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井筒俊彦 意識と本質

井筒俊彦の時空の共時的饗宴に招かれたのは、サルトル、リルケ、マラルメといった人々、また松尾芭蕉、本居宣長、老子、荘子、朱子、程兄弟など宋学の儒者、スフラワルディー、イブン・アラビーいったイスラームの神秘哲学者、僧肇、道元、青原惟信、空海といった仏教の達人、さらにユダヤ教神秘主義、古代ギリシア哲学、インド古代哲学の哲人たちだった。

人間にとって意識とか本質の肯定否定はとても大事な概念です。しかし、井筒はそれよりも大事なものは「言語」だという。
井筒俊彦は空海の「真言・真なるコトバ」に触れ、祈祷、すなわち祈りのコトバは私たちが暮らすこの次元に存在するとともに、異界と呼ばれる次元にも同時に存在するという。異界というのは私の現象界に対する、すなわち実在界にということだ。

言葉や文字は、人間の意志とか感情を伝達する目的で日常的に使われているが真理そのものであるから、聖なる世界を世俗の世界に住む人々に直接的に伝達する手段でもある。
現世に生きる者は、聖なる世界、異界からの発信を受け止め、普段の生活の中で特別な意識を持たずに接している物や声、香りや味、触感、考える対象等あらゆるものの中に、神仏のメッセージが密かに組み込まれているという発想の転換をしなければならない。

井筒俊彦がいう「言葉・コトバ」はある事物を指示する道具ではない。むしろ、「コトバ」が混沌から実在を呼び起こす創造的エネルギーなのだ。

 「存在はコトバである」と彼がいう時、「存在」は事物があることを意味するのではない。「もの」をあらしめる理としての働きを指しているのだ。
仏教の空思想では、現象は、属性もなくただ空だという。しかし虚無になるかというと、そうではなくて、蘇えりである。その無分別化されたものの再分別化の過程、プロセスが大事なのである。
それは、コトバによって、すなわち名づけられるものとして蘇るだけでなので実在として蘇るわけではない。ことばの世界としてあるというだけなのだ。無」や「空」や「理」ということをどのように言語化できるのか、実在化できるのか、その可能性が問われるのである。
井筒の実在論とはこのようなことを言うのだろう。

これが彼の神秘哲学であり「コトバ」の神秘哲学である。「コトバ」を根源的に論じることは絶対者に接近を試みることにほかならない。彼はここで「コトバ」への論究が、「神」を見失った現代における「神学」となるというのである。

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