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建礼門院徳子

古今無残な死を遂げた女性は数多くいます。
これを不幸な出来事として歴史や文学の世界では多くが取り上げられ世人の涙を誘ってきました。

が、ときには生き残れた人に対してこれ以上の不幸は無いだろうと亡き人以上の同情を浴びた女人がいました。

建保元年(1214年)12月13日は、わずか8歳で入水した安徳天皇の母、平徳子が亡くなった日です。建礼門院というのは高貴な人に死後贈られる院号です。

おそらく、日本史上でも最も不幸に見舞われた女性の一人ではないでしょうか。
徳子は、父平清盛が平氏の棟梁になった二年後に生まれました。平清盛は1156年(保元元年)、後白河天皇と崇徳上皇の対立によって起こった保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方につき勝利をおさめ、栄達の基礎をつくりあげました。

 保元の乱後、後白河天皇が皇位を二条天皇に譲って院政を開始したことで、後白河上皇派の信西と二条天皇派の藤原信頼が対立をします。

 そして、1159年(平治元年)、反信西派と源義朝と結び付いたことで平治の乱が発生する。

 このとき、後白河上皇方についた清盛は、義朝を破り、反信西派を一掃して、武家政権樹立の基礎を築きあげました。

 平治の乱では、のちに鎌倉に武家政権を築く源頼朝が初陣を果たしているが、清盛の母二位の尼の助命で伊豆国の蛭ヶ小島へ流されている。

『平家物語』には多くの女性も登場します。 その中でも特に数奇な運命を辿ったのは、平清盛の娘・徳子(とくし/のりこ/とくこ)。 またの名を建礼門院(けんれいもんいん)と言います。

私は小学生4年の時の愛読書が平家物語であった。日本人の特有な無常観に惹かれていたせいか、冒頭の、
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」はえらく気に入っていた。

琶法師が主に西日本を中心に語って広めたたせいか、その口調の良さからも多くの人に親しまれた。
「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常を表している。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理を表している。今を盛りを誇った平家も今では懐かしい存在となってしまった。
所行は無常、まるで春の夜の短い夢のようだ。
どんなに勢いのあった者でも最後には滅びるさまは、風に飛ばされる塵と同じだ。これが人の世の道理である」という意味だ。

「諸行無常」も「盛者必衰」も仏教の価値観で、平家物語はこのような一般の人が分かりやすく理解できる「仏教観」が軸になっている。

『平家物語』灌頂巻、大原御行、六道之沙汰では、後白河法皇と建礼門院徳子の会話で物語が終わりを迎える。大原、寂光院まで訪ねてきた後白河法皇。
始めは、時には敵対した義父に会うことをためらった徳子は居留守を使ったのでしょう、彼女を長く待つ御前。
見かねて御前に進む徳子は昔を語り始めます。

人として生まれ、一度の命で、多くの幸せも、多くの苦しみも見た徳子。彼女が経験した哀しい事柄が、『平家物語』を総括します。

徳子の父・清盛は次々に政敵を追い落として行きます。その権勢をバックに高倉天皇の後宮に入って7年、ついに徳子は懐妊しました。一族の栄華を築くためにその誕生が宿命づけられた徳子。

治承2(1178)年11月12日の夜明け前、徳子は産気づきます。都は大騒ぎで平家一門はもちろん、関白や大臣、後白河法皇までもが様子を見に来て、安産のお供えを送りました。

けれど徳子は難産で、徳子の両親・清盛と時子は何も手がつかない様子。清盛は後に「戦よりも怖かった」と言うほどでした。しかし無事、男の子が生まれました。後の安徳天皇です。

戦国時代、織田氏も豊臣もその長男や人望のあった弟を失い一代で凋落したように、平氏も長兄重盛(しげもり)の死によって、一族の繁栄に陰りを見せ始めました。父・清盛は敵対勢力となる大臣を次々に流罪にし、後白河法皇をも幽閉して世上の反発が強まっていくのでした。

世上不安もあって徳子の夫である高倉天皇は落ち込んで病に伏せります。
徳子自身も、どうなるかわからないという不安でいっぱいの殿中の生活でした。治承4(1180)年4月。高倉天皇は、徳子との皇子・安徳(あんとく)天皇3歳に譲位しました。

即位から2カ月経った、治承4(1180)年6月2日。清盛のいる福原に都が移され、安徳天皇が引っ越ししました。それに徳子や高倉上皇、後白河法皇も同行します。

そして東国ではついに源頼朝が挙兵をします。清盛は都を京都に戻す事に決め、安徳天皇、徳子たちも京へと帰りました。

清盛ほどの武人政治家が頼朝の助命をしたことが平家の滅亡を呼んだのですが、非情に徹した頼朝自身、その非情さが災いし、わずか3代で源氏直系将軍廃絶の憂き目を見たのです。当に平家物語の主題、因果応報、諸行無常を地でいく結果となりました。

