の宗教は内在的超越の方向に向かうのであろうと示唆する。

この意味は、自己否定において神を見る方向へ進んでいくことである。世界が自己自身を失い、人間が人間自身を否定することである。

我々は何処までも内へ超越して行かなければならない。内在的超越こそ新しい文化への途であること示すのです。

西田のいう実在とは自己矛盾的自己の世界のことである。所謂矛盾的自己同一の世界である。それが絶対の無において成立する矛盾的世界であり、内在即超越だと説明する。

内的生命の自覚なくして哲学はない。それは、主語的立場で語られた自己ではなくそれを否定することである。

哲学の学びとは、自己を否定することや自己を忘れることの学びに他ならないという。具体的世界には、生きるものが具体的に直面する矛盾がある。哲学はここから出発せねばならない。別の言葉でいえば、絶対否定即肯定であり、絶対弁証法世界であるということなのだ。絶対の否定が絶対の肯定というべき場所が私たちが拠るべき場所であり自己の根源なのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?