見出し画像

単子論 ライプニッツ

微分とは、次元(階層)をひとつ下げる作用を持っています。

空間(3次元)から平面(2次元)を、平面から線(1次元)を求めることができるのです。

まず、ライプニッツは、次元をどんどん繰り下げていく発想をもち、微分という計算方法を確立した。

そして微分がどのように哲学(合理論)につながっていくのかは自分にとって興味深いことだった。

そこから登場するのが、単子論(モナド)という考え方です。微分で次元をさげても完全な0にはならない。

微分は次元を一つさげる作用である。微分によって、次元をどんどんさげていくと、立体は面になり、面は線になり、線は点になっていくように計算できます。

そして、ライプニッツは次元を3→2→1→0と、限りなく0に向かって下がっていきますが最終的に完全な「0」になることがないという特徴に注目した。

最終的に分割できない単位=単子(モナド)
ライプニッツは世界にあるものも、どんどん分割していくと最終的には分割できない要素に行くつくと考えました。

それ以上分割できない、もっとも単純な要素のことを単子(モナド)といいます。

にもかかわらず、自然が発展し、宇宙が構成されるのは、それぞれの単子はたがいに調和が取れた運動をしているからです。

単子は他の影響受けないはずなのに、自然物が形作って構成されていくのはなぜなのでしょうか。

ライプニッツは、単子同士が調和し構成するする原因に
「神の予定調和」という概念をおきました。


ライプニッツはこの単子(モナド)という概念をもとに、哲学的な問題に取り組んでいきます。「神の予定調和」という概念、これが単子論(モナド)なのです。

ライプニッツは単子論によって、単子は非物質的なので、経験論では説明できないということを示したのです。

私は数年前急性の心筋梗塞に襲われ九死に一生を得た。それから再発を防ぐ意味と山野のトレッキングの継続のため血圧管理を日常化している(今は当時ほどではない)。

血圧は心臓が機械でないから不規則で変動が多い。そこで平均血圧を管理したらと思い最大と最小の血圧を測定し表にした。

そこで気が付いたが平均値は足して2で割るのではない。3で割らねばならない。

最高血圧と最低血圧の二つの変数だから二次関数的な軌跡となる。Y=Xの二乗の微分は2x、そこから最大値までの変化の軌跡の半分は、積分しなければならない。3分の1である。

そんなことから微分積分に目がいき、微積分最大の功労者17世紀のドイツに生まれた数学者で哲学者ライプニッツの書いた哲学の啓蒙書、単子論をもう少し勉強してみることになった。

ライプニッツの哲学で、宇宙は互いに独立したモナドからなり、宇宙が統一的な秩序状態にあるのは、神によってモナド間に調和関係が生じるようにあらかじめ定められているからであるという学説、モナド論を発表した。

物質的な原子というものは、それ以上分割不可能な存在で世界の究極的な構成要素と考えられていました。

しかし、物質が分割不可能なのは、現時点での技術的な限界か定義によるもので、いかに小さくとも何らかの空間的広がりを持つ以上、原理的に分割可能性が残ります。


それに対し空間的広がりを持たない、真に分割不可能な単一の実体は形而上学的(メタ-フィジカル、超-物理的)なものであり、それを「モナド」と名付けたのです。

真に分割できないものというのは、分かりやすく言うと精神や心です。

物体→植物→動物→人間(→神)の順に従い、高度な意識を持つモナド(非物質的原子、精神的実体)であり、これら各モナドのもつ精神(心)が互いを互いに映し合う鏡のように世界を表出(認識しつつ同時に表現)することで、全宇宙は成り立っているとしたのです。

これは何処かで聞いたような言葉です。そうです仏教の華厳経に書かれたインダラの網のことです。

インドラの網は仏教用語。中でも華厳思想の用語です。インドラはインドのみならず、古くはメソポタミアやトルコなどでも信仰されていた神で雷を操る神であり、象に乗り、ヴァジュラ(金剛杵:こんごうしょ)という武器を手に持っている戦いの神です。

バラモン教、ヒンズー教では神であり、ゾロアスター教では悪魔とされました。

この神が仏教にも取り入れられ「帝釈天」となり、梵天と並んで仏教の二大護法善神とされています。

須弥山(しゅみせん)の頂上に「忉利天」(とうりてん)と呼ばれる場所があり、中央にインドラ(帝釈天)が住んでいる善見城(宮殿)があります。この宮殿には、網がかかっています。この網には、一つ一つの結び目に美しい珠玉の宝石が縫いこまれており、それらの宝石は互いに映じ、映じた宝石がまた映じ合うというように、無限に反映し合って輝いています。

これが「インドラの網」と呼ばれているものです。華厳思想では重々無尽の法界縁起を説明する際の比喩として用いられています。

帝釈天が世界に網をかけた。その網目は他の編み目と無限につながっていて
その全体が網である。

個が単に集合して全体なのではなく
個の限りない「関わり合い」の総体が全体である。
たから網がなければ網目もないが、網目が一つでもなくなると網もなくなる。
これは仏教の縁起であり世界が相依性で成り立つことを表している。

私たちは独立した存在ではなく他との関わり合いの中で生きていることを表現した言葉です。

宮殿に掛かる網、そこにたくさんの結び目に綺麗な玉が付いている。

その玉の中にすべての像が現れ出てくる。どの玉も、どの玉も無数の光、無数の色をお互いに重なり合って映し出す。

しかもそれが決して混乱しない、あるいはボヤッとしたものにならない。いわゆる個別性をきちんと維持しているのです。これはライプニッツの言っている予定調和に他ならないのだろう。

華厳経の本質は『事事無礙』です。基本的に物事と物事とが決して個別的にバラバラに存在するわけではなくって、そこに深く関わり合い、交わり合う、あるいは融合しあう、そういう世界が実は真実なのだといい、こういう捉え方が予定調和という考えに矛盾しないということであろう。

日本文化は仏教に密接につながる。華道は、小さな枝の中に世界を表現し、また庭をつくれば坪庭に全宇宙を見る。

三畳の小さな茶室にも、山川草木の自然を凝縮させる。

これらを『縮みの文化』というらしい。仏教からの影響を強く受け、その本質が『縮み』としたら文字道理、微分やモナド論に並び立つ考えである。

日本人は数学の分野や理論物理の分野でも優秀な学者を多く輩出してきたのはライプニッツらと同じ何かを共有しているからなのだろうか。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?