治承5(1181)年1月15日。高倉天皇が21歳という若さで崩御します。そして清盛もその2カ月後に亡くなってしまいました。
一代の強権で築いた権威ほど脆いものはありません。まもなく都に侵入した木曽義仲により平家一門は西国に落ちていきます。

寿永2(1183)年7月24日の夜更け。同母兄の宗盛が、徳子の元にやって来て、「西に逃げる」と告げます。徳子は泣きながら、それに従います。そして翌25日には、平家一門全員が都から離れました。

最初の避難地九州も安全の地ではなく平家一門は讃岐に逃れます。そして負け戦が幾度か続き壇ノ浦で最期を迎えます。

最早これまでと徳子の母であり清盛の妻、時子は三種の神器を身に着け、安徳天皇8歳を抱いて海に身を投げました。時子に抱かれた安徳天皇は、「私をどこに連れて行こうとしている」と聞きます。
時子は幼い天皇に向かって運が尽きたことを説明し、「ここはつらい場所ですから極楽浄土に行きましょう。波の下にも都があるのです」と泣きながら話しました。

そして安徳天皇を抱いたまま船から飛び降り、ともに命果てたのです。安徳天皇は平清盛の孫であり、このシーンはまさに平家の終わりを告げる象徴的なものですが幼子を抱き最期を遂げた祖母の死は長く日本人のせきあいの情として語り繋がれた。

徳子はこの有様を見て、焼石(カイロ)や硯を懐に入れて、後を追うように海上へと身を投じました。
しかし波間に浮かぶ長い黒髪が鎌倉軍の武士の長い鉤に絡めとられ引き上げられたのです。
徳子は義経の乗る船に移されます。戦いの終盤、平家一門は次々に海に身を投げて、自ら命を断ちます。然し生け捕りにされた者はほとんど処刑されました。

平家の生き残りの1人、平時忠(たいらの ときただ)は、徳子の母の兄にあたる人物です。時忠は武士ではなく文官であった事から流罪となり、都を去る時に徳子に会いに行きました。徳子はただ1人残った身内との別れを、涙を流しながら惜しみます。

壇ノ浦で母と子安徳天皇と共に死を覚悟したにもかかわらず、心ならずも引き上げられ、京へと帰って来た徳子は、東山の山麓長楽寺にひっそりとくらしていました。
しかし出家したにもかかわらず、亡き人々との思い出は尽きず、悲しみにくれた毎日でした。

徳子は人目のない山奥に籠ろうと、9月末に大原の寂光院へと移りました。住むところは違えども我が子である安徳天皇を思い出し、寂しく過ごす日々でした。

年が明けて、文治2(1186)年2月4月下旬、後白河法皇が大原寂光院の徳子の元へとやって来ました。

徳子は後白河法皇と対面し、「私の人生はまるで六道を巡るようでした」と語ります。六道とは、仏教でいうところの、輪廻転生を繰り返す6つの世界です。

栄華を極めた平家一門の娘として、帝に見初められ安徳天皇を産んだ頃は、まさに「天上界」。しかし木曽義仲によって都を追い出されました。

船の上で飢えに苦しんだ頃は「飢餓道」、戦闘につぐ戦闘はまさに「修羅道」、そして安徳天皇が沈んだ壇ノ浦は「地獄道」を目の当たりにしたと語り、法皇たちはそれを聞いて涙を流しました。

大原御幸

後白河法皇が帰った後も、徳子は亡き人々の冥福を祈り続けます。そして年月が過ぎ、建久2(1191)年の2月、生き残った平家の娘・徳子は亡くなりました。

徳子に仕えていた女性たちは最後に「往生した」と『平家物語』では書かれています。「往生」とはただ亡くなったという意味だけでなく、悟りを開いて極楽浄土に生まれ変わるということです。

しかし当時はまだ「女性は極楽浄土へ行けない」という教えがありました。しかし仏教説話には「竜女成仏」という教えがあります。これは8歳になる竜神の娘が、女性で竜の体を持ち、まだ幼いにも関わらず悟りを開いて往生したという話です。
つまりこれと同じように、徳子たちも女性の身ながら極楽浄土へ生まれ変わったのだ、と書かれているのです。

平家一門の冥福を祈り続けた徳子の生涯、その冥福を祈るのは後世に生きる私たちも同じ思い。
今もなお語られ続けられているのは、日本人の祈りの形であり、
死生観の一つの形かもしれません。
参考*WEB上から


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