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聖一国師その3

一般に朝廷から尊号を賜らない禅宗の僧は、和尚と呼ばれる。聖一和尚は中国留学の後その名は日本中に知られるようになった。藤原道家公の庇護のもと、その広く深い知識を公家社会において浸透させ、亀山上皇はじめ多くの要人たちを受戒し、朝廷からも厚い帰依を受けるなど宗教的な権威を高めていきます。

建長元(1249)年正月には、鎌倉幕府の北条時頼の懇請で建長寺建立の地鎮祭を行っています。
以来京都と政治の中心地鎌倉の禅門両方に多大な影響を与え、国を代表する知識人として政治や外交、文化など多方面に活躍しました。

 いよいよ建長七(1255)年の夏に東福寺が完成し、聖一和尚は東福寺大法堂において盛大荘厳な開堂の盛儀を行いました。東福寺を開山した聖一和尚は、渡宋の折に手に入れた書籍を東福寺普門院の文庫に納め、大陸で得た知識をもとに国内寺院における礼式の基礎を築きました。

この東福寺建立により聖一和尚の名はますます全国の僧俗を問わず広く世間に知れ渡ることとなり、聖一和尚は集まる人々に対して禅道を懇切に教導します。

晩年、病を覚えるときも勤行を怠ることなく続け、自らの禅知識の基礎を後世仏教界を導く標となる三教(仏儒道)の所蔵書籍目録『典籍目録』一巻を著し書庫に備えました。
このように聖一和尚はわが国宋学導入の先駆として偉業をつくし、弘安三(1280)年79歳のとき常楽寺にて示寂。その没後応長元(1311)年、円爾の功徳を嘉し花園天皇から国師の号を賜りました。

聖一和尚とお茶
静岡県は茶の全国生産1,2位を争う。明治維新後牧之原の茶園開発の功があるとはいえその礎は聖一国師だ。

『東福寺誌』に「国師の駿河穴窪の茶植え」という文献がある。
伝えられるところによると、寛元二(1244)年に長楽寺へ栄朝を訪ねた後、駿州の故郷栃沢に帰り着いた師が、母への土産として宋国から持ち帰った茶の種子を栃沢から一山越した足窪村へ播いたといわれています。

足窪に植えられた茶は、足久保川沿いの山あいの風土に適して広く各村に普及し、質も向上していきました。
後世、御用茶の生産などによって足窪の村はたいへん豊かになり、以来茶園は広く駿河周辺に広まり静岡県民は聖一国師を茶祖とあがめるようになります。

 また、聖一和尚が宋国から持ち帰った多くの書物の中に、日本の茶の湯の根源をひらいた『禅苑清規十合(ぜんおんしんぎ)』一冊があります。

「清規」とは、禅院では茶礼をふくめて僧侶の守らなければならない行儀作法のことですが、喫茶喫飯の儀礼が含まれるこの書は、わが国に後世花開いた茶の湯の文化の基底となったものです。

現在静岡市内に茶業関係者が建立した茶祖堂(臨済寺内)があり、聖一国師の木像が安置されています。毎年四月下旬には新茶を献上して茶業発展を祈願する献茶式が行われ、今も多くの茶業者から敬仰されています。
この記事の一部は、Webから引用しました。


 


 

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