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忠臣蔵を考察 その2

元禄14年3月14日・新暦1701年4月21日・江戸城内の松の廊下において、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を小刀で切りつけた江戸城松の廊下事件が起きた。

当日は、朝廷から派遣された勅使(天皇の使者)と院使(上皇の使者)が、5代将軍・徳川綱吉に年賀の答礼を行う儀式の最終日でした。
赤穂藩主・浅野内匠頭は勅使饗応役(接待役)を努めており、その礼儀作法の指南者が高家筆頭・吉良でした。

武家諸法度に定められた武家同士の喧嘩裁定は両家成敗が普通でしたが吉良に落ち度無し、浅野に即刻の切腹と幕府裁定は禍根を残した。

この事件の幕府裁定に否定的だった江戸庶民は、後の家臣の仇討ち「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」の原因は、浅野が吉良から要求された賄賂を渡さず、様々な嫌がらせを受けていたため浅野内匠頭が怒ったためと囃し立て、むしろ忠孝の誉とした。

実はこの件は、一部でいわれているような「塩」の製法が遠因となったとも言われています。

吉良家は室町幕府創始者足利氏の末裔で、家康本領の地三河国に所領を持ち、吉良(現在の西尾市)周辺では入浜式塩田を経営していた。
苦汁(にがり)分が少ない良質な饗庭塩(あいばじお)の塩田を持っていたことで、財政はかなり豊かだった。入浜式塩田とは、満潮時の海面より低い塩田に海水を流し、塩分をおびた砂を集めます。その後、更に海水をかけて濃度の濃い塩水(かん水)を作り、それを煮詰めて塩を作ります。

浅野家は、常陸国笠間の小藩でしたが、赤穂へ国替えになり、先代の浅野長矩が吉良上野介の先代に頼んで、塩の製法を教えてもらったそうです。

2代目浅野長矩は、製塩に成功し、赤穂事件を指揮した筆頭家老・大石良雄(通称・内蔵助)は販売責任者だったそうです。
赤穂の塩は品質が良く味が良いと評判を得、食用以外の歯磨用焼塩を作り出し、将軍家にも献上したようだ。

品質に勝る赤穂製塩が将軍御用達になると、吉良の塩は売れなくなり、浅野家と吉良家の経済対立が深まっていったといわれ、こんなことが吉良家と浅野家の対立の遠因となったともいわれている。
吉良上野介のそのような恨みつらみが勅使供応指南妨害行為となり本来短慮な浅野内匠頭の恨みが爆発して、あってはならない江戸城松の廊下の刃傷沙汰を引き起こすことになった。今から300余年の出来事です。
この事件の報告を受けた将軍綱吉は烈火のごとく怒り即日の切腹を浅野の言い渡した。

その後については、ご存じの通り、浅野内匠頭長矩の即日切腹の裁きの余波は後日、元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)に赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を起こしました。

その3
https://note.com/rokurou0313/n/n660067b37687

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