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直感の哲学

直感を思惟するのは、西田幾多郎の「純粋経験」「行為的直観」「ポイエシス」などの概念がどのようなものかを思惟するに他ならない。
ヨーロッパ思想の原義では、「私」という主体は重要な意味を持つ。何故かと言えば、この「私」が環境(自然)を制御したり、「私」に適した社会を実現をすると考えるからである。

しかし、東洋の日本では伝統的に「私」が主張されない。日本語では俳句表現のように、しばし主語が省略され主語を重要視しない。和歌でも然り、ほとんどの場合主語がない。
舞台に溶け込む「私」が無化され「切れ」に昇華されるのです。表現を変えれば「私」がないということに環境や自然と一体になった直感に響く真実が発露されるのです。

西田の「純粋経験」とは体験をいう。その行為を反省する時始めて「私」出てくるのだ。
「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだし、経験があるから、それを反省的に理解してこそ「私」がでてくるという。

西田は、体験そのものである「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるが「個」があって経験があるのではなく、先の経験があって「個」があるのだという。
「私」という主体が自己意識や行為を作るのではなく行為そのものに自分が表現されると考えた。

このように、「私」という主体が先行するのではなく、「経験」がそのままにあり、「行為」を通し「私」が出てくるという発想だ。

さらにいえば、心の創造ではない「無我」や、「対象と一体になる」という事柄も理解が進むのである。

西田の「行為的直観」という表現も面白い。本意は「物となって考え、物となって行う」ということです。

「西田のいう直観とは、何かが憑依し、その衝動により、「私」や「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。

芸術家が、対象(もの)に向かい、「形」を生みだす時、彼に形となりうるイメージが頭にあるのではなく彼は、対象に触発され、その本質を「私」など消し去って、ただひたすら行為するのです。
その行為が対象を直観するのです。ここでは、表現という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではないことを言っています。
このような行為的直観が、自我を消し去り、無我となり対象と自分を一体化します。
 それが「ものになる」ということです。その時に、いわば意識の見えない奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出すことなのです。

西田の根底には禅の経験がある。日本文化の基底は禅といってもよい。禅は己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神です。己を無にして「物となって見、物となって行う」ということです。私心も作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差出し、やるべき働きを行うことを言うのです。

西田はこのことを次のように言います。
「「私は日本文化の特色と云うのは、何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。己を空うし物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云うことでなければならない」

自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体にする心情は、自分自身が物となることであるが、このことは先にあげた芸術活動などを考えればわかりやすいことだし、あるいは、一幅の絵を見、茶碗を愛で、桜に感動するという日本的な繊細かつ美的な文化を創り出していることからもわかるだろう。

最後に西田の「ポイエーシス」です。
「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。
人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」

世界という自然の中に「私」という主体があるのではなく、まず経験がありそのなかで「私」がどう生じるのか、という発想こそが直感を思惟することなのだろう。




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