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小泉八雲の生涯ー10

焼津時代2.写真は府中、現静岡市へ抜ける日本坂万葉の小道

話は前後します。わたしが今、小泉八雲をNoteにアップしているのは病室です。そろそろ入院も長くなり、時々鬱状態になります。とりあえず纏め上げたいという一心で書いています。(ほかに著作したものがります)

病院は2か所目です。双方の看護師さんや働く人に小泉八雲を知っているかと聞けば「知らない」が大半でした。子供時代の怪談から親しみ当地に関したエッセイを読みふけ中学生時代にはいっぱしの専門家気取りの私からすればショックでした。高学歴の人にはどの程度知れているかはわかりません。

しかし実業に汗する現在の若者が小泉八雲の作品名はおろか名前すらも知らないということは日本人全般の一般教養の低下か、明治時代から国籍を問わづ多くの人たちが研究してきた日本及び日本人の宗教、思想、哲学、風習、歴史を戦後のどこかに置き忘れてしまっていることなのだろうか。

私は英語も好きでしたから八雲の怪談原文を拙いながら和文化していました。そんなところから日本語本英語本どちらの内容も長い年月の間にもその内容はよく記憶しています。

八雲の前半生も家の事情で貧しく高等教育はニューヨークの図書館での独学だった。そして実業には向かない自分の特性を見極め実業を離れジャーナリストとしての地位を固めていきました。

翻って自分はといえば八雲と同じような半生を送っています。父親の事業の失敗で貧乏な少年時代でした。違うのは機械技師として大手の企業で機械技師として採用されたことでしたが専門性の欠如があり企業が機械工学の専門課程へ送り出してくれたことです。もちろん授業料は会社もちでした。

しかし歴史家になりたいという思いは強く会社はやめました。やはり独学で勉強を始めましたが専門家に直接指導を受けないと向上できないことがわかり京都にある京大教授であった久松真一先生が主催したFAS協会の末席に加えさせていただき近代禅の思想、哲学全般を学びました。お陰で下手ながらもこのような文章が書けるようになったのですが、八雲と違い家族を養っていく必要もありましたら自営業に専念したため彼のように初志貫徹とはいきませんでした。

焼津に最晩年大きな足跡を残した八雲でしたが幼少の頃より自分の思いのこもった作品を焼津時代3で数編紹介し解説をしようと思います。


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